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剣理無頼 ~転生した老宗家は、落ち武者の躰で人外の骨を断つ~  作者: 綿毛隕石


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第19話 老将の墨跡、崩れゆく背後

朝霧が砦の土塁を白く覆い隠し、篝火(かがりび)の残り薪がパチリと爆ぜた。


逆茂木(さかもぎ)の隙間を抜けて戻った宗玄の足取りには、乱れも滞りもない。

二歩後ろを歩く成瀬新十郎の顔色は、夜明け前の冷気も手伝って蒼白だった。土間へ踏み込む足音が微かに震えている。


陣幕を潜ると、梶原兵部は昨夜と同じ白木の床几(しょうぎ)に腰掛けていた。

手元の角盆には、湯気を立てる白湯の碗。隻腕の肩を微動だにさせず、老将の鋭利な単眼が、宗玄の全身――破れ目の増えた小袖と、血脂ひとつ付着していない二振りの鞘――を無言で見据えた。


「……兵部様」


新十郎が膝を突き、喉を鳴らした。


「山上の岩棚にて、嘴喰(ハシバミ)三体……すべて討ち果たしにございます。九十九殿、刀を抜くこと三度。いずれも……初手にて首と胸骨を断ち切りました」


幕の内に、しんと冷たい沈黙が落ちた。

火鉢の灰が微かに鳴る。


兵部は碗に口をつけず、宗玄へ視線を移した。


「傷は」

「かすり傷ひとつございませぬ」


宗玄は両手を前に揃え、静かに答えた。


「ただ、風の乱れに刃を添わせたのみ。手前(てまえ)の力ではなく、落ちてくる鳥どもの重みが己の骨を断ちました」


兵部の口元が、わずかに歪んだ。感嘆ではない。老獪な武将が、底の知れぬ深淵を覗き込んだとき特有の、冷ややかな緊張だった。


「……理合、か。新十郎の口から聞かねば、正気の沙汰とは思えん戦法よ」


兵部は隻腕を膝から下ろし、手元の文箱から木札と小袋を取り出した。

卓の上に置かれた小袋からは、ジャラリと鈍い重みのある金属音が響く。


「約束通り、客分として遇する。この砦にとどまり、新十郎ら若い手勢にその足捌きの一端でも指南してくれれば、米と塩、それに佐原領での武家奉公の口を儂が保証しよう。……袋の中は銀粒五つと銭百文。まずはその乞食のような身なりを改めよ。奥の小納戸に、仕立ての良い藍染の小袖と小袴、それに新品の革手甲を用意させてある」


破格の待遇だった。

落ち武者が一夜にして、一領主の重臣の直属指南役へと取り立てられる道。日々の糧と安全、そして武士としての身分が約束されている。


だが、宗玄は銀の袋へ手を伸ばさなかった。


「……過分な仰せ、痛み入ります。されど、某(それがし)はこの砦に腰を落ち着ける気はございませぬ」


新十郎が弾かれたように顔を上げた。

兵部の眉が、険しく寄る。


「断るか。落ち武者が食い扶持を蹴って、どこへ行くというのだ」

「佐原の本城下、あるいはさらに南の大湊(おおみなと)へ参りたく存じます」


宗玄は背負った大太刀の鹿革紐に指を触れた。


「高坂の滅亡、常世穴(とこよあな)の異変、そして山を越えてくる嘴喰。……これらは単なる局地の凶事ではございませぬ。地脈の底で何かが歪み、常世の穴が各地で口を開きかけておる。その元凶の理を見定めねば、いくら境目で小手先の首を狩ろうとも、いずれこの砦も呑まれます」


老宗家としての冷徹な大局観。

八十年の見聞が、この乱世の構造的な崩壊を予見していた。ひとつの砦で安穏と飯を食っている暇など、今のこの世界には残されていない。


兵部は宗玄の眼の奥をじっと見つめた。

若者の功名心ではない。天下を論じる策士の驕りでもない。

ただ「やるべき盤上の手」を淡々と指し進める、老練な打ち手の静けさ。


「……腹の据わった若造だ。いや、若造と呼ぶのも憚られるな」


兵部は嘆息とともに硯(すずり)を引き寄せ、片腕で見事に筆を執った。

墨を擦り、一枚の厚手の漉返紙(こしかえしがみ)へ素早く筆を走らせる。


「我が佐原家の本城、霞ヶ城(かすみがじょう)の城代、長坂丹後(ながさか たんご)宛ての添え状だ。……儂の目利きに狂いはないと書いておく。城下に至らば、これを番所に差し出せ」


兵部は文を折り、朱印を押して宗玄の前へ差し出した。銀の袋とともに。


「これを受け取れ。断ることは許さん。境目の防陣を空からの脅威より救った礼だ。……武士ならば、手柄の対価を無下に辞退するな」

「……忝(かたじけな)い。ありがたく頂戴いたします」


宗玄は文と銀の袋を押し戴き、深々と礼を執った。


砦の小納戸で身支度を整える。

泥と血に汚れた着物を脱ぎ捨て、手入れされた藍染めの筒袖(つつそで)に腕を通す。腰にはしっかりとした麻の袴を着け、脛には厚手の脚絆(きゃはん)を巻き直した。

両手首には、しなやかな鹿革の手甲。


腰の打刀と脇差(わきざし)、そして背負った四尺八寸の大太刀が、新調された武装の中で隙のない輪郭を取り戻していた。


鏡はないが、土間に落ちる影の立ち姿を見ればわかる。

泥濘にまみれた敗残の足軽の風体は消え去り、そこには静謐な殺気を内包した、一人の研ぎ澄まされた武芸者が立っていた。


正門の逆茂木が引かれ、宗玄は一人、南へ続く本道へと踏み出した。

見送りに立った新十郎が、無言で深く頭を下げていた。


秋の朝霧が徐々に薄れ、湿った土の香りが立ち上る。

街道には、砦の安全を確認したとおぼしき行商人の荷車や、南へ下る避難民の列がちらほらと見え始めていた。


宗玄は歩調を崩さず、彼らの間をすり抜けるように進む。

そのすれ違いざま、荷車の陰で足を休めていた初老の商人の話し声が、老剣士の耳朶を打った。


「……おい、聞いたか。背後の高坂の山裾、黒石の宿場のことだ」

「ああ……昨夜、煙が上がっていたな。山から下りてきたマガツモノに破られたのか?」

「いや、違う。中からだそうだ」


商人が声を潜め、辺りを憚るように周囲を見回した。


「門を固めていた代官の神保様がな、夜半に突然、黒い血を吐いて異形に変じたらしい。それに呼応するように、手負いの兵たちが次々と化生となって暴れ出し……町の中は地獄絵図だったとよ。生き残って逃げ出せたのは、ほんのひと握りだそうだ」

「代官様が……? そんな馬鹿な……」


宗玄の歩みが、わずかに半歩だけ緩んだ。


(神保が変異したか……)


常世穴へ送り込まれる直前、武者頭・鳥羽が掲げていた、あの赤黒い血で煮染められた木箱。

あれは怪異を呼ぶ餌であると同時に、自らを蝕む瘴気の苗床だったのだ。民を捨て駒にして穴を埋めたところで、すでに町の中枢そのものが内側から腐り落ちていた。


そして――あの薬師の娘、サヨ。

鍛冶師の吉蔵。

あの二人は、あの狂乱の夜を無事に逃げおおせただろうか。


宗玄は振り返らなかった。

後悔も感傷も、足裏の土を重くするだけだ。

ただ、腰の黒鉄の打刀の柄頭(つかがしら)へそっと右手を添え、指先でその確かな冷たさを確かめた。


街道の遥か先、秋晴れの青空の下に、佐原家の本拠たる城の物見櫓が、小さく黒い影となって見え始めていた。

お読みいただきありがとうございました。

砦の客分の誘いを辞し、大局を見据えて本城を目指す宗玄。背後で崩壊した黒石の凶報を背に、旅路は次なる舞台へと進みます。

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