第17話「シロの選択」
第17話「シロの選択」
一
天正十二年も終わりに近づいた、冬のある日のことだった。
椿は、村の裏手にある小さな丘に立ち、遠くの山並みを見つめていた。空は重く垂れ込め、今にも雪が降り出しそうな気配がする。冷たい風が吹き抜け、彼女の髪を乱した。足元の土には、小さな獣の足跡が残っていた。忠助のものだろうか。彼もまた、この丘から何かを見つめていたのだろうか。
(もうすぐだ)
胸の奥が、ざわついている。ここ数日、その予感がずっと彼女を離さなかった。忠助が崖から落ちる。本で読んだ、あの場面が近づいている。
「春」
声がして振り返ると、桃太郎が立っていた。いつの間に来たのだろう。その手には、旅支度のための風呂敷が握られている。
「光、どうしたの」
「弥助から聞いたんだ。お前、最近ずっとあの犬のことを考えてるんだってな」
「……うん。あの犬、もうすぐ崖から落ちるの。小牧・長久手の戦いで、秀吉様を守るために」
桃太郎は椿の隣に立ち、同じように山並みを見つめた。
「お前は、その犬を救いたいのか」
「救いたい。でも、歴史を変えるわけにはいかない。あの犬が崖から落ちることは、決まってるの」
「でも、お前は何かしたいんだろ」
椿は桃太郎の顔を見上げた。その目は、鬼ヶ島で見た絶望の色ではなく、守るべきものを自覚した者の静かな強さを宿している。
「……うん。私、あの犬を見捨てたくない。たとえ運命が決まっていても、その瞬間まで、あの犬の味方でいたい」
桃太郎は少し考えてから、静かに言った。
「わかった。俺も行く」
「え?」
「その犬が崖から落ちるなら、俺が助ける。お前は歴史を変えられないかもしれない。でも、俺は歴史の一部じゃないのか? お前が言ってた『桃太郎』って、そういうことをする奴なんじゃないのか」
椿の胸が、熱くなった。
(そうだ。本編で忠助を救ったのは、桃太郎だった。歴史の通りに、桃太郎が動こうとしている)
「……うん。光、ありがとう」
桃太郎は照れくさそうに笑い、風呂敷を肩に担いだ。
「礼を言われることじゃない。俺は、お前の弟だからな」
二
小牧・長久手の戦場跡。秀吉と家康が激突したその地は、今は静寂に包まれていた。
戦が終わり、兵士たちは引き揚げ、残されたのは踏み荒らされた大地と、折れた矢、割れた甲冑だけ。割れた甲冑の持ち主は、無事に故郷に帰れたのだろうか。折れた矢を放った兵士は、今どこで何をしているのだろう。戦場には、そうした名もなき者たちの生きた証だけが、静かに横たわっていた。カラスが一羽、枯れ木の上で不気味に鳴いている。
椿と桃太郎、そして弥助の三人は、戦場を見下ろす崖の上に立っていた。風が強く、足元の小石がカラカラと音を立てて崖下に落ちていく。
「この辺りだ。忠助が落ちるのは」
椿は崖の縁に立ち、下を覗き込んだ。深い谷底には、細い川が流れている。落ちれば、ただでは済まない。
「春、本当にここでいいのか」
弥助が不安げに尋ねた。彼の鼻は、絶えず周囲の匂いを嗅いでいる。
「うん。本で読んだ通りなら、もうすぐ秀吉様がこの辺りを通る。そして、敵の奇襲を受けて——忠助が主を守るために、崖から落ちる」
「でもよ、俺たちがここにいたら、歴史が変わっちまうんじゃねぇか」
「大丈夫。私たちは、ただ見てるだけ。忠助が落ちた後、桃太郎が助ける。それが、歴史の通りだから」
弥助はまだ納得いかない顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、桃太郎が口を開いた。
「春、あの犬はお前に何を伝えたかったんだ」
椿は少し考えてから答えた。
「……わからない。でも、あの犬は、誰かに自分の存在を認めてほしかったんだと思う。戦場で『鬼の犬』って呼ばれて、誰からも怖がられて。でも本当は、ただの犬で、誰かに撫でてほしかっただけなんだ」
桃太郎は黙って椿の話を聞いていた。やがて、静かに言った。
「なら、俺があの犬を撫でてやる。助けた後に、ちゃんと」
椿の目が、じんわりと熱くなった。
「……うん。そうしてあげて」
その時、弥助の耳がピクリと動いた。
「来るぞ」
三
遠くから、馬蹄の音が聞こえてきた。数は多くない。十騎ほどか。先頭を走るのは、ひときわ立派な鎧を身につけた武将——羽柴秀吉だ。
(秀吉様……本物だ。歴史の教科書で見た肖像画より、ずっと精悍な顔をしてる)
秀吉の傍らには、一匹の白い犬が走っていた。耳には古い傷。首には金の首輪。忠助だ。主の馬にぴったりと寄り添い、決して離れようとしない。
その時だった。
森の奥から、無数の矢が放たれた。敵の奇襲だ。家康方の別動隊が、秀吉の視察を察知して待ち伏せていたのだ。
「敵襲!」
「殿をお守りしろ!」
護衛の兵たちが慌てて盾を構えるが、矢の雨は容赦なく降り注ぐ。秀吉の馬が嘶き、前足を高く上げた。
その瞬間、忠助が飛び出した。
主を守るために、矢の雨の中へ。その体に何本もの矢が突き立つが、忠助は止まらない。敵の一人に飛びかかり、その喉笛に噛みついた。
「忠助! 戻れ!」
秀吉の叫びも空しく、忠助は次々と敵に襲いかかる。しかし、多勢に無勢。やがて忠助は、崖の縁まで追い詰められた。
(来る。あの場面だ)
椿は固唾を飲んで見守った。
敵の一人が、槍を構えて忠助に突きかかる。忠助はそれをかわそうと身を翻したが——足元の地面が崩れた。
忠助の体が、宙に投げ出される。
その瞬間、時間がゆっくりと流れ始めた。忠助の白い毛並みが風に舞い、首輪の金具が陽光を反射してきらめく。彼の目は、まっすぐに空を見つめていた。そのすべてが、やけに鮮明に見えた。
「忠助!」
秀吉の絶叫が、戦場に響き渡った。
四
「今だ!」
桃太郎が崖を駆け下りた。弥助もその後を追う。椿は崖の上に残り、二人の姿を見守った。
忠助の体は、崖の中腹にある岩棚に引っかかっていた。奇跡的に、致命傷は免れている。だが、このままでは出血多量で死んでしまう。
桃太郎は岩棚にたどり着き、忠助の体を抱き上げた。忠助はぐったりとしていたが、まだ息はある。
「大丈夫か。今、助けるからな」
桃太郎は忠助を抱えたまま、慎重に崖を下りていった。弥助が先回りして、安全なルートを確保する。
椿は崖の上から、その光景をじっと見つめていた。胸が熱くて、視界が滲む。
(これが、歴史だ。桃太郎が忠助を救う。本で読んだ、あの場面だ。でも——今、目の前で起きてる)
彼女は唇を噛みしめ、涙をこらえた。
桃太郎と弥助が崖下にたどり着き、忠助を地面に寝かせた。忠助の体には、いくつもの矢傷がある。白い毛並みが、血で赤く染まっていた。
「春! 手当てを!」
桃太郎の声に、椿は崖を駆け下りた。忠助のそばに膝をつき、傷の状態を確認する。出血はひどいが、急所は外れている。すぐに手当てをすれば、助かるかもしれない。
彼女は着物の裾を裂き、止血を始めた。現代の知識で学んだ応急処置。清潔な布で傷口を圧迫し、心臓より高い位置に固定する。指先に伝わる忠助の体温。まだ温かい。胸に手を当てると、小さな心臓が必死に脈打っていた。生きている。まだ、生きている。
「……シロ、頑張って。あなたはまだ、死ぬわけにはいかないんだから」
忠助の耳が、ピクリと動いた。まるで、彼女の声に応えるかのように。
五
日が暮れる頃、椿たちは忠助を連れて村に戻った。
衛門と時雨が待っていて、すぐに手当ての続きを行った。時雨はくノ一としての知識を活かし、傷口を丁寧に縫い合わせる。衛門は薬草を煎じ、忠助に飲ませた。
「助かるか」
桃太郎が尋ねると、時雨は静かに頷いた。
「ああ。傷は深いが、命に別状はない。しばらく安静にしていれば、また歩けるようになる」
「そうか……」
桃太郎はほっとしたように息を吐き、忠助の頭を撫でた。忠助は目を閉じ、されるがままになっている。
椿は、その光景を縁側から見つめていた。胸の奥が、じんわりと温かい。
(これで、忠助は助かった。歴史は変わってない。桃太郎が忠助を救った。それは本で読んだ通りだ。でも——)
彼女は自分の手を見つめた。忠助の血で汚れた指先。冷たく、かすかに震えている。
(私も、確かにここにいた。忠助を救うために、手を動かした)
「春」
声がして顔を上げると、弥助が立っていた。手には、温かい白湯の入った湯飲み。
「お前、よくやったな」
「……弥助」
「俺は最初、あの犬に関わるなって言った。でも、お前は諦めなかった。あの犬の気持ちを、ちゃんと聞いてやったんだな」
弥助は椿の隣に腰を下ろし、湯飲みを差し出した。それ以上何も言わなかった。でも、その沈黙が、何よりも温かかった。彼は、言葉で慰めるのが得意じゃない。代わりに、ただそばにいてくれる。それが、弥助の優しさだった。
「俺、お前のこと尊敬するよ。お前は、誰よりも命を大切にしてる」
椿は湯飲みを受け取り、白湯を一口すすった。温かさが、冷えた体に染み渡る。
「……ありがとう、弥助。でも、私だけじゃできないことだった。光も、弥助も、衛門も、時雨も、みんながいてくれたから」
「まあな。俺たちは、そういう仲間だ」
弥助はにかっと笑い、立ち上がった。
「さて、俺は見張りに戻る。春はゆっくり休めよ」
「うん。弥助も無理しないで」
弥助は手をひらひらと振り、闇の中へ消えていった。
六
その夜、椿は忠助の寝かされた部屋を訪れた。
忠助は薄い夜具の上に横たわり、静かな寝息を立てている。傷は塞がり、顔色もいくぶん良くなっていた。
椿は忠助のそばに座り、その頭をそっと撫でた。耳の傷跡。硬くなった皮膚。戦場で負った無数の傷。
「シロ、あなたはこれから、老夫婦に拾われる。そして、新しい名前で呼ばれて、温かい家で暮らす。それが、あなたの次の運命だ」
忠助の耳が、ピクリと動いた。
「でも、その前に——私、あなたに伝えたいことがあるの」
椿は忠助の目をじっと見つめた。
「あなたは、一人じゃない。戦場で『鬼の犬』って呼ばれて、誰からも怖がられてきたかもしれない。でも、あなたの本当の姿を知ってる人が、ちゃんといる。桃太郎も、弥助も、衛門も、時雨も。そして——私も」
忠助はゆっくりと目を開け、椿を見上げた。その瞳は、闇の中で静かに輝いている。
「あなたは、これからたくさんの人に愛される。老夫婦に『シロ』と呼ばれて、子供たちと遊んで、たくさん撫でられて。戦場で傷ついた分だけ、幸せになるんだよ」
忠助は彼女の手のひらを舐めた。ざらりとした舌。温かい。
「だから、それまでは——ちゃんと生きて。あなたの人生は、まだこれからなんだから」
忠助は一声、小さく吠えた。それは、戦場で敵を威嚇する声ではなく、もっと優しい、誰かに甘えるような声だった。
椿は立ち上がり、部屋を後にした。胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなっていた。
七
翌朝、椿が目を覚ますと、忠助の姿は消えていた。
夜具の上には、まだ彼の体温が残っている。でも、その姿はどこにもない。
「シロ……」
彼女は家の外に出て、周囲を見渡した。朝霧が立ち込める中、遠くの山道に、小さな白い影が見えた。忠助だ。彼は一度だけ振り返り、椿の方をじっと見つめた。
(行くんだね。自分の運命の場所へ)
忠助は尾を一度、ゆっくりと振った。まるで「ありがとう」と伝えるかのように。忠助の白い毛並みが、朝霧の中でふわりと揺れた。それはまるで、春に咲く桜の花びらのようだった。いつか、この犬が本当の幸せを見つける日——その時、彼の周りにはきっと、満開の桜が咲いているのだろう。
そして彼は身を翻し、山道を駆けていった。その姿は、朝霧に溶けるように、やがて見えなくなった。
椿はその後ろ姿を、涙をこらえながら見送った。
(さよなら、忠助。でも、これは終わりじゃない。あなたの新しい人生の、始まりなんだ)
彼女は空を見上げた。冬の空に、朝日が昇り始めている。新しい一日の始まりだ。
(私は、あなたの幸せを知ってる。これから老夫婦に拾われて、たくさん愛されて、最後は桜の奇跡を起こす。全部、本で読んだ)
彼女は拳を握りしめた。
(でも、私はそのすべてを見届けられない。それが、影の戦士の宿命だ…年齢的にも難しいだろう…。私は、忠助が桜の奇跡を起こす瞬間を見届けられないかもしれない。でも、それでいい。知っているだけで、十分だ。彼が幸せになることを、私はもう知っているのだから)
風が吹き抜け、彼女の髪を揺らした。涙が一筋、頬を伝ったが、それはもう悲しみの涙ではなかった。
【次回予告】
(——忠助を見送った。彼はこれから、老夫婦に拾われて、たくさん愛されて、最後は桜の奇跡を起こす。全部、私は知ってる。知ってるからこそ、胸が張り裂けそうだ。だって、その奇跡の裏には——欲次郎と意地子の愚行がある。シロは、殺されるんだ。老夫婦を守るために)
「でも、今はまだその時じゃない。忠助には、幸せな時間が待っている。それを邪魔するわけにはいかない。私は、影の戦士として、ただ見守ることしかできない」
「……って、真面目に締めくくろうとしたけど!」
「次に来るのは、衛門さんの物語だ! 圓との再会を果たした衛門さん。でも——私は知っている。彼に残された時間が、あまり長くないことを」
「太幽、お前は衛門さんにどれだけ重い運命を背負わせる気だ。圓と再会させたと思ったら、今度は——。でも、その運命があるからこそ、衛門さんは圓との時間を大切にできる。お前の書く物語は、いつだって残酷で、優しい。」
「衛門さん、私はあなたに、何ができるんだろう。圓との時間を、どうやって守ればいいんだろう」
「次回、第18話『父娘の時間』。衛門さんと圓の、限られた時間の中で紡がれる絆。私は、そのすべてを見届ける。影の戦士として、そして——衛門さんを師と仰ぐ者として」
「……よし、行くぞ。泣いてる場合じゃない。私は、私にできることをするだけだ」
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【第17話・完】




