第二章・誰そ彼(6)
影虎はその名前に反して、太陽に向かって咲く向日葵のような人だった。並んで歩くうちに、彼の天真爛漫な気性に惹かれる人は少なくないことを知った。大通りを闊歩していく影虎に声をかける人は驚くほど多くて、三十分経ってもまるで進まないような有様だったのだ。それも老若男女問わず、影虎を見れば目を和ませる。話しかけてきたうちの何人かは、榛名にも気兼ねなく話しかけてきてくれた。
「また、いつもとは随分毛色の変わった子を連れてるねぇ」
「ほんと。異国の子かい、勝手に連れてきたんじゃないんだろうね影虎」
何くれなく接してくれる人々に、最初は緊張していた榛名も、少しずつ会話を交わせるようになっていった。思えば、碧以外の人間と警戒せずに話が出来たのは久しぶりのことで、それぞれと交わした言葉は少なかったものの、市をあらかた見終えた頃には随分胸がすっきりとしていた。
通りを歩きながら、榛名は年嵩の女性に貰った包みを開いた。お腹が空いたら食べるといいと持たされたそれは、綻ぶ袋の口からふんわりと甘い芳香が漂った。
「お菓子だぁ」
甘味は久しぶりだった。碧が持ってくる食事はいつも定食のようなお膳で、甘いものが出てくることはない。手元を覗き込んで影虎は言った。
「白佳だね」
「はくか?」
「うん、子供に大人気のやつ。ものは試しに、はいどーぞ」
差し出された欠片をぱくりとくわえると、まぶしてあった糖衣が口内でとろけた。思わず頬をおさえて榛名は唸った。
「美味しいぃぃ」
「……そりゃよかった。あげた甲斐があると思うよ」
かくいう影虎も色んな人からお土産を手渡されていた。歩けば歩くほど積み重なっていって、いまや背中に風呂敷で包んで下げているほどだ。溢れんばかりに膨れ上がった荷を見て、影虎は眉を顰めた。
「うーん、これは荷物を置きに一度店に戻ったほうがいいかもね。ごめんねー。人の多いとこを歩くといつもこうなんだよね」
「ほんとたくさん。みんな影虎のこと好きなんだね」
「っていうよりこういうとこはね、人付き合いってのが一番大事なの。頭とかやってると顔が広くなっちゃってさ。ちょっと歩いただけで皆が声かけてくるんだよね」
それでも、影虎の後姿を見ただけで追いかけてくる人が多いのは事実だった。影虎はもうこの街に根付いているのだ。久しぶり、元気かいと声をかけてくれる人が数え切れないほどいるのが、その証拠だった。
「こんなことするために街を歩いたわけじゃないのに、ごめんねぇ榛名ちゃん」
「ううん、全然。楽しかった」
けろりと答えると影虎は目を剥いた。
「……案外榛名ちゃんって、逞しいね」
「え? そうかな」
「うん。結構。見てて面白いよ。新鮮」
影虎が含み笑いする。そんなに逞しいだろうか。
確かに周囲からみると、榛名は順応がはやいのかもしれない。けれど本人からすると、みるみるうちに時間が過ぎていって、風習や生活に慣れるのでいっぱいいっぱいだっただけだ。この世界に目を向けることが出来たのはついさっきなのだから、自分の余裕のなさが窺い知れる。
「何かねぇ、榛名ちゃん見てたらさ、碧ももしかしたら榛名ちゃんといるの面白いのかなーってちょっと思った。あ、でもこういうこと言ったら怒るなこれ。間違いなく」
「……面白い? 碧が?」
絶対嘘だと言わんばかりに首を捻る榛名に影虎は苦笑した。
「あの、榛名ちゃん。碧も一応面白いなーとか、楽しいなーとか思ってるからね?」
「そんな様子全然見せないよ?」
「いやそりゃ俺みたいにけらけら笑ったりはしないけど。そうだなー、微妙な差なんだけど、顔が緩むというか。分かりにくいけど、その分あー今楽しいんだなーとか分かると面白いから」
「……影虎って、碧のことよく見てるんだね」
榛名がくすっと笑うと、影虎は肩を竦めた。
「いやいや。これは碧だからとか俺が気が付く性質だからってわけじゃなくて、腐れ縁のせいだね。何せほんと付き合い長いから」
「小さい頃の碧もあんな風だったの?」
尊大な態度のせいか、あまり少年の碧というのは想像がつかない。
「うん。むしろもっと態度悪い感じ? 今は前より迫力ついたけど、見た目が愛らしかった分可愛げのなさは断然上だったねえ」
「……周りの人が大変そうだあ」
同情をこめて溜め息を漏らす。
「いやー。俺から言わせるとさっきやって来た奴も含め、碧に怯えすぎ。ちょっと睨んだり凄んだだけで泣きそうな顔するんだから」
「そう言って苛めるのはよくないと思う」
指摘すると、影虎はちろりと舌を出した。
全く、と呆れるうちに見慣れた風景に近づく。そう遠く離れていたわけではなかったので、話し込む間に影虎の店に着いていた。
それにしても、適当に放置していったというのに、品物が荒らされた様子はない。この店の主人が有名な盗賊の長であると知っているのか否かは定かでないが、国がある程度平和であることは確かなようだった。
「よっこいせっと」
抱えていた荷物を引き下ろす影虎に倣って、榛名も一回り小さい荷物を敷物の上に置く。そして影虎に向き直って、すうと深呼吸した。泥を払う手を止めて注視する、その眼差しを感じながら榛名は深々と頭を下げた。
「えっと、……改めて、影虎。お仕事もあって忙しい中、こっちの勝手でわたしについてきてもらって、ごめんなさい。時間を割いてもらうことになったのに、さっきはお礼を言えなくて……遅くなったけど、わたし、まだあんまりこの国のことを知らないから、本当に助かります。ありがとう」
しばし、沈黙が流れる。
何かおかしなことでも言ったかと頭を上げようとしたとき、ぶっ、と音が聞こえた。見ると影虎が頬を膨らませ、苦しそうにふるふると肩が震わせていた。
「は、は、はるなちゃん。かわいすぎ」
突然そう言われて、榛名はえ、と間抜けた声をあげた。ぽかんとする榛名の頭を乱雑に撫で回す。
「初々しいねぇ、何だか俺が失った輝きを持っている気がする。眩しい」
「……影虎は、充分、眩しいと思うけれど」
黄金になびく髪や華美な雰囲気が、特に。
「そういうんじゃなくって……ああかわいい。これは碧が保護してやる気になるのも分かるなぁ。純粋だねぇ、榛名ちゃん」
どの辺りが、だろう。真剣に考え込む榛名に、尚更影虎は笑みを噛み締めた。
「普通さぁ、まあ俺たちが付き合う人種の話だけれどもね、女は男に守られて当たり前なの。それに対して感謝なんかしない。ついでに美味しいとか素直に口にしたりしない」
「そういうものなの?」榛名は首を傾げた。「でも何かをしてもらったら、お礼を言うのは当たり前じゃないかな……」
「そりゃ命を助けられるくらいのことされたらお礼は言うだろうけど、気持ちの問題っていうの? 女性ってのは、男に庇護されてなんぼというか、女性を守ることそのものが男の甲斐性でもあるから、当然のことだと思ってるんだよ。美味しいとか言わないのは、感情をそのまま見せちゃうのは恥ずかしいって思われてるからだね」
榛名はつい声量を上げた。
「わ、わたし恥ずかしいことしてた?」
「いや、それはあくまで宮での話だよ。こういう街じゃそういう感覚はないから。碧が事情があって面倒見てるとかいうから、それなりに偉いさんの子なのかと思ってた」
「あ、ううん。そういうんじゃないの」
「うん。それは見てて分かった」
影虎は苦笑いした。
「俺としては助かったけどね。街をぶらぶらなんて、御家方の子なんか絶対無理だし。出来たとしても不満たらたら不機嫌丸出しだっただろうから、そんなんは流石に面倒……」
「……ごけ、かた。って?」
榛名は尋ねるように目をくるくるさせた。
「あーそっか、違う国から来たんだったよね? この国は王政で、現在の王は翠王ってのは分かるよね。その下の席が宰相で、更に下が尚になる。これは今は空席なんだけど、左尚、右尚って二つあって、左は軍務総括。右は御家方の統括。御家方っていうのは頭のかったーい、お偉方の歴々のこと。貴族とか有名な文官とかなんだけど、ま、頑固なじーさまがたで覚えておけばいいよ。で、その下にそれぞれ官がいるわけだね」
「尚が空席なのは何で? 国で三番目ってことは、大事な地位なんだよね」
「適した人間がいないってのもあるけど、宰相と御家方の発言力がでかすぎるからかな。御家方からしたら、尚って小うるさい存在なわけよ。宰相と御家方はべったりだし邪魔なだけなの。ま、逆に王にとっても益があるんだけど」
「……へえ……知らなかった」
だから、なのだろうか。暗殺が容易く行われたのは。胸がずきりと痛む。
「ちなみに、官に女性は志願出来ないんだよ。知ってた?」
「なれないの?」
「いや、なれるよ。自分から志願は出来ないってだけ。官になりたい女の人はね、女官として下働きして、実績を認められた上で推挙を受けるんだ。例えば、後宮の警備をやっている女性はよく武官になるね。それと一緒で、未だにこの国で女王は固く禁止されている。元々は官もどんな方法であれ、下位の女官にしかなれなかったんだよ」
榛名は声を低めた。
「……女の人は、大変なんだね。男の人ならすぐになれるものに、遠回りしないとなれないんだ」
「そういうこと。女性が権力を持つことが、この国ではあまりいいこととされてないんだよね」
「理不尽だね」
「うん。歴史的背景があってのことだけど、女性からしたら理不尽以外の何者でもない制度だよ。でもね、見て分かると思うけれど、宮殿の外に一歩出たら、そういう固執も大分消えてきているんだ。女だからって見下されたり、地位を得られないってことは随分減ってきた。時代も徐々に変わってきているってこと」
「……そっか、人が時代を動かすんだね。……凄い」
榛名は感嘆を漏らした。時代の変革。その一端に、今まさに寄り添っているのだ。
そもそも榛名は惟の詳しい内情を一切知らない。単純に知的好奇心の面でも、驚きが沢山あった。目を皿のようにしている榛名を見て、影虎は面白がって喉を鳴らした。
「榛名ちゃんって、どこから来たの? 今や大国になった惟の国について何も知らない、ってのは結構珍しいと思うんだけれどねぇ」
「……あ、えっと」
言い訳が咄嗟に思いつかない。まごつく榛名を影虎はまじまじと観察していて、余計に汗が吹き出た。
本当のことを言うかどうか迷ったが、決めるのは碧だ。勝手なことは出来ない。
だが探るように見つめられる中でうまく誤魔化せるやり方も思い浮かばず、榛名は潔く頭を小さく下げた。
「秘密。ね」
まさかそう来るとは思わなかったのか、影虎は少し目尻を緩める。
「えぇ? ずるいな」
「お願い」
手を合わせて再びお辞儀すると、
「……仕方ないなぁ」
屈託なく、彼は笑った。何の抵抗もなくまっさらな笑顔をさらけ出す。
「分かった。いいよ、のったげる。でもその代わり、もうちょっと付き合ってくれません? お嬢さん」
「うん? うん、いいよ。でもどこに?」
悪戯っぽく影虎は囁いた。
「イイトコ、だよ」
次第に空は茜色を濃くしていった。足元の影が伸びるにつれ、昼間は盛んな市も、ゆったりとした空気に包まれていく。一部の店は看板を畳み始め、大人たちの間をかすめるように子供たちの家路につく賑やかな声で溢れた。
追いかける背も、徐々に深い橙が差してきた。日が長い季節とはいえ、この様子では日暮れまでに帰りつけるかどうか、怪しいところだ。
「影虎」
「うん?」
「いつになったら着くの?」
「もうちょっと、だよ」
声に笑みが混じる。既に賀来通りを過ぎ、市は見当たらなくなっていた。人通りもおのず減ってくる。
不安に視線を配っていると、影虎は不意に問いかけてきた。
「ねえ榛名ちゃん。榛名ちゃんは夕暮れ時って好き?」
「突然だね。うーん……うん、好きかな。綺麗だし。特別夕暮れだから好きっていうわけじゃなくて、空が好きなの。高くて、澄んでて、」
――いつだって、置いていかれそうで。
その言葉は留まって、出てくることがなかった。榛名は一瞬、心が乖離していくのを感じた。うつろな抜け殻になったようで、体が勝手に動いている感覚がする。
影虎はそれに気がつかなかったのか、声を上げて笑った。
「うん、俺も空はどんなのでも好きだなぁ。気が晴れるし、元気出てくるし。でもやっぱり一番は夕暮れだね。逢魔が時なんていうけど、こうしてると誰が誰だかわからないでしょ?」
低く、影虎の喉が鳴る。
世界を染め変えていく赤は、溺れそうなほどに鮮やかだった。
誰そ彼は彼の顔を押し潰していく。黄丹に掻き消され、個は個でなくなり、融和し、消えていく。輪郭は揺らぎ、感情も消し潰して、命は全て一緒くたに返っていく。
「……疲れると思わない? 自分や他人を見分けて、判別して、区分けして必死になって。こんな血みたいな赤の中にいたら、きっとさぁ。自分が誰だとか、他人が誰なのかとか、気にならないよね」
自分は誰なのか。
何者なのか。
君は、あなたは、誰なのか。
――そんなことを。
榛名が我知らず伸ばした手は、影虎の右手に触れた。意図せず動いた指先に榛名自身驚いて、慌てて引っ込めたが、影虎は普段と全く変わりない飄々とした面持ちで振り返った。
「ん? どうしたの」
緩く微笑む顔は優しげで、先ほど感じた違和感は嘘のようだった。心配げにじっと見つめる榛名の頭をぽんぽんと叩く。
「ごめんごめん。心配しないで。なんもないよ?」
「……でも」
躊躇いで言葉を噛む。あの一瞬、影虎があまりに痛ましく思えた。それが棘のように胸に引っかかっていて抜けない。だが影虎は榛名を遮るように、ぐいぐいと引っ張った。
「さ、瑣末なことはいいからいいから。行きましょう」
気にはなったが、榛名は強引さに身を委ねた。気がつけば大きな店もなくなり、民家が立ち並びはじめ、喧騒からはだんだん離れていった。慣れていない榛名には、ここがどこなのか全く分からない。徐々に民家には明かりが灯され、玄関先では開かれていた窓を閉める人々の姿があった。それきり家に入ってしまうので、先ほどまでの賑やかさが打って変わって、些細な足音までもよく通る。
こうしてあてもなく歩いていると、迷子になった心地がした。――どの家も、榛名には入れない場所だ。
大通りをそれて小道に入り、ここまで来ると道も完璧には舗装されておらず、幅も狭くなってきた。人通りも殆どない。本格的に行き先に不安を覚え始めた頃、やっと声がかかった。
「榛名ちゃん、ついたよ?」
榛名は素っ頓狂な声を上げた。
「ここ?」
民家の隙間を抜けた先、深い森があった。他の場所は厚く木の壁に覆われていたが、そこだけは偶然間隔が空いたのか、人が歩けるほどの余裕がある。道は急斜面だったが短く、先は小さな崖状になっていて向こうの景色は見えない。
「上っといで」
言葉と同時に手を引き寄せられて、体がくんと弓なりになった。
「わ」
「危ない危ない。ほら、おいで」
安定を崩した体を影虎はもう片方の手で器用に支えた。盛り上がり階段状になった幹に足をかけながら、ようやっとふらつく足を宥めて立ち上がったとき、清涼な風が吹き抜けていって、世界は開けた。
湖だった。
どこまでも広大な、湖。
それはもはや海原とも言える広さだった。これほどまでに巨大な湖なんて見たことがない。息を呑むと、清涼な空気が肺に充満した。
「綺麗……」
「ああ、丁度いい時間についたね」
水面に緑が映える湖には太陽が差し掛かっていた。その境界には揺れる火の玉がたゆたっていて、陽光を受けた水面は静かに唐紅に漣をかえす。血の色をした水は、まさしく命の源だ。ここから全て生まれ、そして還っていく。
「ここは首都で暮らす人間の水の供給源なんだ。向こうの山、見える? あそこの山水なの。ここ、ぐるっと森に囲まれてるでしょ。もっと近づくには森を越えなきゃいけないんだけど、環境維持のためにあんまり人は入れないんだよね。ここは唯一、木の隙間から湖を見渡せる場所なの」
榛名は崖下を見たが、そこは再び急勾配に下っていて鬱蒼と木々が生い茂っている。到底降りられそうになかった。
「珍しいでしょ。近所のがきどもの間では有名なんだよ」
「みんなの秘密の場所なんだね」
「榛名ちゃんにもあった? そういうの」
「わたし? ……どうだったかなぁ」
小さな頃の記憶は、あまりない。どれ程探っても、靄がかかったような断片的な思い出しか残されていないのだ。親に言わせると、のんびりした子供だったそうだから、そのせいなのかもしれない。
「影虎は? 秘密の基地ってあった?」
「色々あったよ。子供が遊ぶには息が詰まる場所だからね、あそこ。遊びまわった記憶ばっか残ってるかも」
「……ね。なんでここにつれてきてくれたの? 影虎」
榛名が問いかけると、影虎は空を仰いだ。
「ん? んー……そうだなー、俺さ、むかむかしたりするとここによく来るんだよね。あんまり広すぎて悩みも馬鹿馬鹿しくなるっていうか。だから榛名ちゃんもすっきりするかなーと思って」
榛名はそれを聞いて声を出して笑った。
「やっぱり、世話焼きだ。影虎」
「榛名ちゃんみたいに可愛い子はとくべつなの」
「あはは。お世辞もうまい」
視線を戻せば、日は滲んで、あと数刻で暗闇になるところだった。
影虎と見た湖は、碧と麓鳴を見晴るかしたときとは違う感覚だった。懊悩もなく、ただ素直に綺麗だと思える。
徐々に群青に変わっていく湖面を見ながら、榛名は以前の自分のことを考えていた。
――昔の世界でこの景色を見たとしたら、同じように綺麗だと心から感嘆しただろうか。もっと薄っぺらな綺麗で終わってしまっていた気がする。明日になれば忘れてしまうような。
「碧も一緒に見たら何て言ったかな」
榛名が笑って言うと、影虎は辟易したように手を振った。
「ぜーったい、遠いだのただの湖だの何だのうるさい。だから連れてこないの」
「そんなこと言って、影虎。碧のこと結構好きだよね」
からかうと、影虎は案外真面目な顔をした。
「……好きっていうか、心配かな。碧っていつも真っ直ぐでさ。ま、ただの傲慢野郎なんだけど、自分の決めたことは絶対譲らないし曲げないんだよね。でもさー、あれで結構苦労人だから、碧がいつか前に進めなくなるとしたら、助けも求めずに限界まで頑張って、ある日ぽっきり真ん中から折れちゃうんだろうなーって。それこそ修復不可能なくらいに。何というか、ほんと。……放っておけないよ」
意外なほど、その声は親身だった。つい数刻前にはひどく罵りあい、大喧嘩をして決闘まで至った間柄とは思えない。
(……でも、最初からそうだった、影虎は。いつも碧を気遣っている)
どうあっても合わない相手なら、最初から顔をつきあわせることもないだろう。口では散々なことを言うが、本心では放っておけない――影虎は碧の頑固さを、碧は影虎の奔放さを嫌っていても、憎みあってはいないのだから。多分、二人は根っこでよく似ている。
「従兄弟っていうより、兄弟みたいだね。碧と影虎って」
そう言うと影虎は一挙に破顔し、大笑いした。
「あはははっ!! きょ、兄弟?! 碧と俺が? おっもしろ、初めて言われたそんなこと」
「……そ、そう? でも仲良さそうだし」
「いや。絶対ない、兄弟とか。俺と碧ってぜんっぜん似てないし、あれくらいの喧嘩はしょっちゅうだし、そんなこと言った人今までいないよ。榛名ちゃん、ほんっと面白い……あの気難しい碧が守ってあげたくなるのも分かるわ」
「え? 何が……」
「うん、だってねぇ、あんな碧見たの久しぶりですよ俺でも」
あんな、とはどんなだろうか。
榛名が分かりやすく訝しげな顔をしているので、影虎は子供に教えるようにして、指を指揮棒代わりに滑らかに振るった。
「んーと、そうだねー。碧はさ、結構冷たい人間なんだよね。毒舌で傲慢なのは見ての通りだけど、それだけじゃなくて、相手が女子供とか関係なく、自分の大事なもののためならどれだけでも酷薄になれる人種なんだよ。自分の大切なものに危険が及ぶなら躊躇なく人を蹴り飛ばせる、っていう」
「……」
榛名は沈黙して俯いた。
確かに碧は、時折ひどく冷酷だった。刺客が襲ってきたとき、碧は躊躇なく相手を殺そうとした。それは自分の身の安全のためというより、自分の矜持を傷つけられたからだろう。何故なのかは分からないが、碧は『翠王』の一言に誇りを貶められ、怒り猛ったのだ。
あの碧を、怖いと思った。どんな理由でも人を殺すことを止むなしとする碧を。
「例えばね、碧が街に出てきたのも、実は滅多にないことなんだよ。あんな性格だから、人目につくのが好きじゃないみたいだし。他にも色々理由があるんだけど、一番の理由は、あの檻から離れるのが大嫌いだから」
小さく指を向けた先には、赤と黒の漆で塗りこめられた宮殿があった。
「それを榛名ちゃんのために融通した、っていうのは結構俺には驚きだったの。久しぶりに会ったって言ったでしょ」
「でも」榛名は唇を噛んだ。「……何で、そこまでしてくれたんだろう……」
榛名にはよく分からなかった。碧にとって、榛名は微妙な存在のはずだ。未来から来たと言う珍奇な少女。けれど、碧に有用な未来をもたらすわけでもない。どう扱うべきか、測りかねているのは実感として身に染みていた。
それが本当に信条を曲げるほどの価値を持つのだろうか。碧が自分の信念に強く生きているのは、僅かしか一緒に過ごしていない榛名でさえ充分に分かっているくらいなのに。
「碧じゃないから分かんないけどね。少なからず榛名ちゃんは碧にとって、特別なんだと思うよ」
「……それは、多分」
違う。少なくとも、影虎の言うような意味ではない。彼は何故碧が榛名を保護しているのか知らないのだ。だから――。
湖面を滑る風は、緩い。胸まで伸ばした長い榛名の髪を、掬い上げていった。
何故碧が榛名を庇護しようと決めたのかといえば、初めは多分同情だったのだと思う。子供のように泣く榛名に手を焼いたのかもしれないし、勘違いで襲ってしまった罪悪感もあったのかもしれない。だが、今は意味が変わってきてしまった。碧と榛名の関係が変化していくのと同じく、気持ちもまた動き始めたのだ。
怖いことに変わりはない。碧の酷薄な目を思い出せば未だに恐怖がぶり返す。けれど、出来うる限り優しく接しようと努力している姿も知っている。こういう関係は、一体何と呼ぶのだろうか。
「……ごめん。悩ませちゃった?」
影虎が体を寄せて覗き込んできた。碧より僅かに深い、紫がかった色の瞳をしていた。
「気にしないで。俺が興味深いってだけだから。……余計なこと言っちゃったね」
「ううん」
影虎はしばし思案顔でいたが、突然明るい声で問いかけてきた。
「あのね、榛名ちゃん。さっき見た絨毯覚えてる?」
榛名がこくりと頷くと、にっこり笑った。
「あれは手織りなんだ。織りをするとこ、見たことある?」
「見たことない……」
「うんとね。予想よりずっとあれ、手間がかかるんだよ。出来上がるまで数ヶ月はかかる。織り機に経糸をかけて、そこから指で緯糸を織りいれて模様を作っていくんだ。あれは経糸の色は見えなくなるくらい詰めるっていう技法で織られてんの」
榛名がきょとんとしているのを見て、影虎は微笑んだ。
「俺さ、あれをずっと使っているのは、人生の縮図みたいに見えるからなんだよね。あ、柄のことじゃなくて。――経糸が自分なら、緯糸は出会った人。人に出会うたび模様は変わっていって、でもどう完成するのかは分からないし、自分のことは最後までよく分からないまま。でも自分がいて初めて絵は完成する。でしょ」
影虎の明るい表情は、いつの間にか諭すように穏やかに変化していた。真摯な眼差しは包むようで、優しく手を取られ、じんと胸が熱くなった。
「この世に偶然はないんだ。みんなあるべくして出逢って、時を重ね合わせて生きていく。運命の糸を交差させて。この世にあるのは、必然だけだから」
あの美しい織物のように、一人一人、道を繋ぎ合わせて紡いでいく。
「だからね。きっと、榛名ちゃんが碧と出会えたことも、俺とこうしてここにいることにも、意味があるんだよ。今はそれが分からなくても」
手に力がこもるのが伝わった。影虎は、ね、と鈴が鳴るような声で笑う。
――碧と出会い、影虎と出会い。これからどんな柄が織り込まれていくのか、榛名には見当もつかない。けれど、きっと出来上がった図面には彼らの色が確かに刻まれているだろう。
「……だったら、いいな」
自分ひとりならば、弱い一本の糸かもしれない。風にも耐えぬ、儚い存在。
けれど、一人ではない。振り返ればきっと刻まれている。清も濁も全て、この碧とともに。
視線を交わした影虎は、今までにないくらい温和な笑顔で応えた。