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悪役令嬢の母になりました。断罪より先に子どもを連れて舞台から降ります。【連載版】  作者: 星渡リン
第3章:こちらの舞台を作る

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第32話 医学は、静かに強い

「今日は私が前に出ます。あなたは娘の手を握っていて」


 ハーゼ先生がそう言ったのは、朝の台所だった。

 湯気の立つお茶の匂いと、焼いたパンの匂いの間で、医師の声だけが妙に静かだった。


 静かすぎて、逆に強い。


 私は一瞬、言葉を失った。

 先生はいつも、弱そうに見える。胃薬が標準装備で、神殿の名前が出るだけで顔色が変わる。

 それなのに今は、目が揺れていない。


「……先生が?」


「はい」


 短い返事。

 短い返事ほど、覚悟が見える。


「神殿の相手は、あなたがしないほうがいい」


 先生は続けた。


「あなたが前に出ると、“母が拒んでいる”になる。そこに照明が当たる」


 照明。

 この世界は、何かを照らして役にするのが得意だ。

 照らされた瞬間に、正しさが滑っていく。


「だから、今日は私が前に出ます」


 先生は湯気の向こうで、落ち着いたまま言った。


「あなたは娘の手を握っていて。それだけでいい」


 それだけでいい。

 その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。


 私は頷いた。


「分かりました」


 返事をした瞬間、背後でノエルが小さく頷く気配がした。

 彼女も同じ結論に辿り着いていたのだろう。


 私はクラリスを見た。

 娘は椅子に座り、ぬいぐるみの耳を撫でている。手が少し冷たい。


 私はその手を取って、そっと握り返した。

 強すぎない。逃げ道のある握り方で、温度を渡す。


「今日ね、神殿の人が来るの」


 クラリスの肩が少し上がる。

 でも、前みたいに息を止めない。


「……こわい?」


 私は嘘をつかない。


「少し。でも、守れる」


 クラリスが私の手を握り返す。

 合図より先に、安心を確かめる握り返し。


「ここは生活。窓がある。出ていい」


 娘が小さく復唱する。


「……出ていい」


 それだけで、今日は進める気がした。



 神殿の馬車は昼前に来た。

 にこにこした笑顔を連れてくる。


 ルミナが先に降り、いつものように丁寧に頭を下げた。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 言葉は柔らかい。

 柔らかいほど、拒否しづらい。


 随行が道具箱を運び込む。

 木箱は小さい。小さいのに、重い匂いがする。


 私は応接室に通さなかった。

 今日も“生活が見える部屋”。使用人が出入りする場所。密室にならない場所。


 台所寄りの小部屋。

 椅子と机。窓。湯気の匂い。


 ノエルが当然のようにスープを用意し、湯気を置いた。

 湯気がふわりとのぼる、温かいスープ。


「まず食べてから話しましょう」


 ルミナの微笑みが一瞬だけ止まって、すぐ戻る。

 戻るのが上手い。


「ありがとうございます。では、短く」


 短く。

 その言葉自体が、すでに段取りが決まっている証拠だ。


 ルミナが書記に目配せをする。

 書記が紙を出す。紙が厚い。決定の紙だ。


「お嬢さまの安全のため、簡易な確認をお願いしたく」


 お願い。

 でも紙が先に出ている時点で、お願いではない。


「儀式というほどではありません。短時間で終わります」


 短時間。便利な言葉だ。短いほど断りづらい。


 クラリスの肩が固くなる。

 口が形を作りそうになる。貴族口調の“役”。自分を守る鎧。


 私は約束通り、言葉を増やさなかった。

 ただ、娘の手を握った。温度だけを渡す。


 クラリスが私を見る。私は小さく頷く。

 娘の呼吸が、少し戻る。


 その間に、ハーゼ先生が前へ出た。

 医師はいつもなら一歩遅れる。けれど今日は、最初から前にいる。


「何をするのか、先に教えてください」


 声は静かだった。

 静かで、はっきりしている。


 ルミナが微笑む。


「もちろんです。お嬢さまに負担のない形で――」


「時間は何分ですか」


 先生は、言葉を切らないまま質問を置く。

 対決の形にしない。確認の形にする。


 ルミナが瞬きを一つした。


「……十分ほど」


「香は焚きますか」


「香は……清めのために少し」


「近づく人数は」


「指導役と書記、補佐の者が一名」


 先生は頷いた。

 頷いてから、淡々と言った。


「本日はできません」


 ルミナの微笑みが、ほんの少しだけ固くなる。


「医師殿。確認は安心のためです。悪いことは起きません」


 悪いことは起きません。

 保証できない言葉だ。


 先生は声を荒げない。


「悪いことが起きない保証は、誰にもできません」


 短い。短いほど通る。


「香は刺激です。人の距離は刺激です。十分の緊張は、子どもにとっては十分以上です」


 医学の言葉で、生活の言葉に落とす。

 刺激。緊張。距離。分かる言葉だ。


「お嬢さまは今、静養中です。咳は軽くても、睡眠と緊張が原因です。刺激を増やす行為は回復を遅らせます」


 ルミナが、にこにこしたまま反論する。

 にこにこして刺す。


「神殿の確認は、むしろ回復を早める方もおります。神意は医学を超え――」


 言い切らなかった。

 そこまで言うと宗教論争になる。ルミナは賢い。だから厄介だ。


 先生は一拍置いた。

 そして、短く言った。


「健康は現実です」


 その言葉が、部屋に落ちた。


 現実。

 私たちが守っているものの名前だ。


 ルミナの微笑みが、止まらないまま目だけが細くなる。


「医師殿は、神意を否定なさるのですか」


「否定しません」


 先生はすぐ答えた。


「私は、起きうることを否定しません。だから止めます」


 止めます。

 それが医師の強さだ。静かに、止める。


 ノエルが横で、ほんの少しだけ頷いた。

 この人は今、守り手に負けていない。


 クラリスの手が、少しだけ温かくなった。

 母の手を握り返す力が戻っている。


 私は胸の奥で息を吐いた。

 先生が前に出る意味は、これだ。私は娘の手を握っていればいい。


 ルミナは、なおも笑顔を崩さない。


「では、日を改めて。回復後に」


 言い方が上手い。

 引くふりをして、次の糸を残す。


 私はそこで、フォローに入った。

 対決に見えないように、順番にする。


「医師の判断に従います」


 短く言う。


「回復後に、専門家を交えて公平な形で話し合いましょう。手順と条件は、書面で先にいただけますか」


 書面。順番。条件。

 “拒否”ではなく、“整理”に変える。母の戦術は、ここだ。


 ルミナが微笑む。


「もちろんです。公平は良いことです」


 公平。

 良い言葉ほど、奪われやすい。


 先生が一歩引いた。

 それで終わるかと思った瞬間、ルミナが最後の一手を置いた。


「では、王都の専門家も呼びましょう」


 王都。

 その二文字が、部屋の温度を下げた。


 王都の専門家。

 それは公平の顔をした、王都の照明だ。


 ルミナはにこにこしたまま続ける。


「より公平に。より安全に」


 より。便利な刃。


 私は笑顔を崩さず頷いた。

 頷かないと、その場で“拒む母”が完成してしまう。


「検討します」


 短い言葉で、順番を置く。

 今は受けない。今は戦わない。今は、手の中の温度を守る。


 クラリスが私の手をぎゅっと握った。

 私は握り返す。ここは生活。窓がある。出ていい。



 神殿一行が帰った後、台所に戻ると、ハーゼ先生が椅子に座り込んだ。

 そして胸ポケットから胃薬を出した。


「……今のは心臓に悪い」


 ぽつり。

 医師が強いことを言った後の、正直な言葉。


 ノエルが真顔で言う。


「必要な作業です」


「……分かっています」


 先生は胃薬を飲み、深く息を吐いた。


「でも、胃は分かっていません」


 私は思わず笑ってしまった。

 笑いが一つ入るだけで、胸が軽くなる。


「先生、ありがとうございます」


 私が言うと、先生は手を振った。


「礼は娘さんに。今日は、あなたが握っていたから、私は前に出られた」


 握っていた。

 それだけでいいと言われたことが、今、意味を持つ。


 私はクラリスを見た。

 娘は椅子に座って、ぬいぐるみを抱えている。

 顔はまだ少し固い。でも、息はできている。


「クラリス」


 私が呼ぶと、娘が顔を上げた。


「……せんせい、つよい」


 小さな声で言った。

 子どもは、強さをちゃんと見ている。


 ハーゼ先生が苦笑した。


「強く見えただけです。中身は胃薬です」


 ノエルが即答する。


「中身も仕事です」


 またそれだ。

 笑いが起きる。生活の笑い。舞台の笑いじゃない。


 私は心の中で、次の段取りを組み始めた。


 王都の専門家。父アデルの出番が来る。

 そして、王都へ寄せられるなら、こちらは生活の舞台を厚くする必要がある。


 祭り。

 子どもが笑える、生活の大きな音。噂より強い音。


 まだ形にならない芽が、胸の中で小さく動いた。


 私はクラリスの手をもう一度握る。温度を渡す。

 今日はそれでいい。


 医学は静かに強い。

 静かに、現実を守る。

 その強さを、私たちは味方にした。

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