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ボロボロ領地が私の力で、いつの間にか聖域と呼ばれるようになっていました。  作者: 逆立ちハムスター


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8

 収穫祭の夜、星空の下で交わされた不器用なプロポーズから、ひと月が過ぎた。


 ルデラ領は今や、誰も『世界の掃き溜め』とは呼べないほどの美しさと豊かさを誇っていた。

 私が浄化した大地は作物を無限に育み、澄み切った川は陽光を反射してきらきらと輝いている。難民だった人々はすっかり健康的な顔つきになり、朝から晩まで活気ある声が響き渡る。

 そして何よりの変化は、私とシレンティウス様の関係だった。


「カエナ。いつもの素敵なハーブティーの、おかわりを」

「はい、ただいま。今日は少し特別に、干した野イチゴをブレンドしてみました」

「……ああ、なんて良い香りだ。君の淹れる茶は、どうしてこうも心が落ち着くのだろうな」


 執務室のソファで、隣同士に並んで座る私たち。

 以前は向かいの席に座るか、少し距離を置いていた彼が、今ではこうして当たり前のように私のすぐ隣に腰を下ろすようになった。肩が触れ合うほどの距離で、彼は本を読み、私は刺繍や領地の経過日記づけをする。

 時折、彼がページをめくる手を止めて私の頭を撫でてきたりするものだから、その度に心臓が跳ね上がって大変なのだが、この静かで甘い時間が私は大好きだった。


「そういえば、シレンティウス様」

 私はティーカップを手渡しながら、ふと思い出したように口を開いた。

「最近、領地の境界線あたりで、見慣れない服装の人たちがうろうろしていると、パルのお父さんが言っていました。またヴァルスト帝国の残党でしょうか?」


 シレンティウス様は特製茶を一口飲み、静かに目を伏せた。

「いや、帝国の連中ならもっと騒々しい。おそらく……『匂い』を嗅ぎつけた小奇麗な猟犬どもだろうな」

「猟犬……?」


 その言葉の意味を、私が理解するのにそう時間はかからなかった。


 翌日の昼下がり。ルデラ領へと続く街道(元は沼地だったが、今では立派な平野)を、土埃を上げて進んでくる一団があった。

 ヴァルスト帝国のような黒い軍馬ではない。太陽の光を反射してピカピカと輝く、豪奢な白馬に引かれた黄金の馬車だった。周囲を護衛する騎士たちの鎧も、儀礼用の華美な装飾が施されている。


「お、おい! なんだありゃあ!」

 畑仕事をしていた領民たちが、驚いてクワを取り落とす。

 報せを受けた私とシレンティウス様が館の前に出ると、ちょうど黄金の馬車が停まり、中から一人の男が降りてきた。


 絹のローブに身を包み、過剰なほど香水プンプンと匂わせる、神経質そうな細身の男だった。

「おお……! なんという奇跡! 底なし沼と毒の霧に沈んだ死の土地が、これほどの黄金郷に生まれ変わっているとは! ま・さ・に、神の御業!」

 男は芝居がかった身振りで周囲を見渡した後、私たちの前に進み出て、恭しく(しかしどこか見下したような)一礼をした。


「お初にお目にかかる、ルデラ領主殿。私は神聖ルミエル王国の特使、エルフォード伯爵と申しまっす!」

 ルミエル王国。ヴァルスト帝国とは反対側に位置する、豊かな水源と信仰の国だ。

「……何の用だね? ここは他国との国交を持たない、独立した辺境の地だが?」

 シレンティウス様が、温度のない声で冷たく応じる。


 しかしエルフォード伯爵は怯むことなく、ニヤリと嫌な笑みを浮かべた。

「ご挨拶を。もはやこの地は『辺境のゴミ捨て場』などではありません。そして……そちらにいらっしゃる美しいご令嬢こそが、この奇跡を起こした神に愛されし『聖女』様ですね?」

 伯爵のぎらついた視線が私に向けられ、思わず一歩後ずさる。

 すかさずシレンティウス様が私の前にそっと立ち塞がり、伯爵の視線を遮った。


「彼女は私の婚約者だ。気安く呼ぶな」

「はっはっは! 婚約者、ですか。それはひどい冗談だ」

 伯爵は扇子で口元を隠し、嘲るように笑った。

「シレンティウス殿。あなたが元々、大国の権力闘争に敗れてこの地に追放された『名ばかりの貴族』であることは、我々も調査済みです。魔法が使えない、武力も持たない無能な領主。……そんなあなたに、この偉大なる聖女様を独占する権利などありませんよ」


 どうやら彼らは、一ヶ月前にここで何が起きたか(シレンティウス様がたった一人で軍隊を吹き飛ばしたこと)を知らないらしい。ヴァルスト帝国の生き残りが、恥を隠すために事実を歪めて報告したのだろうか。


「聖女カエナ様!」

 伯爵はシレンティウス様を完全に無視して、私に向かって声を張り上げた。

「我がルミエル王国の第一王子が、あなたを正妃として迎え入れたいと仰せです! こんなうらぶれた男のそばにいる必要はありません。我が国に来れば、あなたは神の使いとして崇められ、贅沢の限りを尽くすことができますぞ! さあ、この馬車へ!」


 領民たちがざわめき、不安そうに私を見る。

 「カエナ様、行っちゃうの……?」と、パルの泣きそうな声が聞こえた。


 私は小さく息を吸い込んだ。

 そしてシレンティウス様の背中から一歩前に出て、エルフォード伯爵を真っ直ぐに見据えた。


「お断りします」


 私のきっぱりとした声に、伯爵の顔から笑みが消えた。

「なっ!? なんですと!? お、お断わり? ば、何を仰る、正妃ですよ!? 将来の王妃になれるのですよ!?」

「その……興味がありません」

 私は、隣に立つシレンティウス様の腕に、ぎゅっと自分の腕を絡ませた。彼が少し驚いたように私を見下ろすが、私は構わず言葉を続けた。


「私はシレンティウス様の側にいると決めたのです。王妃の座も、贅沢な暮らしもいりません。私が一番欲しいものは、もうこのルデラ領に全てありますから」


 私の言葉に、領民たちからパァッと明るい安堵の表情が広がり、やがて「そうだそうだ!」「カエナ様は俺たちの聖女様だ!」と歓声が上がり始めた。


 伯爵の顔が、屈辱で真っ赤に染まっていく。

「き、貴様ら……! こ、この田舎者の分際で、我がルミエル王国の恩情を無下にするというのか! ええい、構わん! 聖女を力ずくで馬車へ乗せろ! あの無能な領主は殺しても構わん!」

 伯爵が叫ぶと、護衛の騎士たちが一斉に剣を抜き、殺気を放ちながら私たちに迫ってきた。


「きゃっ……!」

「カエナ。目を閉じていなさい」


 シレンティウス様の静かな声が耳元に落ちた瞬間。

 ――ピキッ、と。

 空気が凍りつくような、異様な音が響いた。


『――止まれ』


 彼が軽く右手をかざした瞬間、世界から一切の「音」が奪われた。

 いや、それだけではない。突撃してこようとした騎士たちが、まるで目に見えない分厚いガラスの壁に激突したかのように、空中でピタリと静止したのだ。

 剣を振り上げたまま、彼らの表情は極度の恐怖に歪み、目だけがギョロギョロと動いている。動けないのだ。呼吸の音すら、シレンティウス様の魔力によって「沈黙」させられている。


「な……が、あ……っ!?」

 唯一、声帯だけを縛られなかった伯爵が、膝から崩れ落ちて震え上がった。

 シレンティウス様は、冷え切った、絶対的な王者の瞳で伯爵を見下ろした。


「……勘違いをしているようだな、ルミエルの犬よ。お前たちは浅知恵で、私が『無能』を装っていたのは、掃き溜めに群がる羽虫をいちいち相手にするのが面倒だったからに過ぎない」


 彼が一歩踏み出すごとに、大地がドクン、ドクンと脈打ち、恐ろしいほどの重圧が伯爵を押し潰していく。

「私はシレンティウス。このルデラ領の絶対の『主』だ。……私の領地に二度と踏み入りるな、そしてカエナに二度と汚い口を利くことは許さん」

「ひ、ひぃぃぃぃっ! ば、化け物……っ!!」


 シレンティウス様が指先を小さく弾くと、騎士たちを縛っていた拘束が解け、彼らは蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げながら黄金の馬車へと逃げ帰っていった。

 伯爵も這うようにして馬車に転がり込み、一目散に街道を逃げ去っていく。土埃だけが、みじめに取り残された。


「……人間は成長しないな」

 馬車が見えなくなったところで、シレンティウス様はふっと息を吐き、いつもの静かで少し気怠げな領主の顔に戻った。


「シレンティウス様、すごいです! 一滴の血も流さずに追い払っちゃいましたね!」

 私が尊敬の眼差しを向けると、彼は少しだけ気まずそうに目を逸らした。

「……あまり、ああいう力は見せたくなかったのだ。君や皆が怖がるかと思って」

「怖がるだなんて、そんなことありません! だって、私たちを守るために使ってくれたんですから」


 私がえへへと笑うと、彼は短くため息をつき、それから……不意に、私の肩を抱き寄せて、自分の胸の中にすっぽりと閉じ込めた。


「えっ……? シ、シレンティウス様?」

「……少しだけ、腹が立ったんだ。許してくれ」

 彼の低い声が、頭の上から降ってくる。

「君があの男の誘いに乗るはずがないと分かってはいたが……それでも、他の男が君に触れようとしただけで、どうしようもなく苛立ってしまった。私は、自分が思っていた以上に狭量な『者』らしい」


 それは彼なりの精一杯の「嫉妬」の告白だった。

 普段は冷静沈着で、何事にも動じない彼が、私のためにそんな感情を抱いてくれたことが嬉しくて、私は胸が甘く締め付けられた。


「だ、大丈夫ですよ。私はどこにも行きません」

 私は彼の広い背中に腕を回し、その温もりを確かめるように抱きしめ返した。

「私を聖女にしてくれたのは、シレンティウス様です。……私のご主人様は、世界にただ一人だけですよ」

「……聖女か。ああ。絶対に、君を手放さない」


 彼の手が、私の銀色の髪を愛おしそうに撫でる。

 領民たちが気を利かせて遠巻きに見守る(あるいは温かく冷やかしている)中、私たちはしばらくの間、ルデラの温かい陽光の下で抱き合っていた。


 武力も、権力も、もう私たちを脅かすことはできない。

 世界の掃き溜めから始まったこの場所は、二人の揺るぎない絆によって、本当の意味で誰にも不可侵の『絶対聖域』となったのだ。

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