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追放された万能魔導士の穏やかな万屋生活 ~仕事を押し付けていた元婚約者が破滅しても、もう遅い~  作者: だんよ


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第十話

 自由商都グランヴェルの中央運河に、朝靄を透かして柔らかな陽光が降り注いでいた。

 海からの心地よい潮風が水面を撫で、白壁の家々の窓辺に飾られた花々を優しく揺らしている。

 ハルフォード万屋の二階の住居で目を覚ましたアルヴィナは、窓を開けて大きく深呼吸をした。

 澄み渡る群青の空には白い海鳥が優雅に舞い、運河の向こうからは市場の威勢のいい掛け声と、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。


「おはようございます、アルヴィナ様!」


 一階の店舗兼工房へ降りると、すでにエプロンをつけたセリアが、カウンターに朝食のパンと温かいポタージュスープを並べていた。

 亜麻色の髪を後ろで束ねたセリアのエメラルド色の瞳が、朝露のようにきらきらと輝いている。


「おはよう、セリアさん。いつも朝早くから手伝ってくれてありがとう」

「ふふ、私が好きでやっているのですからお気になさらないでくださいまし。……あ、シリルさんももうすぐ来る頃ですわね」


 その言葉通り、店の扉のベルがカランと心地よい音を立てて鳴り、制服姿のシリルが顔を覗かせた。


「よう、アルヴィナ! セリアのお嬢さんも! 朝の港の見回りを終えてきたぜ。……おっ、美味そうなスープだな! 一杯相伴に預かっていいか?」

「ええ、もちろんどうぞ。シリルさんの分も用意してありますよ」


 三人でテーブルを囲み、温かいスープを啜りながら今日の依頼の予定を話し合う。

 港の大型冷蔵倉庫の冷却術式メンテナンス、農園の水路に設置する揚水魔導具の調整、そして孤児院の子供たちの魔力適性検査の手伝い――。

 どれも国家の存亡や政治の権力闘争とは無縁の、ささやかで、しかし人々の生活に直結した温かな仕事ばかりだった。


 その時だった。


 トントン、と遠慮がちな、しかし礼儀正しいノックの音が店の扉に響いた。


「……いらっしゃいませ。どうぞ」


 アルヴィナが声をかけると、扉が静かに開かれた。

 そこに立っていたのは、ルミナス王国の近衛騎士団の儀礼服を纏った数名の使節団と、その先頭に立つ白銀の魔導外套を羽織った一人の青年だった。

 青年の顔を見た瞬間、アルヴィナは微かに目を見張った。


「……ルーカス?」

「アルヴィナ……先生……っ!」


 青年魔導士ルーカスは、アルヴィナの姿を見るや否や、瞳に涙を溢れさせ、その場に深々と跪いた。

 かつてルミナス王国の王立魔導院で、アルヴィナが手取り足取り魔導の基礎と研究の倫理を教え込んだ、最も優秀で誠実な後輩魔導士だった。


「ルーカス、どうして貴方がここに……?」

「アルヴィナ先生……ルミナス王国摂政、エリオット第一王子殿下の全権特使として参内いたしました。……先生に、国家としてのすべてをお伝えするために参りました」


 ルーカスは震える手で、豪奢な黒漆塗りの木箱を差し出した。

 箱の中には、純金で縁取られたルミナス王室の最高位親書と、王家に代々伝わる国宝の魔導宝剣『星輝の聖剣』が収められていた。


「アルヴィナ先生。ルミナス王国最高法廷による厳正なる再調査の結果、過去に先生に着せられていた公金横領および機密漏洩の嫌疑が、すべてレイモンド・ヴァルディスらによる完全な捏造と虚偽告発であったことが公式に証明されました」


 ルーカスは声を詰まらせながら、エリオット王子直筆の親書を読み上げた。


「本日、ルミナス王国政府は全世界に向けて『アルヴィナ・ハルフォード殿の完全なる無実と名誉回復』を宣言し、過去の国外追放処分を公式に全面撤回いたしました。周辺諸国へ回されていた手配書はすべて破棄され、先生の名誉は完全に雪がれました」


 大広間に響くルーカスの声。

 セリアはそっと胸に手を当てて涙を浮かべ、シリルは腕を組んで静かに頷いた。


「さらに……エリオット殿下より、心からの謝罪と共に、先生への復権の要請が届いております。宮廷筆頭魔導士の地位、伯爵位の授与、ならびに王立魔導院の最高権限をお渡しいたします。……どうか、どうかルミナス王国へお戻りいただき、我が国の再建にお力をお貸しいただけないでしょうか……!」


 ルーカスは床に額を擦り付け、必死の面持ちで懇願した。

 かつてアルヴィナを嘲笑し、踏みにじった祖国が、今や国家の最高位の栄誉と富を携えて、彼女の帰還を涙ながらに請い願っているのだ。


 だが――アルヴィナの群青の瞳には、迷いも、かつての祖国への未練も、何一つ映っていなかった。


 アルヴィナは静かに歩み寄り、ルーカスの肩に優しく手を置いて立たせた。


「ルーカス。貴方が立派に近衛魔導隊を率いるまで成長してくれたこと、本当に嬉しく思います」

「アルヴィナ先生……!」

「エリオット殿下からの親書、そして無実の証明と名誉回復の布告、謹んでお受けいたします。私の名誉を雪いでくださった殿下の公明正大なる御差配に、心より感謝申し上げます」


 アルヴィナは深々と礼を交わした。

 そして――穏やかな、しかし決して揺らぐことのない微笑みを浮かべて告げた。


「ですが……宮廷筆頭魔導士への就任、ならびにルミナス王国への帰還については、辞退させていただきます」


 ルーカスは息を呑み、目を見開いた。


「ど、どうしてですか……!? 先生の冤罪は晴れたのです! 今戻られれば、誰も先生を侮る者などおりません! すべての貴族が先生に傅き、最高の研究環境と名誉が約束されているのですよ!?」

「ええ、分かっています。ですがルーカス、私は今、この街でとても幸せなのです」


 アルヴィナは振り返り、店のカウンターと、そこに並ぶ素朴な道具たち、そして心配そうに見守るセリアとシリルの姿を温かな眼差しで見つめた。


「宮廷にいた頃の私は、他人の欲望や国家の権力争いのために、身を削って魔法を使っていました。どれほど大魔法を成功させても、心は常にすり減り、冷え切っていました。……ですが、追放されてこの街に辿り着き、私は初めて知ったのです。魔法とは、目の前で困っている誰かの手を握り、日々の暮らしを少しだけ温かくするためにあるのだということを」


 アルヴィナの声は、春の陽だまりのように穏やかで、力強かった。


「冷え切った家を温める暖房炉を直すこと。大切な想い出の詰まったペンダントを修復すること。漁に出る船乗りたちの網の呪いを解くこと。……それらのささやかな笑顔に囲まれて過ごすこの万屋での日々こそが、私の生涯をかけて守りたい宝物なのです。ですから私は、この自由商都グランヴェルで、万屋の店主として生きていきます」


 アルヴィナの飾らない、しかし魂の奥底から紡ぎ出された決意の言葉に、ルーカスは呆然と立ち尽くした。

 かつて魔導院の暗い書庫で、アルヴィナが語ってくれた言葉――『魔導は権力のためにあるのではない。日々の暮らしを豊かにするためにある』という教えが、ルーカスの胸に鮮明に蘇っていた。

 そしてやがて、ルーカスの目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。


「……分かりました。先生のそのお顔を見れば……どれほどこの街を愛し、愛されているか、痛いほど伝わってまいります」


 ルーカスは涙を拭い、居住まいを正して深々と頭を下げた。


「エリオット殿下には、先生の崇高なるご決断をそのままお伝えいたします。……宝剣はお受け取りいただけなくとも、先生が無実であり、世界で最も偉大な魔導士であられることは、我が国の歴史に永遠に刻まれます」

「ありがとう、ルーカス。貴方がこれからのルミナス王国を、身分や性別に関係なく誰もが努力を認められる、温かな国にしてくれることを信じていますよ」


 アルヴィナが温かく手を差し伸べると、ルーカスはその手を固く、固く握りしめた。


 ◇


 特使団を見送った後、ハルフォード万屋の前には、いつも通りの穏やかで活気ある日常が戻っていた。


「アルヴィナさん! 手配書が全部剥がされて、無実が世界中に知れ渡ったんだってな! おめでとう!」

「お祝いに、今朝獲れたての特上魚を持ってきたよ!」

「店主さん、昔直してもらったペンダント、今でも毎日綺麗に映ってるよ。あんたがこの街に残ってくれて、本当に嬉しいよ!」


 近所の人々や商人たち、港の船乗りたちが次々と店先に集まり、アルヴィナの名誉回復とこの街への定住を心から祝福してくれた。

 子供たちがアルヴィナの服の裾を引っ張り、屈託のない笑顔で笑いかける。

 アルヴィナは膝をつき、子供たちの小さな掌の上に、熱を持たない柔らかな光の蝶を魔法で生み出して遊ばせてあげた。歓声を上げて光を追う子供たちの瞳は、どんな宝石よりも輝いていた。


「アルヴィナ様!」


 セリアがカウンターから、分厚い依頼台帳を抱えて小走りに駆け寄ってきた。


「本日もたくさんの依頼が届いておりますわ! 南方の農園からの土壌改良魔法のご相談に、新しい魔導ランプの効率化、それから……」

「おいおい、セリアのお嬢さん、俺たちの警邏隊の結界具の点検も順番に入れてくれよな!」


 シリルが豪快に笑いながら割り込んできた。

 セリアはクスクスと笑いながら、アルヴィナの隣へと並び立った。


「ふふ、実は私、父と相談して、メルヴィル商会の南西本部をここグランヴェルに常設することに決めましたの。ですから……これからもずっと、アルヴィナ様のお隣で、万屋の経営をお手伝いさせていただきますわ!」

「セリアさん……本当にありがとうございます。心強いですよ」


 二人が見つめ合って微笑むと、シリルが「ごちそうさまだぜ!」と大袈裟に肩を竦め、周囲の住人たちから温かな歓声と笑い声が沸き起こった。


 かつて理不尽な濡れ衣を着せられ、すべてを奪われて追放されたあの日。

 灰色の街道を一人で歩き出した時には、想像すらできなかった未来が、今ここにあった。


(誰のためでもなく、自分の意志で選び取った私の居場所)


 アルヴィナは空を見上げた。

 海を越えて吹き抜ける爽やかな風が、白銀の長髪を優しく揺らす。

 店の軒先には、手作りの小さな木製看板が、誇らしげに太陽の光を浴びて輝いていた。


『ハルフォード万屋――魔導具の修理、ポーション調合、各種ご相談、承ります』


「さあ――今日も、開店しましょう」


 万能の魔導士アルヴィナは、かけがえのない仲間たちと共に、希望に満ちた明日へと向かって、笑顔で新たな一歩を踏み出した。


(完)


最後まで御覧いただきありがとうございました。

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