終 三つの罪
書庫の重い木扉を押し開ける。中は薄暗かった。刹那が掲げた灯が、埃の舞う空間を頼りなく照らし出す。
道中、そして今も、族長から聞いた言葉が桜桃の頭を離れなかった。
――『密告書』。『紫の衣の男』。そして、あの独特な筆跡。
桜桃は棚に並ぶ帳簿の背を、一つずつ指先でなぞるように追っていた。
侍女として文官たちの雑務を手伝っていた頃の記憶が鮮明に蘇る。書類の清書、帳簿の整理、古びた写しの確認。あの頃、毎日のように、宮廷に蓄積される「文字」を見続けていたのだ。
そして――あの密告書の筆跡を、自分は確実にどこかで見た気がしていた。
棚の最上段に、古い行政記録の写しが並んでいた。
「……姫、何を探してるんだ」
刹那が気遣わしげに小声で尋ねる。
「筆跡よ」
「筆跡?」
「狄族に届いたあの偽の密告書と、まったく同じ字を書く人間がいる」
刹那は驚愕に口を閉ざした。
桜桃は懐から一通の書状を取り出し、朝凪へ差し出した。
「これまでに分かったことも、覚えている限り書いてある。持っていて」
朝凪は一瞬だけ桜桃を見つめたが、何も問わずにそれを受け取った。
「分かりました」
書状を懐へ収めると、朝凪は再び鋭い目で周囲の棚を見渡した。
桜桃は一冊の古い帳簿を引き出し、素早く開く。
文字を見る。
(違う――)
次の一冊。
(これも、違う――)
また次へ。
不意に、頁をめくる桜桃の手が、ぴたりと止まった。
(……この、筆跡)
丁寧で、線が細く、それでいて独特な跳ね方をする、あまりにも特徴的な文字。それは、集落で族長が見せてくれた、あの凄惨な戦の引き金となった密告書と似ていた。
桜桃は帳簿を開いたまま、金縛りにあったように動けなくなった。
(この文字を書いた者が、五年前、狄族にあの書状を持ち込んだ。高貴な『紫の衣』を纏って……)
その時、静寂に包まれた書庫の背後から、微かな靴音が聞こえてきた。足音は迷いなく、こちらへと近づいてくる。
三人が弾かれたように振り返った。
薄暗い廊下の闇から、一人の男が優雅に歩み寄ってくる。
そしてそのすぐ後ろには、影のように付き従う細身の男――深黎の姿があった。
「深黎」
先頭を歩く男が、静かに、けれどどこか楽しげに口を開いた。
「時間稼ぎにしては、少しばかりやりすぎでは?」
「……申し訳ありません」
深黎はいつもの無表情のまま、淡々と頭を下げた。
「加減が難しくて。思いのほか、深く刺しすぎてしまいました」
「全く、困ったものですね」
男は視線を移し、桜桃の姿を正面から捉えた。
そして、手に持っていた扇を、ゆっくりと開いてみせる。
桜桃は証拠の帳簿を胸にきつく抱きかかえたまま、呼吸を忘れたように硬直していた。
刹那の手が、本能的に腰の刀の柄へと触れる。朝凪が、いつでも地を蹴り出せる姿勢で一歩前に出た。
灯がゆっくりと男の顔を照らす。
「雲英様……!!」
桜桃の声が、激しく震えた。
雲英は、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。あの静かで優しい顔のままで。
「六花殿」
雲英は静かに言った。
「いえ――『咲宮桜桃』様、とお呼びした方が、今のあなたには相応しいですかね」
その言葉と同時に、書庫の扉が大きく左右に開け放たれた。なだれ込んできたのは、武装した宮廷衛兵たちだった。
「咲宮桜桃殿」
衛兵の先頭に立つ男が告げる。
「身分を詐称し、神祇官として宮廷に不法潜入した罪。斎宮様に男を手引きした罪。そして、狄族との神聖なる婚姻を拒絶した罪」
三つの重い罪状が、薄暗い書庫の空間に突き落とされていく。
「あなたを、国家反逆の容疑で捕らえます」
桜桃は抵抗しなかった。ただ、胸の中の帳簿を、強く抱きしめる。
雲英が、満足そうに静かに扇を閉じた。
一歩進み出た衛兵が、桜桃の細い腕を容赦なく掴み取る。
衝撃で、桜桃が胸に抱えていた帳簿が床に落ちた。
乾いた音が、書庫に響く。
誰も一歩も動けなかった。
張り詰めた沈黙を破り、朝凪が踏み出した。
「待――っ!」
「朝凪」
桜桃の声が、朝凪の動きを鋭く止めた。朝凪の足が、床に縫い付けられたように止まる。
桜桃は朝凪を真っ直ぐに見つめ、首を、小さく横に振った。
衛兵の列が、桜桃を取り囲んで書庫を退出していく。彼女の小さな背中が、回廊の奥へと遠ざかっていく。
行こうとする朝凪の腕を、刹那が背後から必死に掴んで引き留めた。
「姫様――っ!!!」
朝凪の叫び声が、冷たい回廊に虚しく響き渡った。
桜桃は決して振り返らなかった。ただ、連行されていくその背中が一瞬だけ、ほんのわずかに小さく揺れた気がした。
刹那は朝凪の腕をがっしりと掴んだまま、微動だにしなかった。二人は、桜桃の姿が向こうへ完全に消え去るまで、その場に立ち尽くしていた。
やがて、無数の足音が遠ざかり、完全に消える。
あとに残されたのは、耳が痛くなるほどの圧倒的な静寂だけだった。
刹那が静かに視線を落とすと、足元に薄い帳簿が落ちていた。
桜桃が抱えていたものだ。
刹那はそれを素早く拾い、懐に入れた。
雲英はすでに踵を返していた。その背中が、回廊の奥へ消えていく。
刹那は帳簿の重さを確かめるように、一度だけ胸元を押さえた。
「……っ!」
朝凪は、桜桃が連れ去られた方向へと、走り出した。
「朝凪、待て! 今動くのは――」
「分かってる!」
足を止めない。走る速度を一切落とさない。
「分かっている、だが――っ!」
叫ぶ朝凪の声は、すでにかすれていた。
刹那は、もうそれを追わなかった。ただ、回廊の奥へ向かって走っていく朝凪の背中を、悲痛な目で見つめていた。
宮廷の長い回廊が、二人の行く手を阻むようにどこまでも暗く続いていた。
◇
――同じ頃、書庫の外壁、回廊の陰に、昊夜が立ち尽くしていた。
千弦に桜桃の居場所を調ベさせ、追ってきたのだ。あの無茶苦茶な従者に、事の真相を問い詰めるために。
だが、昊夜は今、ただ呆然と、冷たい夜気の中で立ち尽くしていた。
今しがた目の前を通り過ぎていった、衛兵に連行される桜桃の痛々しい後ろ姿。
そして、神祇官である彼女を「元皇女・咲宮桜桃」として容赦なく捕縛していった、あの男の影。
(……なぜだ)
昊夜の頭に、ただ一つその問いだけが浮かび上がった。
(なぜ、雲英がここにいる……!?)
桜桃の正体も、朝凪の暴挙も、まだ公にはなっていない。四大貴族ですら、まだ全容を掴めていないはずだった。
それなのに、なぜ、あの毒にも薬にもならなさそうな「雲英」が、すべてを握り潰すかのように現れたのか。
その瞬間、昊夜の背筋に、凍りつくような戦慄が走った。
千弦から受け取った、あの狄族の密偵からの報告。
『内通者から狄族の長へ、六花の中身が元皇女であると密告があった――』
(――まさか。狄族に六花が元皇女だと流したあの密告は……雲英が仕組んだことなのか!?)
それならすべての辻褄が合う。
その疑念が形を成した瞬間、昊夜の脳裏に、ある記憶の断片が鮮烈に蘇った。
それは、狄族から「和睦の条件として神祇官を一人差し出せ」と理不尽な要求を突きつけられた、あの朝廷会議の日のことだ。
神聖なる神祇官を蛮族へ渡すなどと誰もが躊躇っていた場面で、
『彼女は朱明家当主の姪。確かに適任かと』
と、言ったのは雲英だ。
(……あのときから、なのか……!?)
昊夜の喉の奥が、詰まったように動かなくなった。
雲英はあの最初の段階で、すでに神祇官の中に元皇女である桜桃が潜んでいることを、見抜いていたのか。
見抜いた上で、あえて「六花」として彼女を狄族へ嫁がせるよう仕向けた。
桜桃が身代わりとして敵地に赴けば、いずれ正体が露見して国境が緊張することが分かっていたとしたら。
自分が描いていた宮廷という盤面を、遥か上空から見下ろし、最初から手のひらで転がしていた真の黒幕。その底知れない恐ろしさに、昊夜の拳が、怒りに任せて微かに震える。
「……六花」
いや、桜桃元皇女。
連れ去られた彼女の、あの気高い後ろ姿が、昊夜の脳裏に焼き付いて離れない。
昊夜は、奥歯を強く噛み締めた。桜桃が連れていかれた暗闇を、鋭い眼光で睨み据えていた。




