Ⅵ
名を呼ばれたような気がして、銀花は目覚めた。
(――此処は、)
いつの間にか寝かされていた身体を起こすと、悪酔いでもしたかのように、頭がくらりと痛みを訴えた。堪えるために暫く瞼を閉じて、記憶の糸を手繰る。
(……私は攫われて、……金花は?)
銀花は目を見開くと、自分の身体を見下ろした。外傷もなければ、着衣も乱れていない。目に見えないところは解らないが、化学薬品によるものだろう、変則的な頭痛以外は、特に変わったところはないようだ。ただ一つ、試着した上衣をまだ着ていることに気がついて、銀花は眉根を寄せた。
部屋に窓はなく、小さな扉が寝台とは逆側の壁に付いているだけだ。高い天井からは裸電球が一つだけぶら下がっている。手を這わせた壁はコンクリートの打ちっぱなしで、耳を押し付けても何の物音も聴こえなかった。
今が何時なのか、此処がどこなのかのヒントさえ得られない、ということだ。
(随分、厳重に閉じ込められたようね。)
銀花が寝台から足を下ろした途端、扉が開いた。
影が落ちるように、その男は其処に居た。
足音は勿論のこと、扉が開き、また閉じた音さえも聞こえなかった。
男、と銀花が判断したのは、身体つきから推測しただけに他ならない。両手が剥き出しになっている他は、頭から爪先まで、顔までもが黒布に包まれている。寝台に腰掛けたまま身構えた彼女の推理は、掛けられた低い声音に裏付けられた。
「用件を長引かせるのは本意でないため、単刀直入に訊かせてもらおう。お前が、黄家の当主か?」
「……このような手荒い歓迎に、謝罪の一言もないとは恐れ入りますわ。凌の使いともあろう方が。」
落ち着いた銀花の返事に、黒衣の男は肩をすくめた。
「何故わかった、というのは愚問だな。さすが黄家だ。」
「お褒め頂き痛み入ります。」
銀花は立ち上がると優雅に一礼した。
「私もこのように拘束されているのは本意では御座いませんので、直裁に申しましょう。――回答を、拒否します。」
「……それならば、手を下すまでと言ったら?」
感情の読み取れぬ男の口調に、銀花は傲然と隠された男の眼を見返した。
「確かに私が生きたのはせいぜい十五年、しかしこの身に流れる黄家の血はいにしえより数えて二千年を超えます。」
そして、齢に不似合いなあでやかさで笑んだ。
ぱん、という小気味の良い破裂音と共に、天井の裸電球が砕け散った。渦を描いて、硝子の破片は銀花を守るように取り囲む。
「歴史に手を下す自信はお有りですか。」
「……自信も何も、」
男は言い差して、笑みを含んだ声で告げた。
「歴史は我の掌の中にあるものだろう。」
次の瞬間、銀花の身体は宙に浮いた。苦しい息の下で、銀花は自分の喉を摑む片手が数多の破片に刺されても血の一滴も流さないのを見てとって、奥歯を噛締めた。
悔しげな彼女を嘲う様子もなく、淡々と男は繰り返す。
「もう一度訊こう。お前は、どっちだ」
* * * * * * * * * * * *
「その質問には、私が答えましょう。」
声が聞こえると同時に、男の身体が背後の壁に叩きつけられた。崩れ落ちる銀花の身体をエンが支えるのを見て取ってから、金花は黒衣の男に向き直る。
「あの子が、黄銀花。次の黄家当主です。」
「金花!」
掠れた声で銀花が叫んだ。ちらと彼女に向けて謝るように少し笑ってから、次期黄家当主と同じ顔をした少女は、壁に押し付けたままの男に向かって足を進めた。
「そしてお前が、龍か。そちらの男は、」
「調停役ということにでも。」
不可視の力で動きを封じられたにもかかわらず、怖れる様子もない男にエンは答える。吟味するような視線を軽く受け流したエンを、銀花は隣で訝しげに見つめた。
「……確かに、その資質はあるようだ。」
「でしょう。今回は彼も居ることですし、穏便に済ませましょう。」
金花はゆるり、と唇の端を笑みの形に持ち上げた。それだけで空気が、帯電しているように肌を刺すものへと変わる。
これまで共に過ごしてきた自分の片割れが、異なってしまった存在となって其処にあった。
絶望にも似た悲しみに、銀花はひっそりと瞼を下ろす。
「帰って皇帝に伝えなさい。我を帰属させること能わず、と。」
金花は男の耳に紅唇を近づけて、流し込むように囁いた。一言を発するごとに、遠雷が響くのが聞こえた。
「それが、お前の答えか?」
「そうです。今回も、これまでも、そして、きっとこれからも。」
銀花は思わず目を瞠った。背中をこちらに向けている金花の表情は見えない。しかし、その声は満ち足りたように、言ってしまえば、幸せそうに響いた。
赦してもらえるのか、と思い込んでしまいそうになるほど。
「まだこんなところに居るのか。」
「そして貴方も懲りないことですね。」
「本来の己の力を忘れてまでも、此処に居残るのか?」
「貴方こそ干渉しすぎというものでしょう。私の契約は黄家当主とのみ、けれど貴方は、」
穏やかに反論する金花を遮って、男は鼻先で笑う。
「どんな歴史にもいるものだ、裏から表舞台の登場人物を操る黒子というべき存在が。」
「……結局は堂々巡りですね。本来の身体にお戻りなさい。」
男を包む黒布が足の先からほどけ始めた。解けてゆく布の向こうには、包まれている筈の身体が見えず、思わず生まれていく空洞を注視する。最後に手だけが残り、その手も蜃気楼のように徐々に揺らいで消えてゆく。黒衣の男の痕跡が完全に消えたと見て、金花が後ろの二人を振り返った瞬間、彼女の頬を掠めた何かが一直線に銀花を狙った。
金花の表情が驚きに強張る。それを目にしても、銀花は自分に向かって飛んでくる金属を避けることができなかった。ただ覚悟した。
ばさり、と視界が遮られる。
エンの身体がふっと沈む。一挙動で寝台の敷布を剥ぐと、飛来する暗器を絡め取った。力を失った刃は、次々に音を立てて、薄い布越しに床に触れた。
「……調停役として見過ごせず、手を出させて頂きました。」
いまだ呆然とする銀花の隣で、先ほどから気配を絶っていたエンは淡々と言った。
「調停役として、か。面白いことを言う。」
残念だが今回は退こう、と男の声は狭い部屋に酷薄に響いた。
「では、また来よう。」
「返事は変わらないと思うのですけれど。」
銀花に駆け寄った金花が、彼女の手を握り締めながら虚空を睨みすえた。それも一瞬、今度こそ消え失せた男の気配に、厳しい表情は崩れる。
大丈夫?とこちらを覗き込む金花に、銀花はようよう頷いた。
「……金花……、ごめんなさい」
嗚咽と共に洩らした言葉は、抱きしめられた腕の中に沈む。自分と同じ姿をした龍は、銀花の首と肩の付け根に額を押し付けて、私こそごめんなさい、と呟いた。