第85話「不要と言われた男の、帰る場所」
収穫祭の朝が来た。
テルミナの広場は、朝から色とりどりに染まっていた。屋台が軒を連ね、焼けた肉と、揚げた菓子と、温かい果実酒の匂いが入り混じって漂ってくる。広場の中央には、収穫した麦や林檎を山と積んだ祭壇。楽団が隅で音合わせをして、子供たちが赤や黄の飾り花を柱に巻きつけていた。
秋の空は、どこまでも高く澄んでいる。あの町を覆っていた紫黒の渦が、もう嘘みたいだった。
俺は、広場の隅でその様子を眺めていた。一年前、この町に来た。誰にも見えない死霊術師として、安宿のカウンターで一人、麦酒を飲んだ。それが今は、町の英雄として祭りの主賓に祭り上げられている。落差がおかしくて、少し笑った。
◇
昼過ぎ、町の門が騒がしくなった。ゼノンが、来たのだ。
馬を降りた姿は、すっかり日に焼けて、前より逞しくなっていた。腰には、あの白銀の鉄剣。冥府で覚醒した、本物の剣だ。
「よう。約束、果たしに来た」
手を上げて、笑う。憑き物が落ちたような、いい顔だった。
「待ってたぞ」
握手をかわす。それから、ゼノンは町の人たちに囲まれた。「あの勇者様だ」と。かつてレイドを追放した男が、今はこの町でも歓迎されている。複雑な気もしたが——ゼノンは、ちゃんとそれを受け止めていた。逃げずに。
「お前を追放した男です」と、自分から名乗って頭を下げ、それから一緒に酒を飲む。そういう男に、なっていた。
◇
祭りの夜。広場にかがり火が灯ると、町中の人が集まって、飲んで、踊って、笑い出した。テーブルには料理が山と並び、楽団が陽気な曲を奏でている。
俺たちのテーブルも、賑やかだった。リリスがワインの杯を傾け、シャルロットがゼノンと剣の話で盛り上がり、メルティが屋台のあれこれを実体化した手で頬張り、セラフィナが楽団の音楽に耳を傾けている。オルガが少し離れた席から、目を細めてこちらを見ていた。
俺は、その真ん中にいた。
ふと、ミレーヌがやってきて隣に座る。ワインで少し赤い顔をしていた。
「レイドさん。私、ここで本当によかったです。テルミナのギルドで働けて、オルガさんに鍛えられて。……自分の足で、立てるようになりました。全部、レイドさんのおかげです」
「いや」と俺は首を振った。「お前が、自分で立ったんだ」
ミレーヌが、嬉しそうに笑った。
◇
祭りが、最高潮に達した頃。
楽団の音が、ふと止んだ。
町長が、広場の中央に進み出る。皺だらけの手に、なみなみと注がれた杯を掲げて。ざわめいていた広場が、少しずつ静まっていった。かがり火の爆ぜる音だけが、夜に響く。
「皆の衆」
老いた声が、それでもよく通った。
「今日は、我らの英雄に乾杯したい」
何百人もの顔が、いっせいにこちらを向いた。屋台の親父も、踊っていた娘たちも、肩車された子供も。みんなが、俺を見ている。
「一年前。この町に、一人の死霊術師が来た。誰もが、その肩書きに眉をひそめた。死を扱う者だと、遠ざけようとした」
町長の声が、ふと詰まった。
「だがその男は——蘇りモンスターから子供を守り、呪われた者を救い、教会の嘘を暴き、そして、世界そのものを救ってくれた。レイド・ノクターン。彼は、テルミナの誇りだ」
町長が、杯を高く掲げた。
「我らの英雄に。そして、彼の仲間たちに——乾杯!」
何百という杯が、夜空に向かって一斉に掲げられる。
「「「乾杯!」」」
声が、広場を揺らした。地面から、足の裏に響いてくるほどの。
俺は、立ち上がって頭を下げた。礼を言おうと口を開く。けれど、声が出てこない。喉の奥が、固く詰まっていた。
代わりに、一年前の夜が、よみがえってくる。
曙光の英雄の祝宴。あの夜、ゼノンが「お前は不要だ」と告げた。仲間たちが乾杯する声を背中で聞きながら、俺は一人、酒場の扉を押した。誰も、引き止めなかった。誰も、振り返らなかった。冷えた夜道を歩いて、安宿の一番狭い部屋で、固い床に寝転んで、窓の外の星を見た。
あの夜、俺の名を呼ぶ声は、どこにもなかった。
乾杯の輪に、俺の席はなかった。
それが——いま。
何百という声が、俺の名を呼んでいる。何百という杯が、俺のために掲げられている。固い床ではなく、温かいかがり火の前に、俺の席がある。
目の奥が、痛んだ。
泣くものか、と思ったのに。下を向いた拍子に、一粒だけ、こぼれてしまった。誰にも見られないように、慌てて手の甲で拭う。
拭いきれたかどうかは、わからなかった。
◇
夜が更けて、宴がひと段落した頃。
俺は、一人で広場を抜け出した。
町外れの丘に登る。坂を上がるにつれて祭りの喧騒が遠ざかり、虫の音と風の音に変わっていった。丘の上から見下ろすと、テルミナの町がまるごと一望できた。広場のかがり火を中心に、家々の窓明かりが点々と灯っている。橙色の光が夜の底に溶けて、町全体が一つの大きな灯りのようだった。遠くから、楽団の音と笑い声の名残が、風に乗って届いてくる。秋の夜気は涼しく、林檎の甘い匂いが、かすかに混じっていた。
「逃げたのか、主役が」
声に振り返ると、五人がいた。リリス、シャルロット、セラフィナ、メルティ、それから少し遅れてゼノンも。みんな、俺を追ってきたらしい。
「逃げてない。少し、風に当たりたくてな」
「嘘つけ。照れ隠しじゃろう」
リリスがくすりと笑って隣に並んだ。銀の髪が、星明かりを受けて青白く光る。
「いい眺めじゃのう」
「ああ」
シャルロットが反対側に立ち、メルティが俺の足元にちょこんと座る。セラフィナが少し後ろから町を見下ろし、ゼノンは手すりにもたれて夜空を見上げていた。
誰も、何も言わなかった。ただ、同じ景色を、肩を並べて見ていた。眼下の灯りが、瞬くたびに、誰かの笑い声が聞こえる気がした。
◇
「なあ、レイド」
ゼノンが、ぽつりと言った。
「お前を追放したこと、今でも、たまに夢に見る。最低なことをしたって。でも——」
夜空を見上げたまま、続ける。
「あの時お前を追い出さなかったら、お前はこの町に来なかった。この四人にも、会わなかった。……皮肉だよな」
「そうだな」
俺も、夜空を見上げた。追放されなければ、テルミナに来なかった。リリスにも、シャルロットにも、セラフィナにも、メルティにも、会わなかった。オルガにも、フィーナにも、この町の人たちにも。あの「不要だ」の一言が、全部の始まりだった。
「恨んでないよ」
俺は言った。
「むしろ、感謝してる。——お前が追い出してくれたから、俺は、本当の居場所を見つけられた」
ゼノンが、何も言わずに、ただ頷いた。その目が、少し潤んでいた。
◇
メルティが、立ち上がって、俺の袖を掴んだ。
いつもの癖。でも、もう半透明じゃない。温かい、実体の手だ。
「ししょう」
見上げてくる、紫色の瞳。三百年、誰にも見えなかった少女の瞳が、まっすぐ俺を映している。
「メルティ、ずっとここにいていいですか? ずっと、ししょうの傍に」
「ああ。ずっといていい」
「えへへ」
メルティが、顔をくしゃくしゃにして笑った。泣き笑いみたいな、でも、心からの笑顔だった。
その隣で、シャルロットが、俺の手にそっと自分の手を重ねた。あの丘の日から、もう照れ隠しに「別に」とは言わない。耳をうっすら赤くしながらも、視線だけは、まっすぐ俺に向けている。
「私も、いるから。ずっと」
反対の手を、リリスが握った。八百年待った真祖の手は、もう冷たくない。紅い瞳が、星明かりの下で、優しく細められている。
「ようやく、追いついたのう。ぬしに」
背中に、ふわりと重みがかかる。セラフィナが、翼ごと俺に寄り添っていた。暁の翼が、夜風に揺れて、月光を受けて淡く光る。
「私の居場所は、ここです。あなたの隣が」
耳元で、そっと囁く声。
四人の温もりが、俺を包んでいた。それぞれ違う温度で。違う手触りで。けれど、どれも確かに、生きて、ここにある。
星空の下。
帰る場所の、光の中で。
◇
「帰ろう」
俺は、言った。
「祭りの続きだ。みんな、待ってる」
「うむ」
「ええ」
「はい!」
「……うん」
六人で、丘を下りはじめた。
眼下に、テルミナの灯りが揺れている。あそこに、俺の帰る場所がある。俺を呼ぶ声がある。俺を必要とする人たちがいる。
「不要」と言われた男は、もう、どこにもいなかった。
ここにいるのは、ただ、帰る場所のある、一人の男だった。
(完)
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