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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第四章 地は割れ、刃となる【武州動乱編】

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終 白雪のような花束を

 回廊に出たあと、柳はその場からしばらく動くことができなかった。


 頭の上を寒々しい風が吹き抜けていく。


「椎香殿が決めることだ」


 ずっと、そう自分に言い聞かせてきた。

 自分はあくまで一歩引いた傍観者であり、彼女の人生の選択に口を挟む資格などないのだと、頑なに自分を律してきたはずだった。


 けれど。

 柳は静かに拳を握りしめた。


 椎香が誰の思惑にも縛られず、自分の意志で未来を選び取ることを、誰よりも願っている。

 誰かに決められた枠に従うのは、自分の知っているあの真っ直ぐな椎香らしくないと思っている。


 では――自分は本当に、ただ黙って見ているだけでいいのだろうか。


 「見守る」という都合のいい言葉の裏に隠れて、彼女が一人で戦い、傷つき、あるいは諦めるのを、ただ安全な場所から眺めているだけでいいのか。


 柳は衝動に突き動かされるように、一歩を踏み出した。


 気づいたときには、その足取りは自分でも驚くほど早足になっていた。


 衣服の裾を風になびかせ、宮城の重厚な正門へと向かってひたすら歩を進める。名前のない焦燥感がじりじりと燻っていた。


 そして、門の前に辿り着き、視界が開けたその瞬間――。


 柳は足を止めた。


 夕闇が降りる大きな門の下、そこに椎香がいた。


 そして、彼女と対峙するように、疾風が立っていた。両腕からあふれんばかりの大きな白い花束を抱えて。


 冬にひっそりと咲く、清廉な白い花々。それが、彼の大きな腕のなかで白雪のように固まって揺れている。


 柳のすぐ後ろに追いついてきた桜桃が、目の前の光景に思わず目を丸くした。


(本当に持ってきちゃった……)


 女子は何をされたら嬉しいかと問われ、「花をもらうとか」と助言したのは桜桃自身だった。まさか、本当に実行するとは夢にも思っていなかったのだ。


 疾風は、朝凪の横を通り抜け、椎香の目の前で一歩を踏み出した。


 その顔は、緊張でひどく強張っている。だが、椎香を見つめるその両眼だけは、恐ろしいほどに真剣だった。


「……戻ってきたら返事をくれと言ったが」


 疾風はぼそりと、少し掠れた声で切り出した。


「その前に、俺からどうしても言いたいことがある」


 椎香は、朝凪の前で流した涙の痕も忘れたように、黙って疾風を見つめていた。


「母上が、お前のところに圧力をかけているのは知っている」


「……知ってたの?」


「知ってた」


 疾風は短く応じ、深く息を吸い込んだ。


「うまく言えないが」


 彼は、抱えていた白い花束を、差し出すように少し前へと突き出した。


「何があっても、俺がお前を守る。母上のことも、一族の思惑も関係ない。お前がただの政略の駒にされるなんてことは、俺が絶対に嫌だ」


 段取りも、洗練された甘い響きも何もない、あまりにも不器用な言葉だった。


 だが、だからこそ、そこには一切の偽りがない、真っ直ぐな本音だけが乗っていた。


「だから……もう一度、俺の口から言わせてくれないか」


 疾風は椎香の目を正面から射抜いた。


「俺と、結婚してほしい」


 しばらくの間、門前にしんと静寂が落ちた。

 椎香は真っ直ぐに疾風を見つめ、それから彼の腕のなかの白い花束に視線を落とした。そしてもう一度、疾風の強張った顔を見る。


 やがて、椎香の口元から小さく笑みがこぼれた。


 それは先ほど朝凪の前で見せた泣き笑いでも、運命への呆れ笑いでもない。


 頑なに張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けたような、柔らかい笑い方だった。


「……その花、どこで切ってきたのよ」


「庭師に無理を言って、頼み込んだ」


「冬なのに、よくこんなに揃えられたわね」


「必死で、まだ咲いているやつを探してもらったんだ」


「……馬鹿ね」


「そうかもしれない」


 疾風が真面目に頷くと、椎香はまた少しだけ、今度は愛おしそうに笑った。


 朝凪は何も言わず、ただ静かな佇まいのまま、その光景を後ろから見守っている。

 柳は拳を握ることもなく、ただ黙ってその結末を見つめていた。

 桜桃は、花束と、椎香と、疾風の三方を交互に見つめながら、固唾をのんで息を止めている。


 椎香はしばらく疾風を見つめていたが、やがて、静かに両手を伸ばした。


 そして、腕からあふれそうになっていた白い花束を、そっと自分の胸に抱きとめるようにして受け取った。


 「結婚する」という明確な答えは、言葉にされなかった。けれど、それだけで十分だった。

 疾風の強張っていた顔が、分かりやすいくらいにふわりと緩む。


 椎香は花束を大切そうに抱えたまま、ふと横に視線を向けた。


 そこで、佇んでいた柳と目が合う。

 椎香は少しだけ目を細め、いつもの調子で声をかけた。


「……来てたの」


「……通りかかっただけです」


「嘘ばっかり」


 柳はそれ以上何も言わなかった。


 桜桃は、二人のいつも通りのやり取りを見ながら、張り詰めていた息を吐き出し、小さく笑った。


 ふと隣を見ると、朝凪は相変わらず何事もなかったような顔で、椎香と疾風を見守っている。


 桜桃は少し迷った末、そっとその傍へ寄った。


「……朝凪、いいの?」


「何がでしょう」


「……椎香様」


 朝凪が、眉を寄せた。


「椎香殿が、何か」


「疾風様の求婚、受け入れたみたいだけど」


「……」


「無理に平気なふりしなくてもいいのよ」


「……何か誤解をされているようですが……」


「だって、花梨様が前に――」


「六花」

 

 不意に椎香の声が飛んできた。

 桜桃が顔を上げる。


 花束を抱えた椎香は、桜桃を見ていた。それから、そのすぐ隣に立つ朝凪へ視線を移す。


「……」


「……」


 妙な沈黙が落ちた。


 桜桃は椎香を見て、それから朝凪を見る。


「……やっぱり朝凪だったんでしょう?」


「違います」


 桜桃はますます怪しむように朝凪を見上げたが、当人はそれ以上答える気がないらしい。


「……あとで聞くわ」


「聞かなくて結構です」


 疾風が必死で白い花束を用意してきたという話を、もし後で刹那にしたら何と言うだろうか。


 ――ふと、そんなことが頭をよぎる。

 きっと彼のことだ、「あの若様、本当に姫に言われた通りにしやがったな」と、呆れながらも愉快そうに笑うに違いない。


 桜桃は少しだけ顔を上げ、広大な空を見上げた。


 冬空を覆っていた雲の隙間から柔らかな光が差し込み、先ほどよりもほんの少しだけ、明るく世界を照らし始めていた。


***


 都から遠く離れた、険しい山々に抱かれた狄の集落。


 冬の夜気は骨身に染みるほど冷たく、家々の煙突から立ち上る白い煙だけが、人の営みを静かに知らせていた。


 集落の中央、小さな炉を囲む一軒の家では、族長の側近を務める老人が静かに火を見つめていた。


 その傍らには、二人の若者が緊張した面持ちで膝を揃えて座っている。


 やがて老人は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……族長様に、お伝えせねばならぬ。」


 若者たちが姿勢を正す。

 老人は揺れる炎を見つめたまま続けた。


「……あの方の御令孫が、もうすぐお帰りになられる。」


 若者の一人が弾かれたように立ち上がる。


「――本当ですか!」


「ああ」


 老人は静かに頷いた。


「間違いない」


 若者たちの表情が一気に明るくなる。


「ようやく……」


「ご無事だったのですね」


「族長様も、きっとお喜びに――」


「待て」


 老人の低い一言が、その喜びを静かに断ち切った。

 二人は口を閉ざす。


「お前たちは動くな」


「なぜです」


「族長様には、私が直接お伝えする」


 若者たちは納得できない様子で顔を見合わせたが、やがて静かに頭を下げた。


「……承知しました」


 炉の火だけが、小さく爆ぜる。

 老人は夜の闇へと歩き出した。


 その背中は、どこか安堵と憂いを同時に背負っているように見えた。



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