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作者への反逆〜転生したので、春の運命を書き換えてみせます〜  作者: 太幽


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第13話「本能寺、炎上」

第13話「本能寺、炎上」



天正十年、六月。


京の都は、蒸し暑い夜の帳に包まれていた。風はほとんどなく、雲が月を隠し、闇が街を覆っている。普段なら聞こえるはずの虫の音さえ、今夜は鳴りを潜めていた。


椿は、本能寺からほど近い町屋の二階に身を潜めていた。障子の隙間から見える寺の門は、静まり返っている。あまりにも静かだ。まるで、これから起こることを予感しているかのように。あまりの静けさに、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。耳の奥で、血がざわめいている。


(もうすぐだ)


彼女は、汗で湿った手のひらを膝で拭った。心臓が早鐘を打っている。頭ではわかっている。この夜、明智光秀の軍勢が本能寺を包囲し、織田信長は自刃する。日本の歴史を大きく変える「本能寺の変」が、まさにこれから起こるのだ。本で何度も読んだ、あの場面が。


隣には、時雨が同じように身を潜めていた。黒装束に身を包み、短刀を懐に忍ばせている。その横顔は、緊張で強張っていた。


「時雨、大丈夫?」


「……問題ない」


時雨は短く答え、小さく息を吐いた。


「私の役目は、信長様を地下通路から逃がすこと。あの方が、自らの信念を貫いて逝かれるための、ほんの少しの手助けだ。歴史の通りにな」


「うん。でも、無理はしないで。何かあったら——」


「その時は、お前が助けに来い」


時雨は少しだけ口元を緩めた。その表情に、椿の胸がじんわりと熱くなる。かつて、誰にも心を開かなかった少女が、今はこんな冗談を言う。


「……わかった。絶対に助けに行く」


時雨は短く息を整え、懐から一枚の布を取り出した。喜備丸のおくるみの切れ端だ。彼女はそれを一度だけ握りしめ、再び懐にしまった。


「……行く」


時雨の声には、もう迷いはなかった。喜備丸を守る。その覚悟が、彼女の背筋をまっすぐに伸ばしていた。


二人は再び、闇を見つめた。遠くから、かすかな馬蹄の音が聞こえ始める。最初は一つ、二つ。やがて無数の音が重なり、地響きのように大きくなっていく。地面が、微かに震えていた。


「来た」


時雨が短く呟いた。



光秀の軍勢は、闇に紛れて本能寺を包囲した。松明の火が闇を切り裂き、兵士たちの怒号が静寂を破る。


「敵は本能寺にあり!」


その叫びが、夜の都に響き渡った。


寺の中から、悲鳴と怒号が上がる。信長の近習たちが必死に防戦するが、多勢に無勢。刀のぶつかる音、甲冑が崩れ落ちる音、そして命が消える音——それらが混ざり合い、地獄の響きを奏でていた。


椿は障子の隙間から、炎に包まれていく本能寺を見つめた。本堂の屋根が燃え上がり、火の粉が夜空に舞い上がる。熱風がここまで届き、彼女の頬を炙った。肌がひりつく。風に乗って、焦げた木と、焼ける布の甘い匂いが流れてきた。その奥に、かすかに血の鉄臭さが混じっている。戦場の匂いだ。本で読んだだけの、遠い世界のものだったはずの匂いが、今、彼女の鼻を突いている。


(これが、歴史だ。太幽の書いた、あの場面だ)


彼女は唇を噛みしめた。頭では理解している。この炎は、新しい時代の幕開けを告げる篝火だ。でも、心がついていかない。今、あの炎の中で、数えきれないほどの命が消えようとしている。歴史に名を残さない、普通の人たちの命が。


ふと、脳裏にあの白い犬の姿がよぎった。忠助。彼もまた、この戦乱の世に生きる一つの命だ。彼は今、どこでこの夜を過ごしているのだろう。秀吉の陣営で、主の帰りを待っているのだろうか。それとも、山の中を彷徨いながら、戦場の匂いに耳をそばだてているのだろうか。


(お前も、一人でこの夜を耐えているんだな)


「春」


時雨が立ち上がった。その目は、炎を見据えている。そこには、鬼ヶ島で復讐の炎を燃やしていた頃の冷たさはない。代わりに、静かな決意の光が宿っていた。


「行く」


「……うん。気をつけて」


時雨は頷き、音もなく部屋を出ていった。黒装束が闇に溶け、すぐに見えなくなる。まるで、風が抜けたかのように。


椿は再び障子の隙間から本能寺を見つめた。炎はますます大きくなり、寺全体を包み込もうとしている。


(時雨は、信長を地下通路から逃がす。信長は自らの信念を貫いて逝ったことになる。それが、あの人が書いた歴史だ。私は、この歴史を変えられない)


彼女は拳を握りしめた。


(でも——歴史に影響しない命なら、救えるはずだ)


彼女は立ち上がり、部屋を出た。裏口から外に出ると、路地はまだ闇に包まれている。彼女は気配を消し、本能寺の周囲を回り込むように走った。くノ一としての訓練が、無駄なく体を動かす。


(救える命があるなら、救う。それが、私のやり方だ)



寺の裏手にある竹藪。そこは、まだ炎の手が届いていない数少ない場所だった。


椿は竹藪に身を潜め、周囲を探った。戦火から逃れようと、何人かの近習や女中たちが裏口から這い出てくるのが見える。彼らは傷つき、煤にまみれ、恐怖に引きつった顔で闇の中へと消えていく。ある者は足を引きずり、ある者は倒れた仲間を肩に担ぎ、ある者はただ無言で走り去っていく。誰もが必死だった。ただ、生き延びるために。


(逃げて。一人でも多く、生き延びて)


彼女は心の中で祈りながら、その場を動かなかった。彼女にできることは、ここで見守ることだけだ。無闇に手を出せば、彼らの運命を変え、ひいては歴史を変えてしまうかもしれない。


その時、一人の若い武士が、足を引きずりながら竹藪に入ってきた。肩から血を流し、息も絶え絶えだ。このままでは、出血多量で死ぬかもしれない。


椿は一瞬迷った。助ければ、歴史が変わるかもしれない。でも——。


(この人が生きようが死のうが、天下の行方は変わらない。歴史の教科書に、この人の名前は載っていない。ならば——)


彼女は茂みから飛び出し、若い武士の肩を支えた。


「動かないで。手当てする」


若い武士は驚いた顔で椿を見つめたが、抵抗する力もなく、その場に座り込んだ。椿は自分の着物の裾を裂き、応急処置を始める。止血の方法は、現代の知識で学んでいた。清潔な布で傷口を圧迫し、心臓より高い位置に腕を固定する。新体操で鍛えた指先が、迷いなく動く。彼女の手は、みるみるうちに血で赤く染まっていった。でも、その温かさは、奪うための手ではなく、救うための手の温かさだった。それは、時雨が団子を捏ねる手と同じ、誰かのために何かをしようとする手の温もりだった。


「あ、ありがたい……しかし、あなたは……」


「いいから。喋らないで。体力を温存して」


彼女は手早く処置を終え、若い武士に言った。


「このまま東へ行けば、小さな社がある。そこにしばらく身を隠して。夜が明けたら、都を離れなさい。戦は、もう終わったのです」


若い武士は涙を浮かべ、何度も頭を下げた。


「かたじけない……このご恩は、決して忘れません。あなたのお名前は——」


「……いいえ。名乗るほどの者ではありません」


椿は首を振った。名前を知れば、歴史に残してしまいそうで怖かった。この人は、歴史に残らないからこそ、救えるのだ。若い武士はそれ以上問わず、深々と礼をして、闇の中へと消えていった。その後ろ姿が、竹藪の奥に吸い込まれていく。


椿はその背中を見送り、小さく息を吐いた。


(これで、一人救えた。歴史は変わらない。でも、確かに一つの命が助かった)


その時、別の物音が聞こえた。年老いた女中が、竹藪の入り口で倒れている。彼女は逃げ遅れ、煙に巻かれて意識が朦朧としているようだった。椿は迷わず駆け寄り、その体を引き起こした。


「大丈夫ですか。立てますか」


「……あ、あんたは……?」


「いいから。さあ、肩を貸します。ゆっくりでいい」


椿は老女の体を支え、竹藪の奥へと誘導した。そこには、先ほど助けた若い武士がまだいた。


「あなた、この人を頼めますか。東の社まで」


「……承知した」


若い武士は力強く頷き、老女の肩を支えた。二人は互いに寄り添いながら、闇の中へと消えていった。


椿は再び竹藪に身を潜め、本能寺を見つめた。炎は、ますます大きくなっている。夜空を焦がす紅蓮の炎。それは、一つの時代の終焉を、誰の目にも明らかに示していた。


(これで、二人だ。たった二人。でも、ゼロじゃない)


彼女の手は、まだ血で濡れていた。でも、その手を洗おうとは思わなかった。この血の感触こそが、彼女がここにいる証のように思えたから。



夜が明ける頃、本能寺は焼け落ちていた。


まだくすぶる煙が立ち上る中、椿は時雨と合流した。時雨の黒装束は煤で汚れ、顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。だが、その目には、やり遂げた者の静かな満足が宿っていた。


「……信長様は、地下通路からお逃げになった」


「そうか。時雨、よくやったね」


「ああ。だが——信長様は、自らの最期を選ばれた。私はただ、そのお手伝いをしただけだ」


時雨は遠くを見つめ、小さく息を吐いた。


「信長様は、最後まで信長様だった。誰にも屈せず、自らの信念を貫いて逝かれた。私が手を貸すまでもなく、すでに覚悟は決まっておられた。私は、そのお姿を目の当たりにし、何も言えなかった。いや、言うべき言葉など、何もなかった」


「……それでいいんだよ。それが、歴史だから」


椿は時雨の手を握った。冷たく、かすかに震えている。時雨の手は煤で真っ黒に汚れ、その震えが、彼女が目撃したものの重さを物語っていた。


「私たちは、歴史の裏側を生きる。誰にも知られず、誰にも気づかれず。でも——確かにここにいる。その手で、確かに一人の最期に寄り添った。それだけで、十分なんだよ」


時雨は椿の顔を見つめ、小さく頷いた。


「……ああ。お前は、いつもそうやって、私の背中を押すのだな」


二人は、焼け落ちた本能寺の跡を見つめた。煙がまだ立ち上り、焦げた木の匂いが風に乗って流れてくる。


【「面白き世を、ありがとう——」信長はそう言い残し、地下通路へと消えていった。】

(『時雨の焼印』第14話:本能寺の変、そして運命の決断)


(これで、一つの時代が終わった。そして、新しい時代が始まる。私は、そのすべてをこの目で見届ける)


椿は目を閉じ、深く息を吸った。胸の奥が、熱くなっている。



村に戻ると、すでに本能寺の変の報せが届いていた。


村人たちは不安げな顔で集まり、これからどうなるのかと話し合っている。衛門は冷静に状況を分析し、村の方針を指示していた。


「秀吉様が、光秀を討つために兵を挙げるだろう。いわゆる中国大返しだ。我々は表立って動かず、静かに状況を見守る。それが最善の策だ」


光も弥助も、衛門の言葉に頷いていた。弥助はいつもの軽口を封印し、真剣な表情で話を聞いている。その横顔に、椿は頼もしさを感じた。


椿はその様子を遠くから見つめながら、縁側に座っていた。疲れがどっと押し寄せ、体が重い。緊張の糸が切れたように、指先の感覚が遠い。


「春、大丈夫か」


宗助が心配そうに顔を覗き込んだ。


「うん、ちょっと疲れただけ。兄ちゃんは大丈夫?」


「俺は平気だ。それより、お前、無理するなよ。顔色が悪い」


宗助は椿の隣に座り、何も言わずに肩を貸してくれた。その温かさが、じんわりと心に染み渡る。土と、汗と、そして家族の匂い。


ふと顔を上げると、遠くの山の稜線に、あの高台が見えた。桃太郎と時雨が、永遠の時を生きる精霊のように立っている場所。今、私はその麓で、兄の肩にもたれかかっている。あの高台から見守る者たちと、この縁側で見守られる者——そのどちらもが、今の私には大切な場所だった。


「……兄ちゃん、ありがとう」


「何がだよ」


「ううん、なんでもない。ただ、兄ちゃんがいてくれて、よかったなって」


宗助は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。


「なんだよ、急に。気持ち悪いな」


「ひどっ!」


椿は思わず吹き出した。その笑い声が、静かな縁側に小さく響く。宗助もつられて笑った。兄妹の、なんでもない日常の一コマ。でも、その温かさが、彼女の心を支えていた。


椿は目を閉じ、宗助の肩にもたれかかった。兄の温もり。家族の匂い。守りたいものは、ここにある。


ふと、あの白い犬のことを思い出した。忠助。彼もまた、私が守りたいと思う存在の一つだ。戦場で「鬼」と呼ばれ、誰にも心を許せずにいる、あの孤独な獣。彼にも、いつかこんな温かい場所を見つけてほしい。誰かの肩にもたれかかる幸せを知ってほしい。


(私は、歴史を変えられない。天下の行方も、英雄たちの運命も。でも、この温かさを守るために、私は影の戦士として生きていく。歴史に残らない、名もなき者たちの幸せを、一つでも多く守るために——そして、あの犬が救われる未来も、ちゃんと見届けるために)


彼女は、静かにそう誓った。


【次回予告】


(——本能寺が燃えた。信長が死んだ。そして、歴史は大きく動き出す!)


「次に来るのは、秀吉の中国大返し! あの伝説の強行軍が、もうすぐ始まる! 歴史の教科書で読んだあの場面を、私はこの目で見られるんだ……! 光秀を討つために、秀吉が驚異的な速度で軍を返す——その裏で、私たちも動く!」


(って、興奮してる場合じゃない。私は影の戦士。歴史の裏で、この大返しを支えるんだ)


「情報を操り、補給路を整え、時に歴史の歯車をほんの少しだけ横から押す。誰にも知られず、誰にも気づかれず。それでも確かに、この手で歴史を支えていく」


「私たちは、歴史の裏側を生きる。それが、私たちの選んだ道だ」


「そして——あの白い犬も、きっとこの戦いに巻き込まれていく。忠助。後のシロ。お前が崖から落ち、桃太郎に救われる日は、もうすぐそこまで来ている」


「次回、第14話『天下への道』。秀吉が天下人への階段を駆け上がる中、私は影の戦士として、もう一つの戦いに挑む。歴史を守り、命を救い、そして——推しの勇姿を、この目に焼き付ける!」


「……あ、でも中国大返しって、本当にどんな感じだったんだろう。秀吉ってば、馬に乗って『急げ急げ!』って言ってたのかな。想像しただけでかっこいい……って、違う違う! 戦支度、戦支度!」


(よし、行くぞ! 歴史の最大の転換点——私は、その影で、何を守り、何を見届けるのか)


---


【第13話・完】

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