嘆きの樹と少女
ダンジョンの空気が、重たく変わった。
じめつく匂いと、腐った土の香り。
踏み込んだ先の広間には、異様な存在が根を下ろしていた。
『嘆きの樹アムリエル』
無数の枝と根を伸ばした、巨木の魔物。
幹の中央には、ぎょろりと血走った巨大な単眼がはめ込まれている。
「……アムリエルだ」
ミレイユが、息を呑みながら呟いた。
伝承に語られる存在。
かつて魔王の配下だった、嘆き叫ぶ呪われた樹木。
その存在感は、ただそこにいるだけで、全身を針で刺すような圧を与えてきた。
「来るぞ!」
ヴァルトの怒声と同時に、アムリエルの無数の蔓が地を這い、振り上げられた枝がしなる。
次の瞬間、戦いが始まった。
鋭く振り下ろされる蔓を盾で受け止めるヴァルト。
射抜こうと狙いを定めるエルナ。
必死に詠唱を続けるミレイユ。
リリィも剣を構え、身を翻しながら枝の一撃をかわした。
だが、圧倒的だった。
蔓の一本一本が蛇のようにうねり、幹は鉄より硬く。
なにより、あの眼だ。
あの巨眼に睨まれるたび、身体が鈍る。
(このままじゃ……!)
リリィは歯を食いしばった。
剣士や弓使いたちは傷を負い、魔法使いの詠唱も追いつかない。
何より、皆、疲弊していた。
このままでは全滅する。
そんな言葉が頭をよぎった、そのときだった。
ミレイユが、足元に絡みついた蔓に気付かず、バランスを崩した。
アムリエルの巨大な枝が、ミレイユ目掛けて振り下ろされる。
(間に合わない……!)
剣では届かない。
声をかけても、避ける暇はない。
(使うしか、ない)
恐れていた力。
火竜だった自分が持っていた、あの邪眼。
リリィは覚悟を決め、アムリエルの眼を見据えた。
「とまれッッッ!」
渾身の力で、そう念じる。
──ビリリッ!
リリィの左目が怪しく輝く。
次の瞬間、アムリエルの巨体が、枝を振り下ろす寸前で硬直した。
「今だ!」
ヴァルトが叫び、エルナが矢を放ち、ミレイユが素早く詠唱を終える。
魔法の雷撃がアムリエルの単眼を直撃し、ヴァルトの剣が幹を断ち割った。
リリィも跳び込み、ひび割れた樹皮の隙間に剣を突き立てる。
嘆きの樹アムリエルは、断末魔のような低い震えを広間に響かせ。
巨体を揺らしながら、ゆっくりと崩れ落ちた。
「やった、の……?」
ミレイユが震える声で言った。
リリィも、膝に手をついて息を整えながら、勝利を実感した。
辛かった。
けれど、皆、生き延びた。
だが。
リリィは気づいた。
ミレイユが、じっとこちらを見ていることに。
彼女は笑っていなかった。
ただ、深く、鋭く、リリィの左目を見つめていた。
(……まずい)
リリィは無意識に目をそらした。
バレたかもしれない。
だが、ミレイユは何も言わなかった。
仲間たちも、異変には気づいていない。
ほっと胸を撫で下ろしたリリィは、仲間たちとともに帰路につく。
疲れ切った彼らは、誰も足元に注意を払っていなかった。
ミレイユのブーツの踝あたりに、
倒れたアムリエルの破片に紛れて、細く絡みついた一本の蔓。
枯れているはずのその蔓だけが、微かに脈動するかのように蠢いていた。
誰も、それに気づかないまま。
静かに、静かに。
新たな災厄の芽は、すでに息を吹き返しつつあった。




