終 白雪のような花束を
回廊に出たあと、柳はその場からしばらく動くことができなかった。
頭の上を寒々しい風が吹き抜けていく。
「椎香殿が決めることだ」
ずっと、そう自分に言い聞かせてきた。
自分はあくまで一歩引いた傍観者であり、彼女の人生の選択に口を挟む資格などないのだと、頑なに自分を律してきたはずだった。
けれど。
柳は静かに拳を握りしめた。
椎香が誰の思惑にも縛られず、自分の意志で未来を選び取ることを、誰よりも願っている。
誰かに決められた枠に従うのは、自分の知っているあの真っ直ぐな椎香らしくないと思っている。
では――自分は本当に、ただ黙って見ているだけでいいのだろうか。
「見守る」という都合のいい言葉の裏に隠れて、彼女が一人で戦い、傷つき、あるいは諦めるのを、ただ安全な場所から眺めているだけでいいのか。
柳は衝動に突き動かされるように、一歩を踏み出した。
気づいたときには、その足取りは自分でも驚くほど早足になっていた。
衣服の裾を風になびかせ、宮城の重厚な正門へと向かってひたすら歩を進める。名前のない焦燥感がじりじりと燻っていた。
そして、門の前に辿り着き、視界が開けたその瞬間――。
柳は足を止めた。
夕闇が降りる大きな門の下、そこに椎香がいた。
そして、彼女と対峙するように、疾風が立っていた。両腕からあふれんばかりの大きな白い花束を抱えて。
冬にひっそりと咲く、清廉な白い花々。それが、彼の大きな腕のなかで白雪のように固まって揺れている。
柳のすぐ後ろに追いついてきた桜桃が、目の前の光景に思わず目を丸くした。
(本当に持ってきちゃった……)
女子は何をされたら嬉しいかと問われ、「花をもらうとか」と助言したのは桜桃自身だった。まさか、本当に実行するとは夢にも思っていなかったのだ。
疾風は、朝凪の横を通り抜け、椎香の目の前で一歩を踏み出した。
その顔は、緊張でひどく強張っている。だが、椎香を見つめるその両眼だけは、恐ろしいほどに真剣だった。
「……戻ってきたら返事をくれと言ったが」
疾風はぼそりと、少し掠れた声で切り出した。
「その前に、俺からどうしても言いたいことがある」
椎香は、朝凪の前で流した涙の痕も忘れたように、黙って疾風を見つめていた。
「母上が、お前のところに圧力をかけているのは知っている」
「……知ってたの?」
「知ってた」
疾風は短く応じ、深く息を吸い込んだ。
「うまく言えないが」
彼は、抱えていた白い花束を、差し出すように少し前へと突き出した。
「何があっても、俺がお前を守る。母上のことも、一族の思惑も関係ない。お前がただの政略の駒にされるなんてことは、俺が絶対に嫌だ」
段取りも、洗練された甘い響きも何もない、あまりにも不器用な言葉だった。
だが、だからこそ、そこには一切の偽りがない、真っ直ぐな本音だけが乗っていた。
「だから……もう一度、俺の口から言わせてくれないか」
疾風は椎香の目を正面から射抜いた。
「俺と、結婚してほしい」
しばらくの間、門前にしんと静寂が落ちた。
椎香は真っ直ぐに疾風を見つめ、それから彼の腕のなかの白い花束に視線を落とした。そしてもう一度、疾風の強張った顔を見る。
やがて、椎香の口元から小さく笑みがこぼれた。
それは先ほど朝凪の前で見せた泣き笑いでも、運命への呆れ笑いでもない。
頑なに張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けたような、柔らかい笑い方だった。
「……その花、どこで切ってきたのよ」
「庭師に無理を言って、頼み込んだ」
「冬なのに、よくこんなに揃えられたわね」
「必死で、まだ咲いているやつを探してもらったんだ」
「……馬鹿ね」
「そうかもしれない」
疾風が真面目に頷くと、椎香はまた少しだけ、今度は愛おしそうに笑った。
朝凪は何も言わず、ただ静かな佇まいのまま、その光景を後ろから見守っている。
柳は拳を握ることもなく、ただ黙ってその結末を見つめていた。
桜桃は、花束と、椎香と、疾風の三方を交互に見つめながら、固唾をのんで息を止めている。
椎香はしばらく疾風を見つめていたが、やがて、静かに両手を伸ばした。
そして、腕からあふれそうになっていた白い花束を、そっと自分の胸に抱きとめるようにして受け取った。
「結婚する」という明確な答えは、言葉にされなかった。けれど、それだけで十分だった。
疾風の強張っていた顔が、分かりやすいくらいにふわりと緩む。
椎香は花束を大切そうに抱えたまま、ふと横に視線を向けた。
そこで、佇んでいた柳と目が合う。
椎香は少しだけ目を細め、いつもの調子で声をかけた。
「……来てたの」
「……通りかかっただけです」
「嘘ばっかり」
柳はそれ以上何も言わなかった。
桜桃は、二人のいつも通りのやり取りを見ながら、張り詰めていた息を吐き出し、小さく笑った。
ふと隣を見ると、朝凪は相変わらず何事もなかったような顔で、椎香と疾風を見守っている。
桜桃は少し迷った末、そっとその傍へ寄った。
「……朝凪、いいの?」
「何がでしょう」
「……椎香様」
朝凪が、眉を寄せた。
「椎香殿が、何か」
「疾風様の求婚、受け入れたみたいだけど」
「……」
「無理に平気なふりしなくてもいいのよ」
「……何か誤解をされているようですが……」
「だって、花梨様が前に――」
「六花」
不意に椎香の声が飛んできた。
桜桃が顔を上げる。
花束を抱えた椎香は、桜桃を見ていた。それから、そのすぐ隣に立つ朝凪へ視線を移す。
「……」
「……」
妙な沈黙が落ちた。
桜桃は椎香を見て、それから朝凪を見る。
「……やっぱり朝凪だったんでしょう?」
「違います」
桜桃はますます怪しむように朝凪を見上げたが、当人はそれ以上答える気がないらしい。
「……あとで聞くわ」
「聞かなくて結構です」
疾風が必死で白い花束を用意してきたという話を、もし後で刹那にしたら何と言うだろうか。
――ふと、そんなことが頭をよぎる。
きっと彼のことだ、「あの若様、本当に姫に言われた通りにしやがったな」と、呆れながらも愉快そうに笑うに違いない。
桜桃は少しだけ顔を上げ、広大な空を見上げた。
冬空を覆っていた雲の隙間から柔らかな光が差し込み、先ほどよりもほんの少しだけ、明るく世界を照らし始めていた。
***
都から遠く離れた、険しい山々に抱かれた狄の集落。
冬の夜気は骨身に染みるほど冷たく、家々の煙突から立ち上る白い煙だけが、人の営みを静かに知らせていた。
集落の中央、小さな炉を囲む一軒の家では、族長の側近を務める老人が静かに火を見つめていた。
その傍らには、二人の若者が緊張した面持ちで膝を揃えて座っている。
やがて老人は、ゆっくりと口を開いた。
「……族長様に、お伝えせねばならぬ。」
若者たちが姿勢を正す。
老人は揺れる炎を見つめたまま続けた。
「……あの方の御令孫が、もうすぐお帰りになられる。」
若者の一人が弾かれたように立ち上がる。
「――本当ですか!」
「ああ」
老人は静かに頷いた。
「間違いない」
若者たちの表情が一気に明るくなる。
「ようやく……」
「ご無事だったのですね」
「族長様も、きっとお喜びに――」
「待て」
老人の低い一言が、その喜びを静かに断ち切った。
二人は口を閉ざす。
「お前たちは動くな」
「なぜです」
「族長様には、私が直接お伝えする」
若者たちは納得できない様子で顔を見合わせたが、やがて静かに頭を下げた。
「……承知しました」
炉の火だけが、小さく爆ぜる。
老人は夜の闇へと歩き出した。
その背中は、どこか安堵と憂いを同時に背負っているように見えた。




