第八話 大人の余裕
武州へ向かう道中、冬の寒さは日を追うごとにその厳しさを増していった。
街道沿いの木々は未だ芽吹く気配もなく、低く垂れ込めた灰色の空が、旅路の重苦しさを象徴しているかのようだった。
神祇官の派遣団は、数名の精鋭護衛に守られた二台の馬車。そこに、いつの間にか刹那が何食わぬ顔で馬を引いて混ざり込んでいた。
出立してしばらく経った頃。
騎馬で列を統率していた昊夜が、ふと不審そうに列の端へと目を留めた。見覚えのある、しかし軍の編成にはいない男が紛れ込んでいる。
「……誰だ」
威圧的な声で静かに問うた。
問われた刹那は、面倒くさそうに首を回して振り返る。
「えー、お前まだ俺のこと思い出してねぇの?」
「思い出す、とは」
「いや、いいわ。別に」
刹那はさして傷ついた風でもなく、鼻を鳴らして前を向いた。
「てか、因州でのことも忘れてるわけ? 」
そこへ、千弦が楽しげに馬を寄せてきた。
「刹那さんですよ、昊夜様」
「知っているのか」
「因州のとき、白砂の山で会ったじゃないですか」
「……ああ」
昊夜はようやく記憶が結びついたらしい。
「なぜ今回、神祇官の同行に混ざっている」
「さあ?」
千弦はにこやかに肩をすくめた。
「ただ、六花さんについてきたんだと思いますよ」
昊夜は再び刹那を鋭く睨んだ。
「なぜついてきた」
「まあ、色々と大人の事情ってやつだよ」
刹那はぶっきらぼうに煙に巻き、それ以上は語ろうとしなかった。昊夜は忌々しげにしばらく刹那を凝視していたが、やがて視線を前方へと戻した。
***
街道を進んでしばらくした頃、不運にも先頭の馬車がぬかるんだ深い轍にはまり、ぐらりと大きく傾いた。
幸い転覆などの大事には至らなかったが、一度荷を下ろして足回りを立て直す必要が生じる。
「姫」
作業の間、手持ち無沙汰になった桜桃が馬車から降りたのを見逃さず、列の端にいた刹那がひらひらと手を振って呼び寄せた。
桜桃が歩み寄ると、刹那は馬上から、息を合わせるようにしてふいと軽く片手を差し伸べる。
「乗るか?」
「……いいの?」
「どうせ馬車が直るまで暇だろ。待ってる間、冷えるぞ」
桜桃は少し躊躇ったが、足元の冷えに勝てず、刹那の手を取った。
ぐっと力強く引き上げられ、刹那の前に横座りになる形で、一つの鞍に収まる。
「……重くない?」
「全然。むしろ軽すぎるな。姫、飯ちゃんと食ってんのか?」
「……食べてる」
「そうか」
刹那の声が、耳元のすぐ近くで響く。
同じ馬に乗っているのだから当然なのだが、改めて密着した距離を意識すると、急に落ち着かない心持ちになった。
桜桃が前を向いたまま、気まずさに小さくなっていると、刹那がぽつりと声を落とした。
「武州に行くの、怖くねぇか?」
「……怖い」
「そうか」
「でも、行かなきゃいけないから」
「ならいい」
刹那は短く応じた。それから、ほんの少しだけ腕の力を緩め、包み込むように手綱を握り直す。
「怖くても行ける奴の方が、俺は強いと思う」
背中に、刹那の確かな体温が伝わってくる。
「まぁ、何かあったら、全部俺たちが片付けてやるからよ。……お前は俺たちを信じて、前だけ見てろ」
桜桃はたまらず、ぐっと顔を伏せた。
顔が、火が出そうなほど熱い。自分が怖いと言った本音を受け止めてもらえた安堵なのか、それとも、彼の直球すぎる言葉に照れたのか、自分でも分別がつかなかった。
とにかく、余計なことは考えないようにした。
少し離れた場所から、千弦が馬上でその光景を興味深そうに眺めていた。
刹那の馬に、桜桃が同乗している。二人が何を話しているかまでは聞こえなかったが、桜桃の横顔がみるみるうちに赤くなっていくのがはっきりと見えた。明らかに動揺している。
千弦は少しだけ目を細めた。
(あら、あら……)
普段、傍にいる朝凪も、彼女に対して独特の熱を孕んだ空気をまとっている。だがそれは、静かで真剣で、どこか一線を画した張り詰めた甘さだ。
しかし、刹那のそれはまるで違う。もっと緩くて、軽やかで、隙間に入り込んでくるような自然さ。それなのに、彼女が完全にたじたじにされている。
千弦はしばらく馬上で顎に手を当てて考え込んだ。
これは一体、何と表現すべきか。朝凪の頑なな一途さとはまた違う、するりと心の障子を開けて入ってくるような、この――。
(……もしや、これが『大人の余裕』!?)
千弦は思わず馬上で背筋をピンと伸ばした。
なるほど、そういうものか、と一人で深く得心する。
それから、すぐ横で不機嫌そうに前を見据えている我が主君へと視線を巡らせた。
「昊夜様、負けてますよ」
「……は?」
昊夜が眉根を寄せて千弦を見た。
「何の話だ」
「刹那さんです」
「……何が負けているというのだ」
「あの、大人の余裕ですよ」
昊夜は一瞬言葉を失った。
「意味が分からない」
「ほら、見てください。六花さんが、あんなに真っ赤になって顔を伏せておられます」
千弦に促され、昊夜の視線が自然と刹那の馬の方へと動いた。
確かに、桜桃は耳まで赤くして俯いている。対する刹那は、何事もなかったかのように前を向いて飄々と馬をなだめていた。
「……何を吹き込んだんだ、あの男は」
「さあ?」
千弦はにこにこなと笑みを深めた。
「ですが、ああいうのは一朝一夕の技術ではないと思うんですよね。狙ってやっていないからこそ、様になるんです」
「どういう意味だ」
「昊夜様は、その……随分と不器用であらせられますから」
「……余計なことを言うな」
「事実を申し上げたまでです」
昊夜はそれ以上反論せず、フイと視線を前方の街道へと戻した。
千弦はそれを見て小さく、愉しそうに笑った。笑いながら、もう一度桜桃の方へ目を向ける。
桜桃はまだ少し顔を赤くしたまま、気恥ずかしさを隠すように刹那に何か言い返そうと躍起になっており、刹那はそれを上から眺めて、優しく静かに微笑んでいた。
(あれが、大人の余裕……)
千弦はもう一度、隣の昊夜を盗み見た。
昊夜は頑なに真っ直ぐ前を向いたまま、一切の沈黙を貫いていたが、その端正な横顔は、誰がどう見ても不満げに尖っていた。
(やっぱり、完敗ですね、昊夜様)
もちろん、口には出さなかった。さすがの千弦も、そこまで主の心を逆撫でする勇気はなかった。
***
その頃、神祇官庁に来客があった。
雅が執務机で書類を整えていると、廊下の向こうから微かな、しかし迷いのない人の気配が近づいてくるのが分かった。
勢いよく襖が開けられ、雅が顔を上げる。
開け放たれた襖の前に、日向が静かに立っていた。
「……おや、珍しい」
最後に会った時よりも、その相貌には隠しきれない疲労の影が滲んでいる。
雅は手元でパッと優雅に扇を開いた。
「ようやく来てくれましたね」
「武州に神祇官を送ったらしいな」
「ええ。貴方がそれを気にしてここに来てくれたのなら、六花を武州へ送った甲斐があったというものです」
日向の目が、不機嫌そうに一段と細くなった。
「……そのために、彼女を武州へ送り込んだのか」
「単に、私は友人に会いたかっただけですよ」
雅はどこまでもにこやかに、悪びれもせず答える。
「貴方がちっとも顔を見せてくれないものですから」
「……用があって来ただけだ」
「分かっていますよ」
雅はふっと扇を閉じた。
「ですが、まずは久方ぶりに再会した友人へ、労いの一言くらいあっても良いのではないですか?」
日向はしばらくの間、目の前の底の知れない男を無言で見つめていた。
「……変わらないな、お前は」
「最高の褒め言葉として受け取っておきます」
雅は穏やかに微笑み、それから視線を落とした。
「武州は今、激しい内乱の最中ですね。――貴方の故郷です。行くのですか?」
日向はすぐには答えなかった。何かを深く、重く考えている顔つきだった。
やがて、彼は無言のまま懐へ手を入れ、丁寧に折り畳まれた紙を取り出した。
「お前に、確かめたいことがあって来た」
日向はその紙を、雅の執務机の上へと静かに広げた。
そこには、地下で見つけた記述の一部が書き写されている。
『神嘗祭 器』
「これは何だ」
雅はその紙を一瞥するだけで、日向に押し返した。
「あなたが書いたんですか? 相変わらず、達筆ですね」
「聞いている」
「私もです」
日向が鋭い視線を投げつけると、雅は穏やかな面持ちのまま静かに言葉を継いだ。
「あなたが神事に関心を持たれる日が来るとは。昔は、祝詞が始まる前には退屈そうなお顔をされていましたのに」
日向は表情一つ変えない。
「答えろ」
「神嘗祭で神託を受けるための依り代です。神の言葉を受ける器、とでも申しましょうか」
「神託を降ろすのは斎宮だろう。斎宮以外にも神託が降りるのか」
「降りれば、の話ですが」
雅は扇を広げ、口元を隠しながらさらりと切り捨てた。
「私も見たことはありません」
日向は紙片へ目を落とした。
「……そうか。」
「何か、お探しですか。」
雅の問いに、日向の眉が動く。
(……こいつは、まだ信用できない)
「いや。……少し、気になっただけだ」
「そうですか」
雅はいつもの、裏の読めない柔らかな笑みを浮かべている。だが、扇の奥にあるその瞳だけは、日向の思惑を値踏みするかのように光っていた。
日向は紙を素早く折り畳み、再び懐深くへと収めた。そして、未練を一切残さずに踵を返す。
「また近いうちに顔を見せてくれると、私はとても嬉しいのですがね」
雅の艶のある声が日向の背中に落ちたが、日向がそれに答えることはなかった。
「さて――」
誰に向けるでもなく、静かに呟いた。
「ようやく、動き始めましたね、金烏」
冷え切った廊下へ、日向の足音だけが遠ざかっていく。
その音も消えた頃、控えめに襖が叩かれた。
「失礼いたします」
「どうぞ」
静かに入ってきたのは深黎だった。
腕には祭祀に関する帳面を抱えている。
「来月の祭祀目録をお持ちしました」
「ああ、ご苦労様です」
深黎は机へ帳面を置くと、ふと廊下へ視線を向けた。
「……今のは」
「日向殿ですね」
雅は何事もなかったように答える。
「珍しい組み合わせですね」
「そうですか?」
「ええ」
深黎はそれ以上追及することもなく、小さく頷いた。
「では、こちらへ」
雅は目録を一枚ずつ眺めていく。
「今年の春祭、祈年祭、神嘗祭……特に変更はありませんね」
「はい」
「祭具の補修も終わりましたか」
「滞りなく」
雅は静かに目録を閉じた。
「さて、他に何かありますか」
雅はにこやかな笑顔を深黎に向けた。




