第九話 灰色の街道
先発隊が武州・蘇原の地に足を踏み入れたとき、灰色の空からは白い雪がちらちらと舞い落ちていた。
街道から見下ろす蘇原の中心部からは、黒く細い煙がいくつも立ち上っている。かつて平穏だったはずの建物の残骸が焼け爛れ、冬の寒空に痛々しく溶け込んでいた。
すでに展開を終えていた先発隊は、包囲された蘇原の外縁に沿って兵を厳重に配置しており、対峙する反乱兵との間には張り詰めた緊張感が漂う。
散発的な小競り合いはあちこちで発生していたが、全面衝突という最悪の事態には辛うじて至っていなかった。
朝凪は馬上から、黒煙の上がる蘇原の街並みを静かに見渡した。
――死者が出ている。
その事実は、出立前から日和の報告書を読んで分かっていたはずだった。
だが、実際に視界を覆う硝煙と破壊の跡を目の当たりにすると、胸にのしかかる重みはまるで違った。
桜桃は、やがてこの地獄のような惨状の中へと入ってくるのだ。
傷つき血を流す人々の傍らに立ち、命を落としていった者たちの過酷な弔いをする。一人ひとりの死という名の重荷を、あの小さな背中で受け止めながら。
朝凪は深く、静かに息を吐き出した。
熱い痛みが、胸の奥をじりじりと焦がしていく。後発隊の到着はまだ先だ。
昊夜も、そして桜桃も、まだここにはいない。今はただ、この先発隊だけで戦況を維持しなければならなかった。
***
先発隊の詰所では、緊迫した空気の中で簡単な作戦確認が行われていた。
暁が地図の前に立ち、感情を排した声で淡々と説明を始める。
「現在、反乱兵は蘇原の中心部を完全に包囲している。中心部には多くの民と負傷者が取り残されている状態だ。我々の第一任務は、まずここに人員を滑り込ませることだ」
「侵入の経路は?」
「南東の水路沿いに、敵の死角となる一帯がある。そこから民を誘導しつつ、内部へと潜入させる」
「入った後はどうしますか」
「そのまま籠城する。怪我人の手当と民の避難を進め、陣地を死守しながら、後発隊の到着を待つ」
疾風が地図を覗き込みながら、小さく口を開いた。
「後発隊が来たら、外側から一気に包囲を絞る感じですか」
「その通りです。内と外から同時に反乱兵を挟み撃ちにする。時間はかかりますが、正面から力押しで当たるよりも、確実に死者の数を減らせます」
「なるほど……」
疾風は納得したように少し考える顔つきになり、「俺の部隊の配置はどこですか」と尋ねた。
「西側を強固に固めてください」
「西側、ですか」
「はい」
「そこは重要な場所ですか?」
「どこも重要です」
「そりゃそうですよね」
疾風は短く笑って頷いた。暁はそれ以上、余計な言葉を重ねなかった。
***
作戦が動き出した直後のことだった。
民を先導しながら、危険な南東の経路を進む先発隊の中に、暁の目を引く一際際立った身のこなしの男がいた。
戦慣れしている。
それも生半可な経験ではない。状況判断が極めて速く、一切の無駄がない。民の安全を確保して誘導しながらも、同時に周囲のわずかな敵の動向を完全に読み切って動いている。
暁はその男の後ろ姿を鋭く目で追った。
どこかで、確かに見たことのある動きだ。
しかし、暁の記憶に刻まれているその男は、もっと長い髪を美しくなびかせていたはずだった。
今はその髪が以前よりも短く、下の方でひとつに纏められている。それが、一瞬で気づけなかった理由だった。
暁の眼が、驚愕に大きく見開かれる。
(……朝凪)
あの凄惨な謀反が起きる前。精鋭たる近衛において、若くして中将の地位に就いていた男。
そして、崩御された先帝の皇女の護衛を、一身に任されていたはずの男だ。
生きていたのか。
なぜ、今になってここにいる。
近衛への復職、あるいは朝廷軍への正式な帰参という話は、一切聞いていない。
ただ今回は、清明が身元と腕を保証した志願者が一人いるとだけ聞かされていた。まさか、それが朝凪だったとは。
清明が、彼を――。
暁はしばらくの間、その事実だけを頭の中で反芻した。
生きていたのであれば、なぜもっと早くに軍へ戻ってこなかったのか――そこまで考えかけて、暁は己の思考をすぐに打ち消した。あまりにも愚問だった。
朝凪は先帝の忠臣であり、皇女の盾だった。
その双璧とも言える守るべき存在を、同時に、一度に失ったのだ。
すべてを失ってなお、すぐに何事もなかったかのように平然と戻ってこられるわけがない。戻れなくて当然だった。
暁は、朝凪が凍える民を気遣いながら前へと進む様子をしばらく見つめていたが、やがて静かに馬を進めた。
包囲網の隙間を突く、決死の突破作戦が本格化する。
南東の狭い経路に沿って、先発隊が鮮やかに散開した。反乱兵の注意を引きつけるための囮の部隊が声を上げ、それと同時に民を誘導する部隊が音もなく動く。
朝凪は民の列の先頭に立ち、周囲を警戒していた。
幼子を抱えた母親が恐怖に身体を震わせ、老人が寒さと痛みで足をひきずっている。朝凪はそれらを、どこまでも落ち着いた、安心させるような声で的確に誘導していった。
その様子を、暁は馬上からじっと見下ろしていた。
やがて、暁は静かに馬を朝凪の横へと寄せた。民の列は動き続けており、遠方からは反乱兵の不穏な気配も近づいている。猶予は一刻もない。
暁は前を見据えたまま、短く声をかけた。
「久しぶりだな」
朝凪の肩が一瞬だけ揺れ、顔を上げた。
「……はい」
「生きていたか」
「はい」
暁はそれ以上、何も追求しなかった。朝凪もまた、静かに前へと視線を戻した。たったそれだけの、短い言葉の交わし合いだった。
二人の間に落ちた沈黙は、迫り来る戦火の足音にかき消され、すぐに霧散する。
今は動かなければならない。暁は再び馬を進めて指揮に戻り、朝凪は民の列と共に、包囲の細い隙間を目指して一歩を踏み出した。
反乱兵の目を盗み、一行は無事に蘇原の中心部へと滑り込んだ。
州府を囲む土壁。その東西南北にそれぞれ設けられた門を閉じ、中心にある広場へ、避難してきた民たちが次々と集められていく。
地面には多くの負傷者が横たわり、あちこちから苦痛に満ちた呻きや子供の泣き声が響いていた。空気には、まだ生々しい煙の匂いが重く残っている。
朝凪は、その凄惨な広場を静かに見渡した。
後発隊が、この蘇原の地に到着するまで、何が何でもここを死守しなければならない。
桜桃が、ここに来るまで。
朝凪は白く濁る息を、ゆっくりと吐き出した。
無事に来てほしい。
けれど、こんな地獄のような場所へは、来てほしくない。
その矛盾した二つの切実な願いが、冬の冷たい胸の内で、同時に激しくせめぎ合っていた。
***
蘇原が近づくにつれ、後発隊を包む空気は目に見えて変貌していった。
街道の両脇からぷつりと人影が消え、点在する村々は不気味なほど静まり返っている。
風が吹くたび、どこかで何かが激しく燃えているような、鼻を突く硝煙の匂いが混ざり込んで流れてきた。
誰も口を開かない。ただ、馬の蹄の音だけが、冷え切った大地に低く響き続けていた。
桜桃は馬車の窓から、険しさを増す外の景色をじっと見つめていた。その傍ら、馬上を行く刹那は一言も発せず、いつもの飄々とした軽さは綺麗に消え失せている。
前方から千弦が馬を返してきた。
「昊夜様。予定の合流地点まで、あと半刻ほどです」
「分かった」
昊夜は静かに頷き、それからちらりと、背後の馬車の方へ鋭い視線を向けた。
だが、合流地点に到達する直前、前方から一騎の伝令が猛烈な勢いで馬を飛ばしてきた。兵は落馬せんばかりに息を整えながら、悲痛な声を上げる。
「ほ、報告いたします! 先発隊が突入した直後、南東の経路が完全に封鎖されました! 反乱兵が水路沿いに急速に展開し、退路もろとも塞がれた模様です!」
神祇官一行は、先発隊が確保したその南東の経路から安全に内部へ入る手筈になっていた。それが崩れたのだ。
昊夜は無言のまま、馬から降りると、手早く地図を広げた。
「神祇官の一行は、ひとまず安全な後方へ退避。戦況が落ち着くまで待機せよ」
その指示を聞くや否や、すでに馬車から降りていた桜桃が毅然と声を上げた。
「それでは、何のためにここまで来たのか分かりません」
遮るように、刹那が横から口を開く。
「姫」
「私は、あの中に入るために来ました」
「今は無理だ」
「経路が変わっただけです。別の道を探せば――」
「経路だけの問題じゃねぇよ」
刹那の声は穏やかだったが、同時に有無を言わせない響きを帯びていた。
「そこが封鎖されたってことは、反乱兵が今まさにそこに張り付いてるってことだ。神祇官の乗った馬車が突っ込んでいい状況じゃねぇ」
桜桃はぐっと言葉を詰まらせ、黙り込んだ。
刹那の言うことは、痛いほどに正しかった。正しいと分かっていても、どうしても足を後方へ向ける気にはなれなかった。
そこへ、さらにもう一人の伝令が血相を変えて駆け込んできた。今度は内部の先発隊からの悲痛な報せだった。
「蘇原の兵糧蔵が、反乱兵の放火により焼かれました! 備蓄が尽きるのは、早ければ明日にも……! さらに、反乱兵の一部が中心部の広場にも入り込み、現在も激しい乱戦が続いています!」
その場に、凍りつくような沈黙が落ちた。




