8-3
侍の声にはっとして、僕はコロから離れる。そう、もうここは戦場になった。街の中は基本的にセーフティーゾーンで、アバターがダメージを受けるようなことはない。さっきの猫又の一撃だって、ゲームの演出として侍の頬に傷跡を残したものの、体力ゲージにはなんの変化も与えていない。
けれど《仕合》による効果で、この辺り一帯はボス妖怪がいる領域のように重く張り詰めた空気に充ちてしまった。
「……気をつけてね」
距離をとったまま動かない侍とコロから少し離れたところで、僕と山伏と忍者は大人しく観客になる。
仕合のルールはいくつかあリ、勝利条件もさまざまだ。今回は「一対一でどちらかの体力がゼロになるまで戦う」という、最もベーシックなルールが選択されているらしい。
使用する武器は、両者とも同じ日本刀。この仕合の間だけ特別にレンタルされるようで、いつの間にかコロの手にも握られていた。でも歌舞伎役者のコロはいつも素手で戦うのに対して、相手の侍はふだんから刀を使っている。これはコロに不利なハンデじゃないかと思ったけど、コロ本人がそれでよしとしているなら、僕は口を挟めない。
仕合専用の空間なので、いつもならパーティを組まないと見えない体力ゲージが、それぞれの頭上に表示されている。何となく相手のレベルも一緒に確認した僕は、思わず大きな声を上げてしまった。
「レベル三十五!? コロより十も上!?」
「ふふん。伊達に毎日、仕事上がりの疲れ切った体に鞭打ちながら寝る間も惜しんで地道にコツコツコツコツ戦ったりしてないわよ」
「なんでそんな人たちが初期エリアの集落にいるレベルの低い野良巫女を拉致しようとしたんですか?」
「みゃ! みゃ!」
「人聞きが悪いこと言わないでちょうだいっ! よ、世の中には相性ってものがあるの!」
体三つ分ほど開けた距離にいた爪の長い忍者の女性と、なぜか漫才のようなやり取りをしている間にも、侍とコロのにらみ合いは続く。
そして、仕合開始のカウントダウンがはじまった。
ファイブ、フォー、スリー……どこからともなく流れてくる流暢な英語のアナウンス。ゼロを告げる稲妻が走った瞬間、侍が突進した。飛び上がり、右上から刀を振り下ろす――いわゆる袈裟斬りを繰り出す。対するコロは体を深く沈め、下から斬りあげる逆袈裟斬りで相手を迎え撃つ。
「……っ!」
両者の間から、刀のぶつかる甲高い音と火花のような光が生まれる。そのままの流れで、鍔迫り合いに持ち込んだ。顔を近づけて視線をぶつける二人。押し合いは五分。いや、レベルの違いによるステータスの差よりも、鬼面による筋力の強化が大きい。純粋な力比べならコロのほうが上だ。刀を空へと振り抜き、侍の体勢を崩す。ガラ空きの胴を、返す刀で両断! 決まった!
「ははぁ! 浅ぇよ!」
コロの刀は、たしかに侍の腹を真横に裂いた。現実世界なら相手は重傷を負い、動きだって鈍くなるはず。けれど、ここはヒノモト。目に見えるような明らかな変化は、相手の体力ゲージが半分に減ったということだけ。侍本人にダメージはなく、逆に勢いを増しながらコロへと斬りかかっていく。
ちっ、というコロらしくない舌打ち。おそらく、いまの一撃で勝負を決めるつもりだったんだろう。けれど残念ながら、相手の言うように踏み込みが浅かった。
「ホッ、鬼面が刀が不得手で助かりましたね。……間合いを読み違えたのでしょうか」
「いけいけー! そのまま押し切るのよー!」
仲間の声援を受けて、侍の大振りな攻撃が荒々しさを増す。素人の僕にはただがむしゃらに刀を振り回しているようにしか見えない剣撃は、実はコロの苦手な部分を集中して攻めているのかもしれなかった。防戦一方のコロの動きが、次第に精彩を欠く。慣れない戦闘スタイルを持て余しているのもあるだろう。でも、それ以上になにか、さっきからずっとなにかが、おかしい――。
「っ、コロ!」
「もらったああ!」
ずるり、と。足を滑らせたコロが、大きくのけぞった。弾みで刀も手から離れていく。その隙を、侍は見逃さない。裂帛の気合いを込めながら、仕合開始のときと同じように袈裟斬りで追い打ちをかけた。無防備に倒れ伏すコロの肩口を、侍の刀がばっさりと斬りつける――思わずそんな光景を思い描いて恐怖に体を震わせた、そのとき。
「なにっ!?」
地面に片手をついて転倒を免れたコロが、その不安定な姿勢のまま、侍の手元を勢いよく蹴り上げた。衝撃ですっぽ抜けた刀が、クルクルと旋回しながら天高く飛んでいく。思わぬカウンターに驚いてよろめく侍は無視して、コロはそのまま両腕の力だけで空中高く飛び上がった。そしてなんと、飛んでいった刀に追いつき軽々とキャッチしてしまう。「は!?」と、その場にいるコロ以外の全員の声が上がった。とんでもない。まるで映画やサーカスを見ているみたいだ。
お手本のような宙返りをして音もなく着地したコロは、そのまま地面を強く蹴りつけて侍に突撃する。舞い上がる砂煙。閃く日本刀。踏み込みは十分。二度目の胴切りが完璧に入り、侍の体力ゲージが一瞬で真っ赤になる。
やがてパキンという澄んだ音を立てて、相手のゲージウインドウ自体が消失した。同時に響き渡る、ラジオパーソナリティのようなアナウンス。仕合終了を知らせる声。
勝った。コロが勝ったんだ。怒涛の展開についていけずに呆然としているのは、僕だけじゃない。三人組も、誰もなにも言わない。静寂の中を、深い呼吸で体を揺らしているコロの声だけが風のように駆け抜けていく。
「もう二度と、俺の友達に嫌な思いさせんな」
ともだち。その言葉が誰を指しているのか、考えるまでもなくわかってしまったから。誰のために、楽しくもなんともない仕合を受けてくれたのか、わかってしまったから。鼻の奥が、つんと痛くなる。目の奥も、じんと熱くなる。
三人組はといえば「カッコつけてんじゃねぇぞ!」とか「次に会ったときは覚えてなさいよ!」とか「ごめんなさい、失礼しました!」とか三者三様の捨てゼリフを残して、あっという間にいなくなってしまった。うん、山伏さんだけは割といい人だったのかもしれない。
「コロ……!」
ありがとうとか、ごめんなさいとか。言いたいことはたくさんある。慌てて駆け寄る僕を、けれどコロはちらりとも見ようとしない。無言で立ちすくんだまま、片手で胸を抑えている。荒い呼吸も、なかなか整わない。むしろ、どんどん悪化しているような気がする。
「コロ、だいじょ――」
コロの腕に触れようとした、そのとき。鳥の声のような、笛の調べのような音が僕の耳を打った。一度だけでなく、断続的に続いている。ひどく不安を煽るそれは、まるで何かに注意をうながしているようにも聞こえた。
注意? そういえば、ヒノモトには《バイタルアラーム》というシステムがあった。現実世界で置き去りにしている体に深刻な異変が起こったことを知らせる警告音。それが今、コロのそばから、コロに向けて聞こえてくる。
「コロ!」
そうだ。さっきからモヤモヤしていた得体の知れない不安の正体は、これだったんだ。コロはきっと、最初からずっと具合が悪かった。バイタルアラームが鳴るほど苦しかったのに、それでも僕をかばって戦ってくれたのだ。
それなら一刻も早くログアウトしてほしい。けれど、ここで別れたら、もう二度と会えないような気がする。迷いながらゆっくりと手を伸ばした僕に、ようやくコロが視線を向けてくれた。なにかを伝えようとしてくれているのか、ほんのわずかに唇が動く。けれど、そこから声は生まれない。やがてゆっくりとコロの全身が淡く発光し、そのまま解けて消えてしまった。
「また会える?」と、言えないまま。
「さあな」と、聞けないまま。