dispute ―――抗論―――
香花…
愛しい香花
君の瞳を見ているだけで、私は幸せでいられる。
君の声が聞こえるだけで、私は神に感謝を惜しまない。
君が傍に居てくれた、あの日々。
何もかもが神からの贈り物。
私の人生の中で、唯一の幸福な日々。
「嫌いです」
少しからかうと、すぐに怒って横を向いてしまう。
いつもその仕草が可愛らしくて、愛しくて、悪戯な私は君をからかう。
でもね、君が横を向いてしまうと、君の瞳が見れないと、私は寂しくて仕方がなくなる。
だからすぐに抱きしめて、何度も何度も謝る。
すると君は、少し泣きそうな目をして振り返るんだ。
「嫌いなんて嘘です。本当は貴方が大好きです」
その言葉は、私には最高の糧。
その微笑こそが最高の力。
君が私に人の心をくれた。
君が居なければ、私は何になっていたのだろう?
両手を血で濡らし、心を持たず、ただ言われるがままに、破壊する。
ぞっとするね。
だから神に感謝をしよう。
君を知らなかった私はもう居ない。
君に出会わない私は存在しない。
君が居なければ私は私ではない。
君と過ごしたあの短い日々。
何よりも幸福なひと時。
君の思い出があるからこそ、私は生きていける…
「吾が恋人…」
「好い加減に止めませんか?聞いているだけで、胸が悪くなる」
闇の中から、さも嫌そうな低い声が響く。
アルタイルは、にやりと笑った。
「見ろとも、聞けとも言ってはおらん。そっちが好きに覗いているのだろう? 多少のことは我慢しろ」
尊大な口調だったが、その顔は蒼白で、革張りの豪華な椅子に沈み込み、流れ落ちる金糸の髪すらも、わずかに色褪せているように見えるほど憔悴している。
そして、紺碧の瞳は、堅く閉じられたままである。
「お前が望むものなど、私の中にはひとかけらも在りはしない。兄者は愛する者と共に眠り。母は今の私に満足してくれているはずだ。そして香花は…お前には決して手の出せない場所に守られている。私の心には、彼女への愛しかない。さあ、どこを喰ってくれるのかな?」
不適な笑みはそのままに、彼はゆっくりと息を吐いた。
「どこを喰らうにしても、お前には不味いものだろうよ」
闇の中から、投げやりなため息が遣される。
「とんだ甘ちゃんですね。貴方には期待していたのに」
貴公子は小さく笑った。
「私は愛に生きる男なのだよ。殺戮し、断罪できる者の心が、愛に満たされているのが気に入らぬのか? 私は愛するものの為に血を被る。昔からだ」
「歯が浮きますよ」
呆れたような声音が返ってくる。
しかし、アルタイルには判っていた。
さも嫌そうに、呆れたような返事があっても、この相手が、基本的にただ言葉遊びをしていることを。
こうやって会話の真似事をしながら、彼の心に幾許かの波を立てようとしているだけなのだ。
いや、ひょっとしたら、そんな思考や思惑すらも無いかもしれない。
人の心に湧き上がる負の感情。
憎悪、嫉妬、劣情、欲望。
あらゆる暗黒の感情を、こいつは喰らう。
そして更にそれを煽り立て、更に貪る。
最後には、狂気と憎悪によって、記憶すらも書き換えられた、狂戦士が出来上がるのだ。
あの、カストゥアの様に…
堅く閉じた瞳に、血まみれになった銀髪の青年が浮かぶ。
氷薄の瞳は苦悶に歪み、銀青色の髪は血を吸って固まっていく。
抱き上げた自分の腕の中で、常に憧れ、追い求めてきた長身が、ぐったりと死の淵へ沈んでいく。
唇が動き、『仇を…』と紡ぐ。
貴公子の形のいい眉が微かに寄せられるが、すぐにそれは穏やかに緩められた。
「無駄だと、何度言えば判るのだ?」
白い髭の老人の首が、鮮血を撒き散らして切り飛ばされる。
それを掴みあげ、自分は高らかに呼ばわった。
『ここに我が兄が仇、討ち取ったり』
そう、兄の願いは完遂されたのだ。
父と呼んでいた男の死と共に。
憎悪を向けていた男は、既に屍となり、もはや自分の心をかき乱す価値は無い。
兄の遺体を、彼が愛しみ続けた恋人に添わせて眠らせる。
抱きしめあうように絡ませた腕を、自分は満足して眺めたものだ。
エルムリアの恋人達は、今も絶対零度の氷結水素の中で眠っている。
自分ではない思考が、どこかでざわめく、不満があるようだ。
その不満が、鮮やかな青い髪の女に変わる。
気品のある顔立ちに、嫌悪と蔑みが顕にされる。
『汚らわしい、傍に来ないで』
銀河で最も高貴な血を持つ女は、力辱され、望まぬ子供を産まされた憎悪を、常にその象徴へ向けていた。
この数時間、何度この顔を見せられた事か…
「もう少し、バリエーションが欲しいな…」
それとも、自分の中には、これ位の負の要素しかないのかもしれない。
母に愛されること無く育った心は、一片の情緒も持ってはいなかったのか? それとも、母の愛を得ることだけに腐心し、他に持つものが無かっただけか?
過去の残滓はなおも、かつて与えられた苦痛を繰り返す。
己が子供達に、冷たい視線しか投げかけぬ母の姿を見せつける。
だが、彼はもう知っているのだ。蔑みの言葉を発する度に、母の心こそが引き裂かれていた事を。触れた手を打ち払う優美な手が、何度抱きしめようと広げかけられたか…
すべては我が子を守る為。
高貴なる烈女は、子を嫌い貫く母を演じて、己が子に掛けられた血筋の疑惑を退け続け、遂には狂気を装って超新星に身を躍らせてのけた。
最後に唯一与えられた抱擁。
あの時囁かれた言葉は、一生忘れないだろう。
『トゥア・ドルフェルア』
生涯の終わりにたった一度だけ、自らに二人の息子を腕に抱くのを許した女王は、その腕にどれほどの想いを込めたのだろうか?
今なら解る。
あの時はただ意外であり、すぐに失われた温もりを求めて泣き叫んだ。だが、母の真意を知り、自分もまた人の親となった今は、母の苦痛に満ちた後半生が短く終わった事に安堵する。
すべては終わった事。
何もかも、それこそ身を焦がすほどの憎悪すら、ただ懐かしく愛しくさえ思える。
「母は自らの使命を全うした。私は誇りこそすれ、悔みはしない。それで? 次は何だ?」
繰り返し与えられる精神攻撃は確実に彼の体力を削いでいたが、貴公子の心は穏やかなままであった。
「好い加減、無駄な事は止めろ。ファントム…いや、シードと呼ぶべきかな? これを続けるのであれば、私は気持ちよく意識を失えるだろう。だが、そうなったところで、お前に私が喰えるとは思わんがな」
嘲りの声音を発しながら、貴公子は肩をすくめる。
不意に、若草色の瞳が脳裏に浮かび上がる。
淡い金髪の華奢な少女が、無骨な男に組み敷かれ悲鳴をあげる姿が見せ付けられていた。
『アルタイル、アルタイル。助けて』
若草色の宝石に涙が浮かぶ。
少女を組み敷く男は、凶暴な獣の目で貴公子を睨み下卑た笑いを浮かばせた。
更なる悲鳴が上がる。
衣服を引き裂かれ、細い体が羞恥に染まる。
力辱される少女。最も愛する者が辱められる姿を見せ付けられながら、それでも貴公子は幽かに笑った。
「新しい画像だな、少しはオリジナリティーに、気を使うようになったか?」
たとえ幻と判っていても、自分だけが触れるべき白い肌を蹂躙する男に、衝動的な殺意が沸き起こる。それでも貴公子の笑みは消えない。
少女の上げる悲鳴が、次第に艶を帯びた嬌声に変わる。それと同時に、淡い金髪は緑色を帯はじめ、華奢な体は、細身ながら肉感的な曲線を描きだし、幼い顔立ちはそのまま男好きするような、猥らな表情を浮かべた女に変わっていく。
「お前のオリジナルはこの程度か…つまみ食いの好きな、アルゴル王の側室だ…」
つまみ食いの対象になったことがある。
見目麗しい末席の王子は、彼女達にとって格好のおやつだったのだろう、あれこれ手解きを受けたお陰で、本当に大切な少女を大事に愛する事が出来た。
ありがたいといえるだろう。
「まあ、次に何か思いついたら教えてくれ」
好い加減うんざりしながら、脳裏に展開していく幻を精神から遮断する。
そして再び胸の奥にある、宝物庫の扉を開き、その中に住まわせた優しい宝石に手を差し伸べる。
どこか外の方で、苛立ちを発する者がいるが、そんなものにはもう興味が無かった。
りょっと分けました