第22話「堕ちた天使」
冥都の外縁に、岩壁に囲まれた窪地があった。
風が遮られ、怨念体の気配も薄い。冥府の中では比較的安全な場所だ。ここに堕天使を運び、治療を始めた。
横たえると、傷の深刻さが改めてわかった。全身に切り傷がある。だが普通の刃物による傷ではない。傷口が青白く光っている。肉体ではなく、魂そのものが斬られている。
リリスが傷を見て息を呑んだ。
「この傷……天界の断罪の剣によるものじゃ」
「知ってるのか」
「800年前に見たことがある。天界の法に背いた者に対して振るわれる裁きの刃。肉体を傷つけるのではなく、魂を直接断つ。……相当な罰を受けたのじゃな、この娘は」
魂を直接斬る剣。通常の治癒魔法では塞がらないはずだ。
魂魄支配で堕天使の魂に触れた。純白の光が弱々しく脈打っている。魂の表面に無数の裂傷がある。だが致命傷ではない。魂の核は無事だ。裂傷を一つずつ塞いでいけば、安定化できる。
人間の魂の修復とは勝手が違った。天使の魂は層が多い。人間が三層なら、天使は七層以上ある。各層ごとに魂魄支配の波長を合わせなければならない。手探りだったが、一層ずつ丁寧に裂傷を塞いでいった。
三十分ほどかけて、応急処置が完了した。呼吸が安定し、顔色が——蒼白から、かすかに血の色が戻った。
「これで当面は大丈夫だ。完全な治癒には時間がかかるが、命の危険はない」
「ぬし、天使の魂の修復までできるのか。……底が知れぬ男じゃの」
「手探りだよ。人間の治療の応用でどうにかなっただけだ」
シャルロットが堕天使の横に座り、額の汗を布で拭いていた。
「……この人、泣いてる」
見ると、閉じた目の縁から涙が伝っていた。意識のないまま、泣いている。
◇
夜——冥府に昼夜はないが、体内時計の感覚で夜と呼ぶことにする——が更けた頃。
堕天使が目を覚ました。
「……ん」
銀灰色の睫毛が震え、瞳が開いた。淡い紫の瞳。曇り空の向こうに月が透けて見えるような、不思議な色だった。
最初に見えたのは、暗黒の空だろう。それから——俺の顔。
「……あなたは? ここは……冥府?」
声はかすれていたが、澄んだ響きがあった。
「冥府で合ってる。空から落ちてきたところを助けた。俺はレイド。死霊術師だ」
「死霊……術師……」
堕天使は緩慢な動作で自分の体を確認した。両手を見て、背中に手を回し——翼に触れた。折れた翼。黒く染まった羽根。
表情が凍った。
「そう……私はまだ、生きているのですか」
その声には、安堵はなかった。むしろ——失望に近いものがあった。
「……生きていて、何の意味が」
「意味なら、これから見つければいい」
俺が言うと、堕天使がこちらを向いた。紫の瞳に、微かな困惑が浮かんでいた。期待していなかった言葉を聞いた、という顔だった。
「あなたは……不思議な方ですね。死霊術師なのに、生きることを勧めるのですか」
「死霊術師だからだよ。魂を扱う以上、生きている魂を見捨てる理由がない」
◇
堕天使が名乗った。
セラフィナ・フォーリン。元・天界の裁定者。称号は【黒翼の裁定者】。
「裁定者?」
「天界には、人間界の秩序を監視する役割があります。裁定者はその実行部隊。人間界で大きな秩序の乱れが起きた時、天界の意志を伝え、是正するのが任務でした」
セラフィナの声は淡々としていた。感情を切り離して事実だけを語る口調。だが、その淡々さの奥に、何かを押し殺しているのが魂視で見えた。
「ある時——人間の村が魔物の群れに襲われました。大規模な襲撃で、村の守備隊では到底防ぎきれない規模でした」
セラフィナの手が膝の上で握られた。
「天界の規律では、人間界に直接干渉してはなりません。裁定者の任務は監視と報告であって、介入ではない。だから本来、私がすべきことは——報告書を書いて、村が滅びるのを見届けることでした」
「……見届けるだけ?」
シャルロットが低い声で聞いた。
「はい。天界の規律はそうなっています。人間の運命は人間が決めるべきであり、天界が介入すれば世界の均衡が乱れると」
「馬鹿げてる」
シャルロットの声に怒りが混じった。「目の前で人が死にかけてるのに、規則だから見てるだけって——」
「シャルロット」
俺が制した。シャルロットは口を閉じたが、拳は握ったままだった。
セラフィナが小さく笑った。力のない、だが温かい笑みだった。
「あなたと同じことを、私も思いました」
それから、表情が沈んだ。
「私は——規律を破りました。村に降りて、魔物の群れを退けました。村人たちは助かりました。子供も、老人も、全員」
「それで罰を受けたのか」
「はい。人間界への直接干渉は天界の最大の禁忌です。翼を黒く染められ、力の大半を封じられ、天界から追放されました。この冥府に堕とされたのです」
セラフィナの手が、自分の黒い翼に触れた。
「かつて白かった翼が、罪の証として黒く変えられました。もう天界には戻れません。二度と」
沈黙が落ちた。
冥府の風が吹いている。温度のない、匂いのない風。紫色の光が四人の顔を照らしていた。
セラフィナが俯いたまま、呟いた。
「……間違っていたのでしょうか。人が死にかけているのを見て、助けることが」
その言葉が、胸に刺さった。
——聞いたことのある問いだった。自分自身に何度も問いかけた問いだ。七年間、影で仲間を支え続けたのは間違いだったのか。誰にも気づかれなかった七年間に、意味はあったのか。
「間違ってない」
俺は言った。
「目の前の人を助けることが間違いなわけがない。——俺も似たようなものだよ。七年間仲間を守り続けて、最後に追放された」
セラフィナが目を見開いた。
「わらわは800年の封印じゃ」
リリスが腕を組んで言った。さらりと、800年を一文で片づける。
「人間と共存しようとして、教会に『魔王の手先』と断じられて封じられた。800年間、石の棺の中でな」
「私は——呪いをかけられて追放された」
シャルロットが静かに言った。
「名門騎士家の長女だったのに、叔父に呪いをかけられて、家族からも捨てられた。半年間、森で一人で死にかけてた」
セラフィナの紫の瞳が、一人ずつ三人の顔を見た。驚きと、信じられないという表情と——そしてもう一つ、名前のつけにくい感情が浮かんでいた。
「……みなさん、追放された……?」
「ここにいる全員がそうだ」
俺はセラフィナを見た。
「でも、今はこうして一緒にいる。追放されたからこそ出会えた。俺はそう思ってる」
セラフィナの目に涙が浮かんだ。声は出なかった。唇が震えて、言葉にならなかった。
目を覚ました時に流していた涙とは違う涙だった。あれは絶望の涙だ。これは——もっと温かい。
「……ずっと、間違っていたのだと思っていました。天界を追われてから、ずっと。規律を破った自分が悪いのだと。あの村を見捨てるべきだったのだと」
涙が頬を伝って、冥府の地面に落ちた。
「でも……あなたたちも同じだったんですね。正しいことをして、報われなかった」
「正しかったかどうかは、俺にもわからない」
正直に答えた。
「でも、後悔はしてない。七年間やったことも、リリスを助けたことも、シャルロットを治したことも——全部、やってよかったと思ってる。お前も、あの村を助けたことを後悔してないだろ?」
セラフィナが涙を拭った。
「……はい。後悔していません。あの子たちの笑顔を、今も覚えています」
「なら、それでいい」
リリスが微笑んだ。シャルロットが腕を組みながらも、少しだけ目を潤ませていた。
◇
セラフィナが落ち着いた後、俺は魂視で彼女の魂をもう一度詳しく確認した。
純白の魂。応急処置で裂傷は塞いだが、もっと深い部分に——封印がある。
七重の封印。
だがシャルロットの呪いとは構造が全く違った。呪いが「外から締め付ける鎖」だとすれば、天界の封印は「内側から力を閉じ込める檻」だ。魂の中に七つの檻が入れ子のように組まれ、セラフィナの本来の力を内側に封じ込めている。
外から壊すのではなく、内側から開ける必要がある。
「セラフィナ。お前の力、封じられてるな」
「はい。天界の裁定で、力の大半を封じられました。今の私は——かつての一割も出せません」
「七重の封印だ。シャルロットの呪いとは仕組みが違うが、魂魄支配で段階的に解放できるかもしれない」
セラフィナの目が揺れた。
「……私の力を、取り戻せるのですか?」
「やってみる価値はある。ただし、天界の封印に触れるのは初めてだ。慎重にやらないと、魂を傷つける。時間をかけて、一段階ずつ」
「シャルロットの呪いと同じ方式じゃの」
リリスが言った。
「ぬし、呪い解除に封印解除に、忙しい男じゃのう」
「死霊術師の仕事だよ」
セラフィナの瞳に——微かに、光が宿った。
目を覚ました時に「生きていて何の意味が」と言った瞳とは、違う色だった。消えかけていた灯に、ほんの少しだけ油が注がれたような。
「……ありがとうございます。レイドさん」
「さん付けはいい。レイドでいい」
「では……レイド」
セラフィナが初めて、微かに笑った。翼の折れた堕天使の、最初の笑顔だった。
「よろしくお願いします」
四人になった。
死霊術師。真祖の吸血鬼。呪いの騎士姫。堕天使。
光の世界に拒まれた者たちが、闇の中で出会った。全員が追放者で、全員がここにいる理由がある。
冥都の紫色の灯りが、四人を照らしていた。
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