Ⅶ
「こちらが原本です。」
暗くなってから漸く戻ってきた三人を出迎えた瑛鱗には、一目見ただけで全てを悟ったらしい。少女達は何処かに連れて行かれ、エンは先刻通された楼の最上階へと再度案内された。この部屋は一般客には公開されていないらしく、階下は大入り満員だったというのに、此処にはエン一人しかいない。
(まあ、解ってはいたんだろうな、黄家も。)
双子だと紹介された二人のうち、片方が人ではないことはエンにとって明白な事実だった。わざわざ知ろうとしなくても、『見えて』しまうのだから。
瓜二つの外見をした金花と銀花を見間違えなかったのは、そのせいだ。
黄家に必ず生まれるという跡継ぎの双子。その一人は龍が擬態したものであり、当主の選択というのは、それまで共に過ごしてきた人と龍が分かたれることを指す。
自分達のことは家族さえも見分けがつかない、と金花が言っていたが、それはつまり双子として生まれた人間にしか、自分と龍の差異が解らないということではないだろうか。
(随分と面倒な契約だな。)
エンは欄干に頬杖をついて、沖合いをぼんやりと眺めた。客の誰かが冗談でも言ったのか、階下からどっと一斉に笑い声が上がる。
(今回は、その龍の選択が遅れていたわけで、つまり年端も無い少女二人だけが残って……当主に龍という後ろ盾がなければ、凌からの圧力も強まるってわけか。)
紫紺の夕闇の中、階段を登ってくる軽い足音にエンは顔を上げた。白い顔をして戸口に立ち尽くしているのは、これまで龍の覚醒を阻んできた少女だった。
暫し二人は無言で見詰め合う。
それから、銀花は意を決したように口を切り、巻物を抱えたままエンに近づいた。
* * * * * * * * * * * *
黄家の当主しか開くことのできないとされる龍の百科事典は、何の変哲もない古い巻物だった。
昼に瑛鱗に見せて貰った写本の方がまだ風格を感じさせるような、と思い出して、数時間前の記憶があまりにも遠いことにエンは内心驚いた。
『私は龍に会ったのだ。』
昔、偉人とあいまみえた際に、そう評した人間が居たという。
それと引き比べれば、自分は実際に龍に会い、更に言えばその聖獣が覚醒するのにささやかながら助力したのだ。自発的に行動を起こしたわけではなく、否応もなく巻き込まれた結果だとしても、疲労困憊するのは当然だった。
卓の上に巻物を置くと、銀花は逡巡してから口を開いた。
「ありがとう、ございました。」
「恨まれはこそすれ、礼を言われるようなことはしていないと思うんだけど。」
正直にエンが答えると、銀花はかぶりを振ってから、エンを真直ぐに見つめた。
「いつかは無理が来ることは解っていました。私は、ただの我侭で、孵化する蝶を力ずくで蛹に押し込んでいたようなものですから。」
それでも、そばにさえいてくれるならば、と銀花は呟いた。
「誰でも、なんであっても、構わなかったんです。」
「……向こうにとっては誰でもよくなかったんだろ。」
エンの冷淡とも取れる口調に、銀花は、そうですね、と頷いた。
「金花には……不思議な魅力があるでしょう」
繁華街の方から聞こえてくるざわめきが不意に大きくなった。花火の開始時間でも迫っているのだろうか、と思ったエンの視界の端を金色の光が過ぎる。
同時に、どんっ、と腹に響く音が聞こえた。
『――龍だ!』
街の其処此処から声が上がる。
見上げた空、銀花が指差した先では、次々と打ち上げられる花火と戯れるように宙を舞う龍の姿があった。
「……昔から金花は特別だったんです。母も、悟られないように心がけていたけれど、ずっと金花ばかりを気にしていたのを私は知っていて。当然ですよね、金花は母の双子でもあったんですから。でも母に怒りをおぼえたり、金花をうらやましく思ったりはしませんでした。気になったのは、金花が母と私のどちらが好きなのかということばかり。」
明滅する光に照らされながら、隣に立つ銀花が、親愛の情を超えてしまった独占欲を吐露するのをエンは黙って聞いていた。それが、少女の隠してきた秘密を勝手に暴いてしまった者の責任なのだと思った。
「いまは私の一番近くにいてくれる。でもそのうちどこかに行ってしまうわ。」
言ったきり、またもや俯いてしまった銀花の艶やかな髪の上を、様々な色の光が滑る。龍に翻弄されてのことか、打ち上げの間隔が短い花火は、既に佳境に入ったようだった。
――人ならぬ者に魅せられるというのは、人として当然の情動なのかもしれない。
思わず納得してしまうほど、海の上を高く低く飛翔する龍は美しかった。
* * * * * * * * * * * *
「でも、先ほどこの事典を開いて、はじめて本当に理解した気がしました。」
祖父に渡されて少し読んだんです、と銀花は左手を巻物の上に掲げた。触れもしないのに、 ぱたり、と巻物を封じていた紐が落ちる。
「……金花は私たちと同じ生き物ではない、と。」
楼を潮の香が満たす。
まるで水中に居るように、視界に青い紗がかかった。しかし呼吸は苦しくない。周囲を見渡して、天に架かる月が揺らめき滲んで見えるのに、エンは目を瞠った。まるで海の底から空を見上げるようだ。
「あー……、もう何だか俺、何を見てももう驚かないって思ってるんだけど、やっぱり驚くなあ。」
「貴方みたいな人でも?」
自然とエンの口を突いた言葉に少し笑って、宙を撫でるように銀花は手を動かす。するすると巻物は自然に解けて、卓の上に蛇のようにその身体を伸ばした。
「や、俺はこれまで普通に生きてきたから。龍のことを信じてさえもいなかったし。」
「嘘。」
きっぱりと言い切られて、瞼の上から片目を押さえるとエンは僅かに苦い顔をする。
「人として生きていくなら、人知を超えた力に頼るわけにはいかないから、な。」
自分に言い聞かせるように呟くと、そうですね、と小さな応えが返った。
「……それでも、この関係はとても不自然だと解っていても、私達黄家はこれを壊そうとは思わない。」
こんな風に一方的に人が龍を拘束する関係なんて、と銀花は自虐的に言い切った。
「祖先の黄祝融が交わした契約を利用して、そのあとはずっと彼の流れを汲む者というだけで、そばに居続けて守って貰うだなんて。」
「いや、それは、」
「違う!」
辺りを包んでいた水の気配がすっと消えた。
エンが言いかけた言葉は、異議の声に遮られた。同じ声にもかかわらず、銀花の沈んだ調子とは違い、思わず叫んだ、というような勢いに二人は反射的に戸口を振り返る。
「ばか銀花。私がずっと此処にいるのは祝融のためじゃない。たしかに最初はそうだったかもしれないけれど。」
いつの間に戻ってきていたのか、金花は両手を握り締めて、銀花に向かって歩み寄る。正面で止まると、反論しようとする銀花を物ともせずに言い募った。
「祝融はきっかけだった。でも、銀花、私は、歴代の黄家当主と契約をするのよ。今回は、私が蜃邑に留まることを決めたのは、あなただからなの。
――あなたでなければ、いけないのよ。」
私はもう雷も呼べるし、風も起こせる。雨を降らせることもできるし、この形をとっていられるのもあと僅か。もう人としては生きていくことはできないの。あなたの事を憶えていられる期間は限られているし、一緒に居られるのはもっと短い。だから今のうちに言っておくわ。
だらりと落ちていた銀花の手を取ると、金花は矢継ぎ早に言った。
「私は忘れない。最初に契約を持ちかけたのは私、祝融はとても渋ったわ。拘束するような関係は本意ではないと。自分だけならまだ責任も持てるけれど、子孫がどうなるかは解らない、彼等が私を裏切るかもしれない、と。でも、私が束縛を望んだの。男も女も関係なく、ただ、私が、次々と現れる貴方達の傍に居たかった。」
「あなたの祖父、瑛鱗はつむじが三つ、手の人差し指と中指の長さが同じ。教師の一人がどうしても嫌いでね、炒り豆を学校に持っていっては授業中に四方八方から飛ばすのよ。当てられた教師は犯人捜しに鏡まで持ち出して生徒を観察しているんだけど、分かるわけがないわよね。力を使ったせいもあるし、瑛鱗は真面目な顔でじっとしていてね。人を食ったような性格はあの頃からね。」
「あなたの母は――暁花は、足の裏に三日月形の痣がある。男は嫌いだと言い張っていて、結婚できるかどうか心配していた。しなくてもいいかとも思ったけれど、そうしたら私はこれからどうしていこうかと。けれど、ある年あなたのお父さんが現われて三日で婚約、五日で挙式。あまりの早さに皆であんぐりと口を開けて、そしてあなたが私と生まれた。けれど内心怖れていたの。私は暁花に無理やり人生を決めさせてしまったのではないかと。
でも、初めて目を開いたら、銀花、あなたは私の隣で赤い顔をして産着に包まれていたのだけれど、じきに真っ黒な瞳で私を見たわ。そして小さな手で、私の指を握ったの。嬉しかった。」
「私の自慢の孫、自慢の娘、そしてかけがえのない、私の半身。」
一息に言うと、金花は銀花の手を額に押し付けて繰り返した。
「嬉しかったの、あなたに会えて。――ありがとう。」
黄家の人々の夢より出でて、そこに還るもの。
脈々と受継がれる血筋に絡みつく一匹の龍。
「……ありがとう。」
銀花は、今は自分の手を引っぱって金花の顔を上げさせると、額を合わせ直して至近距離から囁いた。
瞼がまたじんわりと熱い。
離別に怯えて、そして己の卑劣さに、今日だけで何回も涙を堪え切れなかった筈なのに、今度は嬉しさに泣きそうだ。
「あなたに、私の他に大事な人が出来たら、還って来るわ。」
内緒事のように耳に落とされた一言に、そうしたら私は今度はあなたの母親なのね、と囁き返して、銀花は堪え切れなかった涙を一滴零した。
しきたり通りに、金花は蜃邑を去るだろう。それは、仕方のないことでもある。
永い永い時を生きる、人を超えた存在が人間として生きるためには、色々な制約があるのだ。
黄家の双子として生を受け、龍として覚醒した後は次の黄家当主が生まれるまで、龍として過ごす。そしてまた黄家に生を受ける。
龍として覚醒している間は、これまでの凡ての記憶を有することができる。黄家の双子として生きる間は、己が龍であることを確知することもできなければ、その期間以外の記憶は持たない。
祖父に教えられたことを、銀花は脳裏でなぞる。
――黄家の当主は、言ってみれば龍の娘であり、息子であり、父であり、母であり、祖父母であり、孫であり、双子の片割れである。
自分が言った通り、この関係は不自然だ。歪んだループがどこまでも続いている。
けれど、お互いに束縛しあうことを、龍も人も願うならば。
それは幸せな歪みなのだ。
* * * * * * * * * * * *
席を外すわけにもいかず、居心地の悪そうな顔で、開かれた百科事典に目を落とすエンの様子を窺って、二人の少女はくすりと笑みを零した。
「さて、黄家の秘密を知ってしまったのですから、貴方のことも教えていただかないと。」
金花の言葉に、エンは器用に片眉を上げた。思案げな顔で、二人の少女を見比べるが、逃げ場がないと悟ったのか簡潔に言う。
「金花はもう知ってるが、俺には瞳が四つある。片眼に二つずつ重なっているんだが、奥の方にある瞳が色々と厄介なんで、いつもはそっちは閉じてる。で、それに関することで色々と古い百科事典を調べている。といっても、勿論別の研究テーマをカモフラージュに上には提出してあるし、詳しいことは、俺だけじゃなくて、他の人達にも関係することだから言えない。……これでいいか?」
逆に問われて、金花は腕を組んで首を傾げてみせたが、すぐに気難しげな表情を崩すと破顔した。
「まあ、今日のところはそこまででいいとしましょうか。早く行かないとお祖父さまに叱られてしまうことですし。」
ねえ銀花、という問いかけに頷いて、当主は龍の百科事典を閉じる。ひとりでに巻かれていく書物を眺めて、リモコン操作みたいだな、とエンはいささか呑気な感想を述べた。
「お祖父さまが、腕によりをかけて、黄龍を覚醒させた恩人へ作った料理ですもの。凄いですよ、質も量も。」
「一通り食べさせるまでは、卓から離すつもりの無い顔でしたし。」
「あら、今日はもう遅いですし、寝る為だったら解放するんじゃないかしら。ただ、暫く蜃邑から出られないというだけで。」
これまで共に成長してきた時間に培われたのだろうか、少女達はぴったりと息を合わせて、小龍包、上湯魚翅餃、葱油叉焼餅、桂林芝麻蝦巻……と献立を並べはじめる。
もはや何の料理かも解らない、とエンは匙を投げて歌うような声が流れていくのにまかせた。確かに空腹ではあるが、この品数では身体がはちきれるほど食べても、まだ卓の上に手付かずの皿が残りそうだ。
「どうせなら華節も私達と一緒にお祝いしてくださいな。」
「本当はこちらが本来のお願いなんですけれど。」
「龍舞を見て、」
「爆竹を焚いて、」
「今回のお祭りは凄いですよ。なんせ私が姿を見せてしまいましたものね。」
何世紀ぶりかしら、と笑う金花と凌の関係も未だ謎の部分が多い。深入りしてはいけないと思うし、するつもりもないが、好奇心が疼くのは学者としての定めだもしくは職業病だ、とエンは頬杖をつく。
(……どうせ彼女の百科事典に目を通さなくちゃいけないわけだし。)
暫くはこの龍の守る楽園から離れられない、と内心で言い訳をすると、エンは仕方ないというポーズにしては余りにも楽しげな微笑を浮かべて、右手の指先で卓を二回叩いた。
降参と承諾、そしてこれから宜しくという意味を込めた、龍と当主への短い挨拶。
それを聞いて、黄家の娘達は声を揃えて笑った。




