黄昏に爪弾く
風奏琴という楽器をご存じだろうか。
あるいは貴方の住まう国にも、同じ名を冠した楽器があるかもしれぬ。
あの年の夏の終わりの夕暮れ、瓔珞市のはずれにたたずんでいた、幾重にも紗羅の被衣を重ねて面貌を隠した嫋やかな女をご覧になったのなら、私の言わんとすることもおわかりいただけるものと思う。
その女は黄昏時になるといずこからともなく姿を現した。
常に変わらず、青紫の天鵞絨に包んだ琴を携えていた。
それがまるごとの「琴」ではなく、女は包みを開いてそのつど組み立てるのだ。
風奏琴を。
ふつう弦を張る琴のたぐいはみな、共鳴体を備えているものだが、風奏琴は枠と弦しかない。
共鳴体の役割を担うのは文字通りの空なのだ。
まるで、中有から調べを生み出しているかのように、ぞうさもなく、女はその琴を奏でた。
そのつど組み立てるので、まずは調子を合わせることから始まる。
女の指にはじかれて弦音が響くと、道行く者の足はみなぴったりと止まったものだ。
撥は使わなかったし、爪もつけなかったようだ。
調べが整うと女は辞儀をして口上を述べた。
瓔珞の方々、ごきげんよう
妾はこの地に流れ着いた
蒼犬神の眷属の娘
冥界の門を守るいと古き神に仕える者
これよりお耳に入れるのは
蒼犬神の神殿に伝わりし
いにしえの伝承版に刻まれた物語
別の時、別の場所で起きたかもしれぬこと
耳ある者にとっては物語歌
さもあらぬ者にとっては夜風のささやき
夢を流れる思い出すことあたわぬ調べ
霊送りの辻歌なり
女の声はさながら迦陵頻伽のごとくであった。
琴を奏でるために被衣を落とすと、長く青い髪がまっすぐに下ろされて、巫女のようにも見受けられた。
ただその顔容は黒い紗で目を覆って、誰もさだかに見ることはできなかった。
「蒼犬神」というのは、はるか西にあるたいそう古い国に奉じられている神で、女の口上にあるように冥界の門を守っているのだそうだ。
冥界の門をくぐる者は、人であれ神であれ、その非情の審問を受けなければならぬということだ。