第1章 三代目の死
1981年、神戸の港はいつもより暑かった。
21時を少し回った頃、俺は一人でとある古いアパートへと向かった。
クラブ『ラヴィアン』のホステス・亜紀子から泣きつかれたのは三日前の夜のことだった。
常連の男がストーカーまがいの行為を繰り返し、家にも来るようになったという。
おやじに「黒田、お前ちょっと行ってこい」と言われた俺は、男が住むアパートを突き止めた。
錆びた鉄階段を上がり、202号室の前で立ち止まる。
蛍光灯の明かりが弱々しく瞬いている。
俺は深く息を吸い、チャイムを鳴らした。
しばらくして、ドアの向こうで物音がした。
覗き穴が暗くなり、男が出てきた。四十代半ばくらいの、脂ぎった顔をした男。
俺は静かに口を開いた。
「この辺りで稼業をさせてもらってる者ですが……、クラブ『ラヴィアン』の亜紀子と言えば、何の用で来たのか、わかりますよね?」
男の顔色が、瞬時に真っ青になった。
喉がごくりと鳴る音が、夜の静かな廊下に小さく響いた。
「同業の方なら、こっちもちゃんと名乗りますが……」
男は慌てて首を横に振った。
「名乗らなくて……けっこうです」
俺は言葉は荒げず、ゆっくりと続けた。
「じゃあ、もう二度と彼女には近づかないって、一筆書いてもらえますか?
もしも破った時は……。
どうなるかわかりますよね?」
男は震える手でドアの枠を掴みながら、何度も頷いた。
その目は完全に怯えきっていた。
俺は差し出した用紙に、男が震える手で文字を書くのを、無言で見守った。
次の朝の俺は、事務所の奥の椅子に腰を下ろしていた。
7月の風が、錆びた鉄の匂いと潮の香りを運んでくる。ここは神代組傘下峰崎組系加山組事務所。
窓ガラスは古い塩で白くくすみ、港の景色がぼんやりと滲んで見えている。
俺、黒田剛32歳は、この加山組で若頭をしている。
煙草をくわえ、火をつけると、青い煙がゆっくりと天井に昇っていった。
ふいに電話が鳴った。
短い呼び出し音が、妙に耳に残った。
舎弟の一人が受話器を取った。
声は低く、かすかに震えている。
「本家の……親分が……、亡くなられたそうです」
その瞬間、事務所の空気が凍りついた。
誰もが動きを止めた。
煙草の灰が、俺の指の間で長く伸び、静かに落ちた。
本家の親分――。
神代組の三代目を継承し、任侠界の頂点に君臨したその男は、武闘派の象徴だった。
港の荒波のように激しく、しかし芸能興行や港湾荷役、様々な事業を展開し実業界にも名をはせ、潤沢な資金を惜しみなく組の侵攻に投入し、わずか組員数十人の地場の小さな組を全国規模に広げ、一万人を超える鉄壁の組織を作り上げた大親分。
俺のような港湾労働者出身の枝の若衆にとって、三代目は遠い雲のような存在だった。
その名を口にするだけで背筋が伸びる思いがした。
加山組組長の加山 巌が、ゆっくりと茶の入った湯呑みを置いた。
本当の父のように慕う組長。
俺がおやじと呼ぶ人間はこの世に、この人以外にはいない。
顔には深い皺が刻まれ、目はいつも静かで、しかし底知れぬ深さがあった。
彼は湯呑みの縁を指でなぞりながら、独り言のように呟いた。
「跡目は北村の頭だな」
その声は低く、抑揚がなかった。
しかしその一言に込められた重みは、事務所にいる全員が肌で感じ取った。
北村の頭とは神代組本家の北村兼六若頭。
峰崎組一門の人間としては苦々しい人物でもあったが、三代目からの信頼が厚く、次期組長と誰もが疑わない男。
組の未来を背負うべき人間。誰もがそう思っていた。
俺は窓の外を見つめた。
三代目の死が、組に何をもたらすのか。
まだ誰もその答えは持っていなかった。
ただ、胸の奥に冷たい予感が、静かに、しかし確実に広がっていくのだけはわかった。
加山は湯呑みをもう一度手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
濃い緑色の茶の表面が、わずかに震えていた。
俺は煙草を灰皿に押しつけ、深く息を吐いた。
お読みいただきありがとうございます。
よろしくお願いいたします。




