第二章・誰そ彼(7)
帰路に着く頃には、日はとうに暮れていた。空は天幕を下ろしたようにすべらかな漆黒をしていて、浮かぶ半月がごく僅かの光を地上に注ぐ。それでも道は民家の明かりに照らされ、足元に問題はなかった。
民家はそれぞれ榛名の時代とは違った形をしている。中でも一番異なっているのは窓だった。普通の硝子窓はひとつとしてなく、どれも意匠を凝らした枠が嵌め込まれている。花のような形、升目を組み合わせたもの。白塗りの壁にそれらはよく映えた。合わせて手摺りも嵌め込みの柄が入っているところもあり、目にも華々しい。
よく見ると玄関口には治水の溝が掘られていて、王の賢政の爪痕が感じられた。若年にしてこの大国を導くだけあり、麓鳴はよく整備されている。
家から漏れ聞こえる声で賑やかな帰り道は、遠くから虫の音も入り混じり、自然とゆったりした心持ちになる。榛名はほうと吐息を落とした。
「遅くなっちゃったねぇ」
「遅れついでに、蛍が見られたらよかったんだけどね。今の季節なら近くの小川に蛍が出るんだよ」
「そうなの? わたし、蛍って見たことない」
「それは珍しい。……ああ、宮殿の裏庭にも川があって、そこでも蛍が見られるよ。今度連れて行ってあげる」
途中大通りに戻り、影虎の店に寄った。他は既に店を閉めていて、屋台の上に並んでいた商品は片付けられているか、大きな布で覆われていた。人影もなく、却って裏通りよりこちらのほうが静かになっている。路上に放置していた荷物が減っていたが、影虎が言うに、同じ路上の売り子仲間が片付けておいてくれたらしい。確かに減っているのは貰い物や商品ばかりで、貴重品はきちんと残されていた。影虎は風呂敷でまとめられたそれらを背中に担ぎ、静かな大通りを行った。
程なく宮殿の入り口である長い石段に到着した。碧と下りてきた階段だ。
そこを影虎が躊躇なく上り始めたので、榛名は慌てて尋ねた。
「影虎、大丈夫?」
「え? 何が?」
「何がって」
彼は今、出奔中のはずである。首都で暮らすばかりでなく宮殿にこう易々と舞い戻っていいのだろうか。
「ああそっか。へーきへーき、言ったでしょ? 俺は無視されてるって」
「本当に?」
「ほんとに」
影虎は迷いなく答えたが、それでも榛名は半信半疑だった。仮にも王族が、目の前に現れても見逃されるのだろうか。
大人しく後をついていき、鳥居までたどり着いた榛名は、そこに立つ番兵の姿を発見した。長槍を抱えた、その切っ先の鋭さに冷水を浴びせかけられたように体が冷えていく。考えてみれば当たり前の話で、大門に警備がいないはずがないのだ。碧と来た時は気付かなかったが、横には小さな詰所もあった。これは非常にまずい。
しかし、狼狽する榛名を置いて、影虎は番兵の前を顔色一つ変えず通り過ぎた。
兵も視線だけはこちらを追いかけていたが、黙して追いかけるどころか声さえかけてこない。ともにいる榛名にも誰何一つなかった。
榛名は呆然としていた。どうなっているのだろう。まさか本当に一切を無視する気なのだろうか。
誰かに見咎められそうで、影虎の背中に身を隠しながらひょこひょことついていく。榛名の気を知らず、影虎は豪快で、碧のように人目を気にして進むこともなく、どころか丁寧に手入れされた庭をずかずか踏み荒らして進んだ。
「いっいいの?!」
「こっちのほうがいいでしょ? 他に庭歩いてる奴なんていないし見つからないから」
「でも回廊から見えない?」
「ないない。あっちは灯があるけどこっちは暗いから、見えたとしても人影程度で誰かまでは判別できないよ」
「……ほんと?」
疑わしげな声を上げると、突然影虎は立ち止まった。
「言ってる間に榛名ちゃん、ついたけど」
「え、あっ、もう?!」
うっかり声を張り上げた。
「うん。碧の部屋って入り口から近いから。えぇと、そこの渡殿見える? あの渡殿を通ればすぐ左にあるのが碧の部屋だからね。こっから入って、先にある黒い蝶の格子扉を開けてって」
「分かった。……あの、影虎」
呼びかけると、彼はん?、と首を傾げた。緊張で唸る心臓を抑えて、榛名は深々とお辞儀した。
「本当に、今日はありがとう。すごく楽しかった」
「いえいえ、どーいたしまして。うるさい碧にもいちおー、ヨロシク」
「それを言うと怒ると思う」
「うん。知ってる」
けらけら笑って、榛名の頭にぽん、と手を置いた。
「またね」
包むような大きな手が離れていって、頭を上げる。榛名は笑って手を振った。影はすぐに闇に溶けて、見えなくなってしまう。手を下ろすと、名残を握り締めて、榛名は踵を返した。
*
榛名は階段を上がって渡殿のあるほうへ曲がった。惟の宮殿は、道といえばその殆どが吹放ちの回廊で、風がよく通るようになっている。透渡殿といって、屋根はあれど壁がないのだ。
数歩歩けば、すぐに影虎に教えられた格子の扉が目に入った。黒格子に蝶をかたどった飾りがついている。格子の向こうは紅の布が貼り付けられていて、向こう側は見えない。
榛名は格子に額を寄せた。ぶつかると、ひんやりした金属の温度が伝わった。
何故か心が晴れない。碧のことが頭を過ぎると、心がぎゅっと潰れた。
残酷な一面を持つことを、榛名は最初から知っていたはずだ。出会いからして生易しいものではなかったのだから、今更こうも思い悩むなんて自分でも意味が分からない。
多分、榛名は怖いのだ――碧の気持ちがまるで水面の月のように掴めないことが。
瞑目して押し寄せる感情に耐えていると、
『言え。次はちゃんと』
声が、聞こえた気がした。
面をあげ、耳を澄ます。それはただの幻聴だった。けれど、確かに聞こえた。
(……そうだった。碧はちゃんと言葉にしろって言ったんだ……)
思い悩むのは、どこまでも自分の内にこもることだ。深く潜っていくのは簡単だが、そうしているうちに単純なことさえ見えなくなる。聞かなければ、始まらない。
面を上げ、夜闇に浮かぶ扉を見据える。
碧がどういう人間か、決めるのは誰かじゃない。榛名だ。信じるかどうか、決めるのは榛名の心一つでいい。
少し笑みをこぼした。まさか王族と関わることになるとは思わなかった。王の秘密を抱いている以上、これ以上関わることはすなわち危険に身を投じることだ。
(……でも)
榛名は扉に手をかけた。
(これも必然なんだよね。影虎)
糸が織り成す、未来。今は分からなくても、きっと惟にやって来た、碧に出会えた意味がある。
そして榛名は、一歩踏み出した。
「わぷっ」
意気込みそのままに榛名は黒い布に衝突した。
ぶつけた鼻の痛みに驚くと同時に誰かにぶつかったことに気付き、途端に恥ずかしくなって、紅潮しながら喘ぐ。
「あ、あのっごめんなさ……」
指の隙間から覗いた、睥睨する青藍の瞳にさあっと青ざめた。
目前に立っているのは、不機嫌そうに柳眉を歪めている碧だった。
「……何をしているんだ」
低く唸る声にぴゃっと縮こまる。
「ご、ごめんなさ……」
上背のある彼に至近距離で見下ろされると、迫力が倍増する。怯える榛名に、碧は表情を緩めた。腰に手を当てて首を傾げる。
「……遅かったな」
「え? あ、うん、あの……街の外まで影虎が連れて行ってくれて」
一気に眉間の皺が深くなったので、慌てて榛名は頭を下げた。
「ごめんなさい! 遅くなって!」
けれど碧の怒りはそこになかったようで、少し間を空けて問いかけてきた。
「……あいつに何か余計なことを言われなかったか」
「え?」榛名は言伝を思い出して、「あ。うるさい碧によろしく、って言ってた」
聞いた瞬間思い切り舌打ちしたので、とりあえず影虎の予想は当たっていた、と心の中で得心した。
大きく息をつくと、碧は苦々しげに顔を歪めた。
「先に言っておくが、あいつの言うことは信用するなよ」
「え? 何で? ちょっとだけだったけど、わたしは影虎のこといい人だと思うよ」
「いい加減な人の間違いだろう!」
碧が憤慨するので、榛名は思わず笑ってしまった。確かにあのへらへらとしているところはいい加減かもしれない。
無邪気に笑う榛名に、しかめっ面をしていた碧も眉尻を下げて苦笑した。
「榛名」
「ん?」
「……悪かった。急なことで先に帰ることになった」
ああ、と榛名は頷いた。言われて初めて思い出した――そういえば彼は榛名を置いていってしまったのだった。最初は心細かったが、話しているうちに忘れてしまっていた。
「ううん、全然。影虎と一緒に回るのも楽しかったよ。色んな人とお話できて。碧のほうは、お仕事大丈夫だった?」
碧は一瞬身構えたように固い表情になった。
「ああ。……一応」
曖昧に言葉を濁す。心配げな視線に気付いて、僅かに唇を歪めた。
碧の今立っている場所は反渡殿になっていて、床は半月のように柔らかな弧を描いて歪曲している。勾欄に腰を預けると、碧は視線で榛名を促した。戸惑いながらも目の前に立つと、真面目な顔で言った。
「……話をする、と言ったな。先に言っておくが全ては話せない」
「うん。分かってる」
姿勢を正して榛名は頷いた。
躊躇ない答えに、碧は視線を落として、迷いで揺れるように目を細めた。絡めた指先が何度かぎゅっと握り締められる。
「榛名。……この瞳の理由を、お前は知らないだろう」
急な展開に榛名は目を丸くしたが、たどたどしく首肯した。碧はちらりとこちらを一瞥すると、灰を掻き出すような苦しげな声で続けた。
「この色は碧という。お前は知らないだろうが、この色は特別なんだ」
「特別?」
「今日、影虎以外に街で同じ色の人間を見たか?」
榛名は首を振った。この国の人々の多くは榛名と同じ茶色の瞳をしていた。もしくは黒、たまに緑や水色もいたけれど、碧のような鮮やかな瑠璃――それも光を浴びて僅かに転じる、これほどに美しい色をしていた人はいなかった。
「……恐らく町の人間も何が碧色なのか、詳しくは知らない。至上の色、夜空を統べる色としか。それに目の色というのは注視しない限りそうはっきりとは見えないものだしな」
影虎がああやって王族らしからぬ行動をしているせいもあるが、と苦笑いで呟いた。
話が見えない。怪訝に眉を顰めながら、何となく嫌な予感がした。
「この色は単なる青ではなく、この国だけの色――碧。王族の、それも王位継承権を持つものだけに現れる瞳だ」
「え?」
「もっと言えば、この瞳が現れたものなら、誰でも王になる資格があるんだ。例え出自が孤児だろうが浮浪者だろうが、碧を持つ人間は王になれる。相当たる血統のものにしか現れないとは聞くが」
「……それ、は」
一体、どういう。
意味。
断片的な言葉だけが頭の中にぐるぐると回る。
王位継承――碧――それは、つまり。
王の色を名に戴く彼を、榛名は見上げた。
「あなたは」
涙がこみ上げて声が震える。
「あなたは……」
碧は、悲しげに榛名をじっと見つめていた。
その瞳を見た瞬間、榛名は奔流のように感情が押し寄せてくるのを感じた。ぞくりと肌が粟立つ。
どうして。――これが運命だと、そう言うのだろうか。
倒れこみそうになるのを必死で堪える。がんがんと鳴る頭の中、冷静を保とうとする自分がはっきりと告げた。最終通告のように。
彼は、王だ。裏切りを抱え孤独のうちに死ぬ、この国最後の、比類なき唯一の王。
「碧は、王……」
引き絞られるような囁きは、碧の耳にも届いたようだった。
「榛名?」
疑問符を浮かべて覗き込む、榛名の顔色は真っ白で、体は小刻みに震えていた。碧は少し焦って、その手を取った。
「どうした。ひどい顔をしているぞ」
卒倒しそうな体を支える、触れた手が温かい。けれど震えはおさまらなかった。
温かい。確かに今、榛名は碧と触れ合っている。けれど、この温もりはいなくなる。一年という僅かな時間で、彼は。
榛名は力強く碧の腕を掴み取った。
「……碧、は、翠王?」
突然のことに碧は瞠目したが、あまりに必死な様相に気圧されたのか、かえって落ち着いた様子でゆっくりと息を吐いた。
「違う」
「……え……」
「確かに俺は王位継承権を持っているが、王ではない。翠王は俺の兄の翠だ。王の号が翠なのだから、俺が王であることはあり得ないだろう? 俺が王ならば号は碧になる」
「だって、碧って名前は」
「嫌味だろうな。誰が名付けたかは知らないが、思いつく限り最大限の揶揄だ。俺の母は妾妃でな、碧の瞳を持ってはいるが生まれたときより王の器ではない。前王の直系とはいえ、敵国の血が混じっているのだから。王になれぬ身で王の名を持つなぞ、嫌味でしかあるまい」
碧の瞳は氷のように鋭さを増した。彼にとってあまり両親の思い出は好ましくないものらしい。
けれど、それでは――碧は違うのだ。王ではない。
力が抜けて胸を撫で下ろしたとき、碧はふいに目元を和らげた。
「……兄上は俺とは腹違いの兄弟にあたる。僅か十歳で即位した。しかし国は立派に運び、今や稀代の明主と誉れ高い。俺と齢は同じだが、比べようがないほど立派な方なんだ」
うっすらと口の端に微笑が浮かんでいるのを見て、榛名の胸は槍で突かれたように痛んだ。
そうだ。碧ではなかったにせよ、王が碧にとって大切な兄であることには変わらない。
たった一人の兄弟である兄のことを語る碧はとても楽しそうで、どれだけ慕っているのか、よく分かる。恐らく国の未来を案じているのも、宮の中心に座する兄のことを思うがゆえなのだろう。その彼を、碧は遠からず失うのだ。
悲嘆を滲ませ唇を噛んだ榛名は、にわかに思い出した。
「……待って。じゃあ影虎は」
そう。影虎もまた、碧の瞳を――王位継承権を持っている。
碧は平然と答えた。
「あれは先王の弟にあたる宰相の息子だ。号は寧の宰相という」
――そんな、と声ならぬ声で榛名は呻いた。
それならば、将来碧と影虎は決定的に道を分かたれることになるのだ。
だが碧も影虎も、恐らく恨みを抱いたとしても捨てられない――影虎が碧を心配するように、碧も影虎を心配している、その絆を。
何て、残酷な。
碧がそっと榛名の体を起こす。視線の先には何にも惑わされない、真っ直ぐな碧の瞳があった。
「――分かっただろう。これで」
「え……?」
「俺はお前が碧の瞳のことを知らないのならば、そのままであることを望んだ。王位になくとも安全とは言えない身だからな。だがお前を無知に追いやったのも事実だ」
「それは……」
「そして先にも言ったな。俺は今でも全てを話す気はない」
「……」
榛名は沈黙した。確かに碧は、全てを隠していた。けれど。
「それは……碧を責めることじゃない」
碧が全てを話していないことは分かった。恐らく碧には碧の思惑があって隠していたのだろう。影虎の言う通り、碧には冷酷な一面がある。完全な善意だけで榛名を助けたわけではないし、榛名のためだけに行動しているわけではない。
けれど今まで接してきて、榛名は碧がそれだけではないことを知っている。誰より強い信念と不器用な優しさが、包むように柔らかく与えられてきた。その碧を、信じたい。
「いいよ。全部話してほしいなんて思わない。わたしは、碧を信じてるから」
榛名は彼の瞳を真っ直ぐ見据えた。深い深い、海のような碧。王の色だ。
碧は驚いたような顔をしたが、ふいに笑った。
「……榛名」
呼ぶ声は、少し甘く掠れた。
すっと腰を折ると、碧は榛名の前にまるで騎士のように膝をついた。突然のことに榛名が目を丸くしていると、碧は凛然として言った。
「お前に、翠の力の加護があるように」
青白く浮かび上がる碧の顔は、いつになく美しい。
腕を取られ、通されたのはあのブレスレットだった。息を呑んで問いかける。
「これ、どうして」
「余計なことは聞くなよ」
機先を制されて、榛名はぐっと言葉を留めた。
手を掲げて、そのブレスレットを見つめる。きらきら光る青い連なりに黒い蝶がついていて、間違いなく影虎の売っていたものだった。
「……びっくりした」
「何が」
「色々。碧、急にどこかのナイトみたいに座るし」
碧は言葉の意味が分からなかったようで、難しい顔をした。
「惟だとこうやって片膝をついて頭を下げるのは、丁寧な礼を取るとき、一般的な動作だ。多くは男がやるものだが」
「わたしの国では、そういうことすると、ちょっと恥ずかしいというか……」
現代で見かけるなんて求婚のときくらいのものだと思ったものの、口にはしなかった。恐らくそう言ったら、碧は機嫌を損ねるだろう。
「ねえ、翠の力って何? 加護だって言ってたよね」
「簡単に言えば、この国を守護すると言われている力だな。守り神のようなものだ。大地に眠り、恒久の繁栄へ国を導くと言われている。……碧の瞳はここから生まれる」
「生まれるって……どういう意味?」
「これは翠の力を受け取る器がある者に現れる色だと言われている。翠の力が印した刻印だと。人は皆翠の力を内に秘めているというから、人より量が多いということなんだろう。とはいえ俺には特に何の能力も備わっていないな。兄上はこの時代では唯一翠の力を判別できる力を持つが」
「影虎にもあるの?」
「ない。歴代から見ても、ある方が珍しい。後々目覚める人間もいるそうだが」
榛名は違和感を感じた。榛名のいた世界では、みんなが不思議な力を内に秘めているなどということはなかったが、過去になればそういった特殊な能力が存在するのだろうか。
考えた途端ずきんと頭が痛んで、咄嗟にこめかみを押さえた。痛みをやり過ごすうち、段々頭がクリアになってきた。――そう、卑弥呼の時代は神の力が信じられていたし、巫女の占が絶対的な力を持った。そういうこともあるのだろう。
「頭が痛いのか?」
榛名は首を振った。
「ううん、大丈夫。もうおさまった。……ねえ碧、これ買うとき影虎にからかわれた?」
碧は思い切り渋面を作った。どうやら心当たりがあるらしい。
「お揃いだったんだよね、これ」
「ああ。そうらしいな。……楽しげに持たされたよ」
差し出す手のひらには、榛名のものより大きなブレスレットが乗っていた。同じように黒い蝶がついていて、玉は深い青をしている。
「男物でも蝶がつくんだね」
「蝶は縁起がいい。この国では青色は翠の力を引き出す印だ。蝶は自らの求める場所を目指して飛ぶという。つまり、この腕輪は願掛けだな。お前が心から望むなら、あるべき場所に導くだろう」
碧が励ますようにそう言うので、榛名はやんわりと笑顔を返した。
心から望むなら、きっといつか。
そのときがいつになるのかさっぱり分からないが、碧の気遣いに温かい風が舞い込んで来る。
「ね。それ、かして」
榛名は碧の手からブレスレットを奪うと、彼の右手を取った。
「何をする」
「……碧の願いが叶うように、私にも祈らせて」
するりと通すと、碧のやったように小さく頭を下げる。
祈りを込めて見上げると、碧の背には紺青の空が広がっていた。空に浮かぶ星は宝石を散りばめたように燦然と輝きを放っている。けれどそのいくつかは、榛名の時代では既に滅んでいるのだ。
きゅっと目を瞑って、迷いを振り切るように榛名は笑った。
「お願い。……わたしはきっといつかいなくなるけど、碧、その時忘れないでいて。わたし、決めたから」
「何を」
怪訝に眉を顰める碧に、榛名ははっきりと告げた。
「わたし、この国で生きていく。色んなことを学んで、惟の人たちみたいに前を向いて生きていく。だから忘れないでいてほしいの。わたしがここにいたこと」
こうべを下げ、ただ成り行きに流され怯えるだけの時間ではなく、この惟で、美しい世界で、根を張って生きていく。それが、たとえ一瞬だとしても。
碧は眉根を解いて、そっと微笑んだ。
「……ああ。覚えておく」
――きっと、覚えている。歴史には決して載らない、この出会いを。
生温い夏の湿度を振り切るように、清涼な風が一陣吹き込んだ。




