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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(83)

 其 八十三


 度量が広く人情に通じている島木といい、豪放であくまでも義理を第一とする日方といい、その他山瀬といい、楢井といい、いずれも自分にとっては大事な友であるが、とりわけ誰よりも自分に親しく語りかけてくれ、実の兄のように頼り甲斐があると思われるのはこの羽勝である。その性格が自分に似通っているところがあるためか、あるいは世に言う合性(あいしょう)というものか、実際、前世でどんな因縁があったのか、島木のように他の人間(ひと)とは超えて、特別世話になったり世話をしたりの恩義の関係ではないが、また一つ窓の光を各自の机に分け合って、奇文を共に褒め合い、疑義を二人して(ただ)し合う学問での交流は山瀬ほどではないにしろ、ただ何となく相手を懐かしめば、相手も自分を愛し、といって同性愛というのでもないけれど、真に深く結ばれた仲は深いものがある。

 しかし、人はそれぞれ抱いている夢は異なり、彼は一帆(いっぱん)の風に万里の海を渡って、波の逆巻く波瀾の中に身を託す船人となり、自分は夜半の燈火(ともしび)に何巻もの書と対して寂寞(ひっそり)とした小さな(へや)で思索を練る研究者として甘んじていることから、互いに顔を合わさないことが自然と多くなった。と言っても、相思う心はまったく変わらず、彼が海上にいると知る時は、風の(あした)、雪の夕べに、あぁ羽勝は……と思わない日はなく、富士の高嶺も浪に消えて、夢でなくては日本が見えない異郷の港にいても、向こうは自分をなおも思っていてくれて、他邦(ほか)の港を目の前に見るような絵葉書に、『この岬の下、この水の上にお前の友羽勝あり』と、この田舎住まいの(しず)かな机の上に、(そら)一方(かなた)から温かい(こころ)を寄せてくれることもしばしばであった。

 自分とこのような間柄である羽勝が久しぶりに帰ったのを迎える会に、一篇の歌も寄せることなく、数句(わずか)(ことば)をも交わすことなく、まったく顔を出さなかったのは、水野の気持ちが済まないと思っているところであったが、色んな(わずら)い事に心を奪われて、その後もいつも気にはなりながら訪ねさえもしなかったその羽勝に、突然訪ね寄られては、あぁこの人を訪ねなくてはならなかったのに、差し当たっての苦しい思いにだけに気を取られ、自分には彼が疎ましいなどとは露にも思っていないけれど、自然と人の(なさけ)(あだ)にしたようになってしまった悲しさを思うと、その懐かしい顔を一目見た途端、何より先に自分の勝手すぎる振る舞いが(はず)かしくなって、正面切って顔を見ることも出来ないような気持ちがした。まくし立てるように日方が自分を諫めてくれたその多くの言葉を聞くよりも、自分が果敢(はか)ない恋に迷って、この情の篤く義の強い尊敬すべき友に背いた罪の重さを覚え、甲斐もない思いに沈む昨日今日の自分の愚かしさを自ら()じた。自ら責める気持ちは焼き尽くすように沸き上がり、あぁ自分は心裏(こころ)に何も持たず、懐かしいこの友と今ここで共に相語れば、どれほど今日の団欒が嬉しく楽しいだろうに、相手は変わらず胸を開いて話をするが、自分は人には言えない私情(わたしくごと)を胸に抱いているので、往時(むかし)の無邪気な自分ではない。隔てるという気などまったくないが、水と油とが一つになり難いように、さらけ出しての打ち解け話はどことなくできそうになく、言葉にあまる思いはありながらも理由(わけ)もなく自然(おのず)と自分の口が開かないのはどうしてなのかと、水野は(ひそ)かに自ら苦しんだ。

 見れば日方の言った通り、生来の沈着で意志の堅い気性は浮世に鍛えられ、ますます(ひる)まず、(おく)せずの大丈夫(ますらお)となった証拠には、その額には曇などなく、眼に鋭さが加わったことでも分かる。飾り気のない正直さがありながら振る舞いに威があり、落ち着きがあり、平易ではあるが言葉に思慮あり相手への気遣いあり、無駄に月日を過ごしていないことを示している。

 水野には水野の所思(おもい)あれば、羽勝にも羽勝の所思(おもい)があって、持ち主を()なくした犬のようにすっかり衰え果てた我が友の容態(ようす)を、羽勝は少時(しばし)黙って眺めていたが、ただ日方だけは思っていることを口に出さずにいられず、一旦は羽勝に遠慮して黙っていたが、堪えかねてかたちまちまた、

「水野」

 と、一声(ひとこえ)呼びかけた。


つづく

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