第一話
よくある異世界です。
白亜の柱が整然と立ち並ぶ王立魔導院の大広間には、息が詰まるほどの冷気が満ちていた。
天井高く掲げられたシャンデリアの魔導光は、冷徹な純白の光を床の大理石へと投げかけ、そこに凛として立つ一人の女性の影を細長く引き伸ばしている。
アルヴィナ・ハルフォードは、静かに伏せていた視線をゆっくりと上げた。
絹のように滑らかな白銀の長髪がわずかに肩を滑り落ち、その奥にある深い群青の瞳が、壇上に立つ男の姿を静かに映し出す。
「――聞こえなかったのか、アルヴィナ! 貴様のような卑劣な売国奴との婚約など、もはや一秒たりとも継続することはできん! 本日、この神聖なる魔導院の名において、貴様との婚約を完全に破棄する!」
大広間に響き渡ったのは、ルミナス王国宰相の次男にして、若くして宮廷筆頭魔導士の地位に就いたとされる男、レイモンド・ヴァルディスの甲高い声だった。
艶やかな金髪を撫でつけ、豪奢な金糸の刺繍が施された特注の魔導外套を羽織ったレイモンドは、勝ち誇ったような歪んだ笑みをその端正な顔に浮かべている。
その隣には、淡いピンク色のフリルを幾重にも重ねた豪奢なドレスを纏った令嬢――エレナ・カース男爵令嬢が、これ見よがしにレイモンドの腕に自らの身体をすり寄せていた。
「まあ、レイモンド様。このような身の程知らずの平民上がりの女に、そこまで声を荒らげる必要などございませんわ。わたくしたちの輝かしい未来に、これ以上この汚らわしい罪人の影を落とすなんて、時間の無駄でしてよ」
「ああ、そうだねエレナ。君の言う通りだ。だが、この女が犯した大罪の数々を、公の面前で白日の下に晒さねば、我がヴァルディス家の名誉に関わるからね」
レイモンドはわざとらしく溜息をつき、手元の羊皮紙の束を広げた。
大広間の周囲を取り囲む魔導院の重鎮たちや貴族たちは、一様に押し黙り、あるいは侮蔑の眼差しをアルヴィナへと向けている。かつてアルヴィナが徹夜で代行した論文や、改良した術式によって恩恵を受けたはずの高位魔導士たちも、宰相家の権勢に怯え、誰一人として目を合わせようとはしなかった。
「アルヴィナ・ハルフォード。貴様には、王立魔導院の運営費から三億ルピスにのぼる公金を横領した容疑、ならびに我が国の防衛結界の機密術式を隣国ロザリア帝国へ密売しようとした国家反逆の容疑がかけられている」
「……公金の横領、および国家反逆、ですか」
アルヴィナは感情を押し殺した、極めて平坦で澄んだ声で返した。
「心当たりなど毛頭ありません。そもそも魔導院の出納記録はすべて私が管理し、監査官へ定期的に提出していたはずです。帳簿の数字に一切の不備はなかったはずですが」
「ふん! その帳簿そのものが巧妙な改ざんの産物だったのだよ! 貴様が魔導の腕を悪用し、監査魔法を欺く偽装術式を施していた証拠が、すでにこの手元にある!」
レイモンドが掲げたのは、確かにアルヴィナの魔力署名が刻まれた魔導書類だった。
しかし、アルヴィナにはそれが完全な捏造であると一目で分かった。その術式構造の稚拙さと、無理やり後から付け足された二重署名の痕跡。あまりにお粗末な偽造だったが、この場でそれを客観的に暴くための魔導鑑定を行う権利すら、アルヴィナには与えられていなかった。
「さらに言えば、ロザリア帝国の密偵と貴様が密会していたという目撃証言も上がっている。エレナの叔父が務める警備隊の隊長が、貴様が深夜に裏路地で怪しげな外套の男に書状を手渡すのを確認したのだ!」
「深夜……ですか。その時間、私は常に貴方の執務室におりましたが。レイモンド様がエレナ嬢との夜会に耽っている間、翌日の御前会議で提出する『国土防衛結界の負荷分散案』の清書と術式補正を、私が一人で行っていたはずです」
アルヴィナの静かな反論に、レイモンドの眉がピクリと跳ね上がった。周囲の貴族たちからも、わずかにさざ波のような囁き声が漏れる。
レイモンドが無能であること、そしてその華々しい成果の多くが補佐であり婚約者であったアルヴィナの手によるものであることは、宮廷内の公然の秘密だった。
だが、それを口にすることはタブーだった。
「だ、黙れ! 言い逃れをするな! 貴様が夜な夜な執務室に籠もっていたのは、机の奥から機密書類を盗み出すためだったのだろうが! これまで私の寛大な慈悲によって、筆頭補佐という分不相応な地位に就けてやっていれば、恩を仇で返しおって!」
「そうですわよ!」
エレナが扇子で口元を隠しながら、甲高い声で追撃する。
「レイモンド様がどれほど日夜、国のために心を砕いていらっしゃるかも知らずに! この女は、レイモンド様の論文を横から盗み見しては、あたかも自分が考えたかのように周囲に吹聴していたのですわ! 愛嬌も色気もない地味な女のくせに、本当に浅ましくて吐き気がします!」
(……私の論文を横から盗み見た、か)
アルヴィナは心の中で冷ややかに嘲笑した。
レイモンドが学会で発表し、絶賛を浴びた『多重属性励起理論』も『局所結界の魔力自己修復機構』も、すべてアルヴィナが何ヶ月も仮眠だけで過ごし、血のにじむような計算と実験の末に編み出したものだった。
レイモンドが行ったことといえば、完成した論文の表紙に自らの名前を大書し、国王や高官たちの前で朗読したことだけだ。
魔導の世界において、高位の魔法を行使するには過酷な代償が伴う。
第3階梯や第4階梯の中級魔法でさえ、術者の魔力経路を焼き切らんばかりの負荷を与え、膨大な集中力を要求する。
ましてや第5階梯以上の戦略級魔法となれば、高価な魔導触媒――一粒で平民の家が建つほどの高純度魔石を消費し、複雑極まる幾何学的な魔法陣を空間に正確無比に構築しなければならない。
レイモンドは、その基礎の基礎すら理解していなかった。彼が実戦で派手な魔法を撃ち放ち、宮廷の喝采を浴びていた際も、常に背後の影からアルヴィナが魔力循環を肩代わりし、術式の崩壊を防ぐ媒介の役割を果たしていたのだ。
それだけではない。
エレナとの贅沢三昧な日々のつけ、高級宝飾品や稀少な年代物のワインの購入代金、連夜の豪勢なパーティー費用。それらの支払いの穴埋めのために、レイモンドが魔導院の研究開発費を不正に引き出していたことを、アルヴィナは知っていた。
アルヴィナはその都度、自らの身を削って研究費を工面し、帳簿の辻褄を合わせるようレイモンドに諫言してきたのだ。
だが、その忠告はすべて、レイモンドにとって「目障りで可愛げのない小言」でしかなかったらしい。
「アルヴィナ、貴様のような危険思想の持ち主を、これ以上ルミナス王国の土に留めておくわけにはいかん」
レイモンドは冷酷な宣告を下すように、壇上から一枚の羊皮紙を投げ捨てた。
ひらひらと舞い落ちた紙片には、国王の代理署名と宰相の印章が捺印されていた。すでに裏工作は完璧に完了していたのだ。
「国王陛下ならびに魔導院最高評議会の決定に基づき、貴様の身分を平民へと剥奪、宮廷魔導士の任を永久に解く。そして――本日ただ今をもって、ルミナス王国からの国外追放を命じる!」
大広間に、しんと静まり返る沈黙が落ちた。
国外追放。女性一人で生きていくには、あまりにも過酷な死刑宣告に近い処分だ。
しかも、レイモンドの言葉はそれだけに留まらなかった。
「安心しろ、アルヴィナ。貴様のような大罪人が他国で我が国の恥を晒さぬよう、周辺諸国へはすでに我が国の公式親書をもって、貴様の横領と売国の罪状を広く通達してある。『ルミナス王国を裏切った稀代の犯罪魔導士』としてな! どこの国の門を叩こうとも、貴様を受け入れる場所などこの大陸のどこにも存在しないと思え!」
広間に集まった貴族たちから、下卑た嘲笑と冷たい視線が浴びせられる。
エレナは満足そうに喉を鳴らし、レイモンドの胸に顔を埋めた。
「さあ、衛兵! その女の魔導杖を没収し、身ぐるみを剥いで王都の門の外へ叩き出せ! 二度とその醜い顔を我が国の視界に入れるな!」
数名の重装歩兵が槍を構えてアルヴィナを取り囲み、彼女の腰に下げられていた使い古された木製の杖を乱暴に奪い取った。
それはアルヴィナが亡き師から受け継ぎ、長年自らの手で魔力回路を刻み込んできた大切な杖だったが、衛兵はそれを床に叩きつけ、軍靴で踏み躪った。
パキリと乾いた音を立てて折れる木片。
だが、アルヴィナは取り乱すことも、無駄に抵抗することもなかった。
ただ、折れた杖の破片を静かに見つめ、すっと背筋を伸ばした。
「……分かりました」
「あ?」
「貴方方の決定に従い、私はこの国を去ります」
取り乱すどころか、一切の動揺を見せないアルヴィナの凛とした態度に、レイモンドは拍子抜けしたように眉をひそめた。
「ふ、ふん……虚勢を張るのも今のうちだ。外に出れば、寒さと飢え、そして悪名に追われて野垂れ死ぬ運命がお前を待っているのだからな!」
アルヴィナは何も答えず、ただ優雅に一礼した。
そして、踵を返し、白銀の髪をふわりと翻しながら大広間の大扉へと歩を進めた。
(ようやく……終わったのね)
大理石の廊下を歩きながら、アルヴィナは胸の内で小さく息を吐いた。
不思議なほど、心は凪いでいた。
怒りや悲しみがなかったわけではない。理不尽な濡れ衣を着せられ、すべてを奪われたことに対する悔しさがゼロであるはずがない。
だがそれ以上に、アルヴィナの胸を支配していたのは、信じられないほどの「解放感」だった。
毎朝、夜明け前から深夜まで、果てしない書類仕事と術式計算に追われる日々。
レイモンドが起こした不始末の後始末に奔走し、傲慢な貴族たちの我が儘を聞き流し、自らの研究など何一つできないまま、削られるだけだった時間。
高位魔法の行使による魔力枯渇の頭痛と、触媒の代償による身体の軋みに耐えながら、それでも「国の防衛のため」「婚約者のため」と自らに言い聞かせてきた軛が、今、完全に断ち切られたのだ。
(これからは、誰のためでもなく、自分のために魔法を使える)
その事実だけが、冷え切ったアルヴィナの心に小さな灯火を灯していた。
◇
王都の外縁を取り囲む巨大な城壁の門が、重々しい金属音を立てて閉じられた。
背後で跳ね橋が上がり、アルヴィナは冷たい石畳の街道の上に一人取り残された。
手元に残されたのは、身につけている古びた旅装のローブと、わずかな銅貨が入った革袋、そして腰の小さなポーチに収められた最低限の筆記用具と手帳だけだった。
高価な魔導書も、研究用の魔導触媒も、すべて王宮に没収されていた。
空を見上げれば、どんよりとした鉛色の冬雲が広がり、冷たい風がアルヴィナの白銀の長髪を揺らした。
「さて……まずはどこへ向かうべきかしら」
アルヴィナは手帳を開き、大まかな大陸地図に目を落とした。
レイモンドの宣言通り、ルミナス王国の影響力が及ぶ周辺諸国には、すでにアルヴィナを犯罪者として貶める手配書が回っているはずだ。
隣国のロザリア帝国はルミナス王国と軍事的な緊張関係にあるが、だからといって「ルミナス王国の裏切り者」を快く受け入れるほど甘い国ではない。利用価値がなければ投獄されるか、最前線の捨て駒にされるのが関の山だろう。
「安全に腰を落ち着けるなら……ルミナス王国の息がかからない、遥か南西の海洋諸国連合ね」
南西の果てにある自由商都グランヴェル。
ルミナス王国からは山脈を越え、複数の大河と険しい街道を渡らねばならない遠国だが、商人たちが自治を行う中立都市であり、魔導士ギルドの縛りも比較的緩やかだと聞く。
「距離にしておよそ千五百リグ……徒歩と乗り合い馬車を乗り継いでも、数ヶ月はかかるわね」
アルヴィナはポーチから一本の細い金属針を取り出した。
魔導杖は奪われたが、アルヴィナにとって杖はあくまで「術式の照準を安定させるための道具」に過ぎない。
真に優れた魔導士であれば、体内の魔力循環と空気中のマナを同調させることで、指先ひとつで術式を編み上げることができる。
「『風よ、路を均し、足元に軽やかなる息吹を(ウェントス・レヴィス)』」
第2階梯の身体強化・風歩魔法。
本来ならば魔導書片手に十数節の詠唱を要する術式を、アルヴィナはわずか一小節の短縮詠唱で瞬時に起動させた。
青白い光の粒子がアルヴィナの両足に絡みつき、重力の影響を三分の一に軽減する。
一歩踏み出すごとに、身体が羽のように軽く宙を滑るような感覚が伝わってきた。
「よし……行きましょう」
アルヴィナは一度も王都の城壁を振り返ることなく、灰色の街道を南西へ向けて歩き出した。
冷たい風が吹き抜ける荒野の先には、未知の苦難が待ち受けているはずだった。
だが、その足取りは、宮廷の豪奢な大広間を歩いていた時のどれよりも、遥かに力強く、軽やかだった。
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