第二話
ルミナス王国の国境を越えてから、二週間の月日が流れていた。
南西へと続く旧街道は、石畳が途切れ途切れとなり、泥と枯れ草が混ざり合う荒れた道へと姿を変えていた。
国境を接する小国シルフィア公国の領内に入ったものの、アルヴィナを取り巻く環境は決して温かいものではなかった。
「おい、あんた……アルヴィナ・ハルフォードだな?」
二日前に立ち寄ったシルフィア公国の宿場町で、宿屋の主人が突きつけてきた羊皮紙の手配書を思い出す。
そこには、王立魔導院の印章とともに、アルヴィナの人相書きと『公金横領および国家反逆の嫌疑により国外追放処分。極めて危険な背信の女魔導士』という大仰な文言が記されていた。
『悪いが、うちには泊められねえよ。ルミナス王国の大貴族様から直々に回覧が回ってきてるんだ。「匿った町や商人は、ルミナスとの交易協定から除外する」ってな。頼むから他所へ行ってくれ』
宿屋の主人に悪気があったわけではない。ただ、小国の民として、強大な大国ルミナスの圧力を恐れていただけだ。
アルヴィナは苦笑いを浮かべ、争うことなくその町を立ち去った。
それ以来、食事は野草や果実、自ら仕留めた野鳥を魔法で調理し、夜は木の上や岩陰に第1階梯の『防風と保温の簡易結界』を張って眠るという、野宿の旅が続いていた。
(レイモンドのやつ、本当に徹底しているわね……)
水筒の水を一口飲みながら、アルヴィナは街道沿いの巨木に背を預けた。
自分を追い出すだけでなく、逃げ場を完全に奪うことで、野垂れ死にさせようという魂胆なのだろう。
だが、皮肉なことに、アルヴィナの体調は宮廷にいた頃よりも遥かに良好だった。
毎晩のように書類の山に埋もれ、睡眠時間を削って術式計算に追われていた日々に比べれば、風の音を聞きながら満天の星空の下で眠る生活は、むしろ贅沢にすら思えた。
「魔力の通りも、以前よりずっとスムーズになっているわ」
アルヴィナは自らの掌を見つめた。
かつてはレイモンドの無茶な魔法行使の後始末のため、常に魔力経路が過熱し、慢性的な魔力酔いと頭痛に悩まされていた。
だが今、身体の中を巡るマナの流れは、春の小川のように澄み渡り、淀みなく循環している。
魔導士にとって、精神の平穏こそが最大の触媒であるという基本を、アルヴィナは改めて実感していた。
その時だった。
――ギチギチギチッ!
――キャアアアアッ!
湿った森の奥から、空気を切り裂くような金属質の甲高い鳴き声と、若い女性の悲鳴、そして男たちの怒号が響いてきた。
「何かしら……? 戦闘の音?」
アルヴィナは瞬時に立ち上がり、足元に風の魔力を集中させた。
第2階梯の身体強化を発動させ、泥濘に足をとられることなく、音の発生源である街道の先へと木々の間を疾走する。
数百歩ほど進んだ窪地で、アルヴィナの視界に凄惨な光景が飛び込んできた。
三台の頑丈な幌馬車が円陣を組んで立ち往生しており、その周囲を十数匹の異形の魔獣が取り囲んでいた。
大人の背丈の倍もある巨大な蜘蛛のような魔獣――『黒瘴蜘蛛』。
漆黒の甲殻から紫色の毒霧を噴き出し、鋭利な鎌のような脚を振り回して馬車へ襲いかかっている。
馬車の周囲では、革鎧を纏った護衛の冒険者たちが必死に剣や槍を振るっていたが、戦況は絶望的だった。
「ぐあああっ! 毒霧を吸い込むな! 呼吸が……くそっ、視界が霞む……!」
「回復薬が効かないぞ! これは普通の毒じゃない、古代の呪毒だ!」
護衛の男たちが次々と膝をつき、口から泡を吹いて倒れていく。
その前衛の崩壊を食い止めるように、豪奢な青い旅装に身を包んだ亜麻色の髪の少女が、短杖を構えて必死に魔法障壁を展開していた。
「皆さん、諦めないで! 馬車の中にいる負傷者を守るのです! 『光よ、穢れを払う防壁となれ(ルクス・シールド)』!」
第3階梯の光属性障壁。
少女の魔力は澄んでおり、歳の割に筋が良い。しかし、いかんせん相手が悪すぎた。
黒瘴蜘蛛の群れが一斉に紫色の粘着糸と酸性の毒液を浴びせかけると、光の障壁はヒビだらけになり、今にも砕け散りそうになっていた。
「くっ……ここまで、なのですか……!」
少女の唇から絶望の吐息が漏れた瞬間、巨大な蜘蛛の一頭が跳躍し、鎌のような前脚を少女の頭上から振り下ろした。
(――間に合いなさい!)
アルヴィナはためらうことなく、懐から一本の銀の魔導針を指先で弾いた。
「『凍てつく大気よ、我が意思を紡ぎ、堅牢なる氷壁を築け(グラキエス・ムルス)』」
ガガガガアンッ!
少女の目の前に、突如として分厚い巨大な氷の柱が地面から隆起した。
蜘蛛の鋭い前脚は氷壁に激突し、甲高い火花を散らして弾き返された。
「え……!? 氷の……魔法?」
呆然とする少女の前に、ふわりと軽やかに舞い降りる人影があった。
白銀の長髪を風になびかせ、古びたローブを優雅に翻した女性――アルヴィナだった。
「下がっていてください。息を浅くして、できるだけ毒霧を吸わないように」
「あ、貴女は……?」
「通りすがりの旅の魔導士です。説明は後で」
アルヴィナは冷徹な眼差しで、周囲を取り囲む十数匹の黒瘴蜘蛛を見据えた。
蜘蛛たちは新たな獲物の出現に警戒し、威嚇するようにギチギチと牙を鳴らしながら、一斉に毒霧の濃度を高めていく。
空気中のマナが急速に腐食し、吸い込めば肺胞を焼き尽くすほどの劇毒へと変貌していた。
「普通の魔法使いなら、この瘴気の中では満足に詠唱もできないでしょうね」
通常、第4階梯以上の高位魔法を行使するには、大気中のマナを体内に取り込んで循環させ、詠唱陣を安定させなければならない。
だが周囲のマナが毒で汚染されていれば、魔法を使おうとするだけで術者自身が毒に侵されてしまう。
しかも、第5階梯の広域殲滅魔法を発動するには、通常なら高価な魔導触媒――『高純度氷晶石』が必要不可欠だった。手元にそんな高価な鉱石などない。
(だが――触媒がないなら、創り出せばいいだけのこと)
アルヴィナは右手を天へと掲げ、深く息を吸い込んだ。
汚染されたマナを体内に取り込むのではなく、自らの体内にある純粋無垢な魔力を、超高圧で体外へ放射する。
放射された魔力は周囲の大気中の水分を一瞬で氷結させ、微細な氷の結晶の嵐を生み出した。
「術式変換――自己マナ励起による触媒代用。励起率、三百パーセント」
アルヴィナの瞳が、群青から鮮烈な白銀の輝きへと変色する。
宮廷にいた頃、レイモンドの我が儘によって触媒の予算を削られた際に、アルヴィナが血のにじむような研究の末に編み出した独自理論――『自立循環型マナ触媒技術』。
自らの魔力を臨界点まで圧縮し、疑似的な魔導鉱石として機能させる高等魔導技術だった。
「『凍獄の極寒よ、万象を沈黙の白へと誘え。虚空を貫く銀の雨となりて、悪意の穢れを穿て――第5階梯・凍獄の銀針』!」
カアアアアッ!
アルヴィナの頭上に、無数の白銀に輝く氷の槍が展開された。その数、優に数百本。
一網打尽の戦略規模の術式が、一切の詠唱破綻を起こすことなく、完璧な幾何学模様を描いて宙に静止している。
「な……第5階梯の大魔法を……単独で、しかも無詠唱に近い速度で……!?」
背後で見ていた少女が、信じられないものを見るように目を見開いた。
「穿ち、凍てつきなさい」
アルヴィナが右手を振り下ろすと同時に、無数の氷の銀針が一斉に射出された。
ドシュシュシュシュシュッ!
森の木々を揺るがす轟音とともに、氷の針が黒瘴蜘蛛の硬質な甲殻を容易く貫通し、地面ごと縫い止めていく。
貫かれた傷口から瞬時に絶対零度の凍気が広がり、蜘蛛たちの体液、毒腺、そして吹き出していた紫色の毒霧までもが、一瞬にしてカチコチに凍りついて砕け散った。
わずか数秒の出来事だった。
あれほど護衛たちを苦しめていた黒瘴蜘蛛の群れが、文字通り一体残らず氷像と化し、涼やかな風の中に白い塵となって消え去っていく。
「ふう……」
アルヴィナは軽く息を吐き、魔力の循環を通常モードへと戻した。
自前の魔力を触媒にしたため、わずかに指先に痺れを感じたが、肉体への反動は想定の範囲内だった。
「す、すごい……一瞬で、群れを全滅させるなんて……」
少女が震える足で駆け寄ってきた。
しかし、アルヴィナはすぐに厳しい表情で手元を制した。
「感嘆している時間はありません。倒れている護衛の方々を見ないと。この蜘蛛の毒は『古代呪毒』です。放っておけば数十分で心臓の鼓動が止まります」
「あ……! そ、そうです! どなたか解毒薬を……ですが、通常の解毒ポーションでは中和できなくて……!」
「大丈夫です。私の魔導で処置します」
アルヴィナは倒れ伏す護衛たちの元へと歩み寄り、膝をついた。
懐から取り出した数本の銀針を、倒れた男たちの胸元と首筋のツボへと正確に刺し込む。
「『清廉なる水の精霊よ、血潮を巡り、穢れし呪いを解き放て(ピュリフィカティオ・サングイス)』」
第4階梯の精密解毒魔法。
アルヴィナは指先から微細な魔力を針を通じて流し込み、男たちの体内に侵入した呪毒の術式構造を直接スキャンし、その魔力結合を一本ずつ解きほぐしていった。
やがて、護衛たちの肌から紫色の鬱血が消え、荒かった呼吸が穏やかな寝息へと変わっていく。
「……治った? 古代呪毒を、魔法だけで完全に解毒したのですか……!?」
少女は口元を手で覆い、驚愕のあまり言葉を失っていた。
呪毒の治療には、教会で高位司祭が何時間も祈祷を捧げるか、莫大な金額の聖水が必要とされるのが常識だったからだ。
アルヴィナは立ち上がり、残る十数名の護衛たち全員にも同様の処置を施していった。
全員の呼吸が安定した頃には、西の空が茜色に染まり始めていた。
◇
「本当に……なんとお礼を申し上げたらよいか、言葉もございません」
焚き火の爆ぜる音がパチパチと響く中、少女はアルヴィナに向かって深々と頭を下げた。
護衛たちは意識を取り戻し、馬車の修理や見張りに戻っていた。彼らもまた、アルヴィナを見る目は命の恩人に対する最大の敬意に満ちていた。
「私はセリア・メルヴィルと申します。大陸全土に交易網を持つ『メルヴィル商会』の会頭の娘で、今回は南方のグランヴェルへ向かう隊商の指揮を執っておりました」
「メルヴィル商会……あの大商会ですか」
アルヴィナも宮廷にいた頃、その名を聞いたことがあった。各国の王侯貴族とも取引を行う、大陸屈指の巨大商会だ。
「アルヴィナ様。失礼ながら……貴女のお名前と、その白銀の髪、そして並外れた魔導の腕前。もしかして、ルミナス王国で手配されている……」
セリアが言いにくそうに切り出した。
アルヴィナは隠すこともなく、静かに頷いた。
「ええ。手配書の通りです。私はルミナス王国から公金横領と国家反逆の罪を着せられ、国外追放された身です。……関わらない方が賢明ですよ。私を助ければ、メルヴィル商会にもルミナス王国からの圧力がかかるかもしれません」
アルヴィナが立ち去ろうと身を引いた時、セリアは毅然とした態度でその手をぎゅっと握りしめた。
「そんな噂、私は毛頭信じません!」
「……え?」
「私は商人です。幼い頃から人の目を見て育ちました。私利私欲のために国を裏切るような人間が、見ず知らずの他人のために、身を削って第5階梯の大魔法を放ち、倒れた護衛一人ひとりのために何時間もかけて解毒を行うはずがありません!」
セリアのエメラルド色の瞳には、一片の疑いもなかった。
ただ真っ直ぐに、アルヴィナという女性そのものを信じる光が宿っていた。
「それに、あの手配書を出したレイモンドという魔導士……商会の間でも評判は最悪ですわ。『金遣いが荒く、実績の割に魔導の基礎知識すら怪しい無能な貴族』だと。あの男が貴女の功績を妬み、陥れたのではないのですか?」
「……よくご存知ですね」
アルヴィナが思わず苦笑すると、セリアは誇らしげに胸を張った。
「メルヴィル商会の情報網を侮らないでくださいませ。……アルヴィナ様。貴女はこれから、どちらへ向かわれるご予定ですか?」
「ルミナス王国の影響が及ばない、南西の自由商都グランヴェルを目指しています。そこで、静かに暮らせる場所を探そうかと」
「まあ! 奇遇ですわ、私たちと同じ目的地です!」
セリアはパッと顔を輝かせ、懐から豪奢な紋章が刻まれた金色の証書を取り出した。
「もしよろしければ、グランヴェルまで私たちの商隊とご一緒していただけませんか? もちろん、旅の費用や食事はすべて私たちが負担いたします。それに……」
セリアは悪戯っぽく微笑んだ。
「グランヴェルは商人の自治都市。ルミナス王国の手配書など、紙屑同然に扱われる場所です。あそこなら、メルヴィル商会の後ろ盾があれば、誰に気兼ねすることなく新しい生活を始められますわ。アルヴィナ様さえよろしければ、お店を開くための店舗や資金も、商会から喜んで出資させていただきます!」
「店舗……ですか? 私が?」
「ええ! 貴女ほどの万能の魔導士様なら、ポーションの調合から魔導具の修理、結界の設営まで、どんな仕事でも引っ張りだこになりますわ! 『何でも屋』のようなお店なんて、素敵だと思いませんか?」
セリアの言葉に、アルヴィナの胸がトクンと小さく高鳴った。
宮廷の冷たい権力闘争から離れ、自分の魔法で目の前の困っている誰かを助け、穏やかに暮らす日々。
それは、追放される前のアルヴィナが夢にさえ見ることのできなかった、温かな未来の光景だった。
「……ありがとうございます、セリアさん。では、グランヴェルまでの道中、護衛として同行させてください」
「はい! よろしくお願いいたします、アルヴィナ様!」
夜空には満天の星が瞬いていた。
理不尽な追放から始まった孤独な旅路は、一人の少女との出会いによって、確かな希望に満ちた新たな一歩へと変わり始めていた。
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