Preface
こちらはEncyclopedia Dragonica本編の前日談となります。
龍を拾った。
目の前に置いた大椀の中に丁寧に粉をふるってから、祝融は頭に浮かんだ文章を訂正した。水や卵といった、その他の材料は既に大椀に入っている。
龍に見つけられた。
この二つは、まったくの別物である。喩え結果が同じであろうとも。
常夏の島では、朝は突然訪れる。夜明け前に一雨来た直後とあって、今日の陽射しは一際強い。建物の中にはいまだ去りきれなかった夜が到るところに残っているようだというのに、窓の外は研きこまれた水晶のように輝いている。
まるで別の世界を垣間見ているような不思議な気分になる。
祝融は両手を大椀に沈めて、暫く指の間に触れる感触を楽しんだ。冷たくさらさらとした粉、どろりとした生卵、粉よりもじゃりじゃりとざらついた砂糖、まだひんやりと硬い塊は豚脂だ。これから、これらをよく混ぜ合わせるが、練りすぎてはいけない。練りすぎると最後に揚げたときに割れ目ができないことがある。
それでは意味がない、と考えた祝融の耳に背後の戸が軋む音が届いた。
「鱗花。」
「……花鱗。」
名前を呼ぶと、眠たげな声で応えが返る。ということは、今は男性体であるらしい。
やはり、ぺたぺたと軽い音を立てて裸足で近づいてきたのは、夜着を纏ったままの少年だった。
背丈はまだ祝融の胸元にも届かない。手元を覗き込むために伸ばした首が細い。
これこそが、祝融を『見つけた』龍だった。龍といっても、祝融とまみえた時から人の形をとり続けているため、龍であったときの外見は祝融の記憶の中で霞み始めている。
輝く飛沫に包まれ、海面に躍り出た、あの生き物。
今ではもう夢のようだ。
最初は食ってやろうと思ったのに、と苦笑しながら、眼下の形の良い後頭部を祝融は撫でてやりたくなったが、己の手の状況にそれを断念した。今では逆に食べさせるものを日々料理しているのだから世話はない。龍は人と同じものを食べ、同じように眠って、祝融の傍で暮らしている。
人の姿といっても、まだはっきりとは定まっていないようで、その姿には揺らぎがある。大抵、年の頃は十を超えたか超えないか位の子供に見えるのだが、その時々によって性別が違う。
年齢は、龍が生を受けてからそれほど時を経ていないことが自然に反映されているのかと思う。性別というのは、龍にとってはあまりこだわりのある事柄ではないようだ。
容貌は幼いながら、空恐ろしいほど端麗である。なまじ整っているせいか中性的であり、今はどちらの性別でもあまり差異はない。実際のところ、確認しないと判らないことさえあるのだが、成長すればこれも変わってくるのだろう。
最初の遭遇の際には女だったので、鱗花と名づけた。男にもなれると分かって、一応の便宜上、男になっているときは花鱗と呼ぶことにした。
それにしても少し早まったかと考えなくもない。
「何?」
「開口笑。点心だ。」
生地を折るようにしてまとめながら、祝融は作っている最中の料理の名を答えた。
開口笑とは、祝祭等によく出される揚げ菓子である。
揚げている最中に割れて中身を見せるのが、口を開けて笑った様子にも似て、慶事に相応しいと考えられているからだろう。
「劉に子供が出来たそうだから。」
「てつだう。」
大まかに料理を説明して、知人に出産祝いとして贈ろうとしている旨を告げると、打てば響くように花鱗が言った。そういえばまだ彼が人の赤子を目にしたことがないことに思い至って、実物を見せてみようかと思う。
龍にとって未知のものは数多い。己にとっても同じだが。
「手を洗っておいで。ついでに顔も。」
首肯し、踵を返した少年の姿が廊下に消えると、祝融は生地を棒状にまとめた。それを端から均等に分けると、それぞれの塊を団子に丸める。
龍にあれこれと指図をしていると、妻を得たこともないのに、父親になってしまったような気分になる。他人にも、二人の有様は拾い子と養い親というように捉えられているらしい。
けれど、この関係は擬似親子関係といった一言で括れるほど単純なものではない。
花鱗が、いや鱗花が祝融を見つけたのである。
幾度も夢で繰り返し訪れたこの島に降臨した、あの威に満ちた生き物。
姿の細部を忘れても、あの時、身体の隅々まで溢れた感情はいまだ此処にある。
そして、それ以外にも。
厨房に戻ってきた子供と入れ替りに庭先の井戸まで行こうとして、祝融は思わずまじまじと相手を眺めた。
「鱗花?」
「祝融は、これがいいのかと。」
答えた龍は、今度は女性体になっている。よくもそんなに目まぐるしく変化できるものだ、と祝融は日頃の感嘆を新たにした。というのは振りで、実際は龍の発言から思考を逸らせただけだと、己でもよく分かっている。
地下から汲み上げる水は冷たく、祝融は手を清めてから、あらためて両手で掬って口に含んだ。
龍は聡い。龍がそう感じたのなら、祝融は本心では龍に鱗花であって欲しいと思っているのだ。最初に会ったのが女性体だったからそちらの方が落ち着くとか、そんな理由ではもう誤魔化せない。
優しくしたい、慈しみたい、大切にしたい。
龍が共に過ごすようになってから、心の中に生まれた感情を数えた。
時折、あんなに安易に名付けるべきではなかった、と思う。
人の言葉は物の象形だ。言葉自体が定義となる。目に見えるもの、見えないもの、等しなみに並べ、分類し、整理する。名前を付けるということは、即ち言葉で存在を縛るということだ。
あれは果たして龍だっただろうか、夢の中から現れたようなあの生き物は。
腰を伸ばして、祝融は以前それが躍り出た滄海を眺めた。見渡す限り、光が惜しみなく降り注いでいる。
この島は世界の果てだ。祝融が生まれ育った国から遙かに遠い。
故郷にも龍は居たというが、それは彼女と、鱗花と同じものだったのだろうか、と祝融は時折考えることがある。人の形を真似し、人と共に暮らすことを選びながら、人とはまったく違う時を生きてゆく生き物。気紛れな擬態を繰り返しながら、その根源は確固として強く、決して混ざることがない。
己で投げ掛けておきながら、龍とは何かという問いには決して答えがないことは知っている。己がそうであるからといって、人が人を完全に説明しえることはないのだから。
祝融は眩しさに目を一度強く瞑ると、再び眩暈に襲われる前に屋内に退却した。
厨房では、鱗花が先程と同じ姿勢をして待っていた。待たせたことを咎めもせず、黙って生地を置いた台の向こうから見上げる。
まだ言葉は覚束無い。時折、本当に生きているのか疑いたくなるほど整った顔は、それに相応しく無表情だ。ただ、嬉しいときに目を細める程度の表情の変化は表れるようになってきている。
「これを塗って。」
卵白を入れた小ぶりの椀を渡すと、鱗花は祝融の真似をして慎重に刷毛を使った。
人の振りをして生きていくならば、人の善いところだけを知って欲しい。
美味しいものを食べて喜び、多くの人に会って新たな知識を得るように。人が人を思いやるように。周りの者が龍を慈しむように。
もっと笑って欲しいと思う。
それだけであればどんなにいいか、と鍋に入れた油の様子を見てから、祝融は鱗花が卵白を塗り終えた団子に胡麻をまぶした。
祝融がこの島に辿り着くこととなったのは、仕えていた皇帝が不老不死を求めて方士達を世界の四隅に旅立たせたからだ。
己の本分はあくまでも料理人であり方士ではないと考える祝融にとって、雇い主の願望はまったく興味が湧くものではなかったというのに、目的地とはかけ離れた、不意の暴風雨で流され着いた島で、それを理解するようになったというのは些か皮肉なものだ。
己に聞き返すように何度も繰り返している。鱗花が祝融を見つけたのだ。その逆ではなく。
それはつまり、訣別の時も彼女が選ぶということだろうと祝融は思う。鱗花が意図せずとも、重なっていた時間はいずれ離れる。それが人と龍の間に横たわる裂目だ。
静かに団子を熱した油の中に沈める。底に沈んだ団子に細かな泡が纏わりつくのを眺めた。
笑わせたいと願うと同時に、泣かせたいとも思う。
涙が自分だけのために流されるものであればいい。自分をただ一片の疑いもなく慕えばいい。その目が映すのは自分だけでいい。
守りたい、閉じ込めてしまいたい、色々と教えてやりたい、誰にも会わせたくない、大切にしたい、踏み躙ってやりたい、自分のものであってほしい、いつでも手が離せるようにしておきたい、せめて未来永劫消えない疵を残してやりたい。
さてどうしたものか、と考えて、祝融は曖昧に笑った。人とはかくも矛盾だらけの生き物であることか。
きっと龍の世界はもっと単純だろう。これまではずっと海の底でひとりで生きていたのだから。これからはどうなっていくのだろう。人と触れ合っていくことで。
浅ましく、残酷で、優しく、慈愛に満ちた、身ひとつに数多の矛盾を孕んだ生き物は、彼女をどのように変えていくのだろう。
その末を見届けることはできないが。
いつの間にかぱっくりと割れ、浮かび出てきた団子に祝融は油を掛けた。こうすることによって、揚がったときに表面の色が均一になる。
結局は、とその作業を飽きずに繰り返しながら思った。心に浮かぶすべての欲望は偽りではない。どの行動もとり得るものではある。しかし、それは突き詰めてしまえば、結局は。
もうどうしようもなく、愛おしい。
「熱いから下がって。」
鍋の近くに立って、またしても手元を覗き込んでいる鱗花に祝融は注意した。おとなしく一歩下がって、こちらを窺うのに頷いてやる。
彼女にもいつか分かるだろうか、誰かに会えて嬉しいという気持ちが。
会えた、というその事実だけで、幸いに思えるということを。
「……あつい。」
耳にしたばかりの言葉をなぞって、鱗花が喋った。
「あつい、あたたかい、太陽」
連想した言葉を繋げていくように、一つ一つゆっくりと発音している。「熱い」と「暑い」の違いは後で説明しなければと、綺麗に色づいた揚菓子を鍋から引き上げながら祝融は脳裏の片隅に走り書きをした。
「まぶしい、あかるい、祝融」
唐突に出てきた固有名詞に、その名を持つ者としては思わず手が止まった。次に何を口にするかと、思わず身構える。その様子には頓着せずに、鱗花は祝融を吸い込まれそうな瞳で真直ぐに見つめて言った。
「あなたのそばは、あたたかい、あかるい。」
祝融は顔を上げて、窓の外を見た。暑い、暖かい、眩しい、明るい。鱗花が表現したままの世界が、実感とともに迫ってくる。
そのただなかで、龍と出会ってから次第に増えていった願いを数えた。
誰にでも言継ぎたいほど美しいものも、己の眼を背けたいほど醜いものもすべて。
それらはもう諳んじることができるほど、いつでも祝融と共にある。
「卓の準備をしてくれないか。」
届けに行く前に、出来上がった点心の味見をしようと言外に伝えると、鱗花はこくりと頷いた。手を伸ばし、今度こそ寝癖のついたままの髪を撫でると擽ったそうに目を細める。
そして、祝融は、願いの一つが既に叶っていたことを知る。
楽園と謳われる島は、今日も光に満ちている。
ここまで読んでくださりありがとうございました!




