第八章 ゼント渓谷 1
遠くの角笛の音を聴いた後にも、アマーリエたちは夜通し歩き続けた。
そして、冬至間近の長い夜がようやく明け染めるころ、果てしなく続くかに思われた木々の列が不意に途切れて、目の前に崖の際が現れた。
「着いたよ。ゼント渓谷だ」
先導してきたアルベリッヒが誇らしそうに言う。
谷底までの落差は一〇丈〈約30m〉ほどだ。
切り立つ断崖―-というほどではないものの、それなりに傾斜の険しい崖で、ごつごつと黒い岩面のところどころに、これも黒ずんだ常緑の灌木が生えている。山毛欅が主体だった崖の上の森と違って、谷は常緑の木々で埋められていた。対岸の崖までの幅は160丈〈約480m〉といったところか。谷底に白いリボンのような川が流れている。崖の向こうのはるか遠くに青空を背にして薄青くかすむ山脈が見えた。
南部地方の境目であるペラギウの山地だ。
あの山脈を超えた先に懐かしいエルンハイムがある。
オーロ河の畔の白い都、聖堂都市エルンハイムのことを思うなり、アマーリエは涙ぐみそうになった。
七歳から十年を過ごしたエルンハイムの聖ニーファ女子修練院は、アマーリエにとっては、父の治めるミッテルヴェルンの城よりもはるかに懐かしい故郷のような場所だ。
青いパイピングを施した白いローブ姿の先生方。
揃いの青い制服を着てともに修練に励んだ学友たち。
そこには永遠に続くかのような穏やかな秩序があった。
――もしもかなうなら、わたくしは今でもあの場所に帰りたいのだわ。
でも、それはかなわない夢だ。
もし無事に帝国自治都市ランサウに着けて、地方法院に上告して冤罪が晴らせたとしても、次に待っている未来は婚姻だろう。
父が選んだ相手――結局ついに娘を護ってくれなかった父が選んだシャルル・ド・ベルナールなる顔しか知らない男の妻になって、今度は「ベルナールの奥方」と呼ばれて一生を終えるのだ。
――わたくしはそんな未来を本当に望んでいるのかしら……ああ、でも違う未来なんか望んでも仕方がない。わたくしは所詮等級《三》の治癒者に過ぎないのだもの。貴族の娘や奥方という身分を抜きにしたら、こんな厳しい外の世界で、独りで生きていけるはずがない……
全身の疲れと足の痛みのためか、気持ちが無性に沈んでしかたがなかった。
アマーリエが涙を堪えて遠い山並みを見つめている傍で、アルベリッヒとヨハンが現実的な話し合いを進めている。
「若旦那、ここからゼントファーレンまでは歩いてどれくらいで?」
「川沿いをずっと下って三〇歩里ってところかな」
「そいつはごく近いとは言えませんね。川沿いなら水の心配だけはねえでしょうが、あんたのその背嚢のなかには何か糧食があるんですか?」
「そこは心配ない」と、アルベリッヒが得意そうに言う。「ゼント渓谷の南側はゼントファーレンの人間にとったら裏庭みたいなものさ」
アルベリッヒは本当に渓谷の南側の地形に詳しいようだった。
半時間後には、一行は崖に刻まれた険しい斜めの坂道を下り終えて、針葉樹の茂る谷底の林へと降り立っていた。
灰色の空に突き刺さるような鋭利な梢を備えた樅の木の林だ。
左手から水の流れる音がした。
「こっちだよ。渓流添いには大抵小屋があるはずだ」
アルベリッヒが自信に満ちた顔で木立へ踏み込んでいく。
アマーリエとヨハンは半信半疑で従った。
するとじき木々が途切れて、目の前にごく細い石清水が流れていた。
キラキラと朝日を砕く細い流れの向こうに切妻屋根で高床の丸太小屋がある。
「ほらね」と、アルベリッヒが得意そうに言った。「ゼント渓谷の狩人小屋だよ。代価さえ置いておけば、備蓄は好きに持っていっていいんだ」




