第二章・誰そ彼(2)
出立の準備を終えると、碧はついてこいと言っただけで踵を返してしまった。
そっけない背中を榛名は慌てて追いかける。けれどいくら本当の和服とは違い身動きが取りやすいとはいえ、慣れぬ服に足さばきはどうしてもまごついてしまい、少しの間に碧と榛名の距離はみるみる開いてしまった。
しかし、碧はちらとも榛名を振り返らないので、遅れを取っていることにまるで気がついていなかった。
小走りになっているため、息が上がる。榛名と碧はまるで今の心の距離のように、遠すぎず、けれど近いとは言いがたい、そんな間を保っていた。必死で追いかけても、一向に距離は縮まらない。
簡単なこと、一言止まってほしいと頼めばいいのだが、その一言をどうしても言いたくなかった。意地などではなく、これ以上碧に面倒をかけたくなかったのだ。今いるここは全くの異国なのだととっくに分かっていたはずなのに、それでも何故か榛名は先ほどのショックを引きずっていた。
漆塗りの黒い廊下。床板は中央が擦り切れて色が落ち、人々の度重なる歩みを思わせた。廊下はどこまでも続くように思えるほど長い。木目に落ちる濃い影で、今は夏なのだと知る。榛名がいた世界では秋だった。ここは、違う。まるで違う場所だ。歯を食いしばり、自分にその歴然たる事実を飲み込ませる。
ここは榛名の国ではない。惟は、須らく人々の生命で動かされていた。この国は人の手で成り立っている。水が欲しければ手ずから井戸から汲まなくてはならない。町へ出るのにも、車など当然ないのだから自分の足で向かう。そういう場所なのだ。
それならば、今ここで彼についていく、それだけのことも出来ないのなら、これから生き抜いていくことなんてできない――そう思った。
魔窟だと碧は言ったが、本当にそうなのかは分からない。けれど、全く違う環境に放り出されたことは間違いなかった。彼の庇護下にあるからと、いつまでも彼の強さに甘えていては駄目なのだ。それではきっと、自分が駄目になってしまう。
じんじんと胸が痛む。今頃になって途方もない場所に来てしまったことを実感して、家族や友人の顔ばかりが浮かんだ。普段から中々会えなくても、本当の意味で会えなくなるというのは、まるで違う。縁の薄かった家族だが、いつ帰れるのかも分からない身の上になってしまうと、急に掻き毟られるような郷愁に駆られた。
それでも碧が榛名のためにしてくれたことを思うと、暴れだしたくなるような悲嘆を思うままに曝け出すのは躊躇われる。今は碧とのことが、強気を保つ杭になっていた。
走り続けているうち、榛名はとうとう裾につまずいてつんのめってしまった。何とか転げはしなかったものの、派手な音にとうとう碧は振り向いた。
「……何をしているんだ」
「あ、あの。……あんまり慣れてないから、裾を踏んじゃって……」
恐る恐るそう言うと、碧は無言のまま近寄ってきて眼前に立つ。腕組みをしながら見下ろして、不機嫌そうな顔で睨みつけてきた。
「そうなる前に歩く速度を落とせと素直に言えばいいだろうに」
「……え? えぇと」
「言っておくが、俺に察しろとか、気付けだとか、そういう勝手な期待をするなよ。自分のことは自分で言え」
「……ごめんなさい。一生懸命追いつかないといけないと思って」
榛名はしょぼんとして謝罪した。
碧は怪訝そうに眉根を寄せる。
「出来ないことを無理してやれば失敗するだけだろう?」
「それは、確かに」
「それでもそうしたいのは、自分が努力している気になれるからだ。それより精一杯やっても出来ないと判断したら、出来ることをやるのが賢いやり方というものだ。お前にとっても周囲にとっても」
ぐうの音も出ないほど叩き潰されて、榛名は言葉もなく項垂れてしまった。確かに『追いつかなければ今後どうにもならなくなる』というのは榛名の勝手な思い込みだし、それによって無理をしたからこけたのだ。迷惑をかけたくない一心だったが、回りまわって迷惑をかけることになるのなら、結果は変わっていない。どころか悪くなっている。
勢い付いて辛辣な口調になってしまった碧は、榛名が落ち込むのを見て、ようやく言い過ぎたことに気付き、言い聞かせるように声を低めた。
「……悪いことだとは言っていない。効率のいいやり方を覚えろ、と言っている」
「ハイ。ゴメンナサイ」
消え入りそうな声で肯定する榛名に、碧も申し訳なくなったのか、少し表情を和らげた。
「言え。次はちゃんと」
ぶっきらぼうな言い方に、榛名はゆっくり顔を上げる。
目が合うと、碧はすぐに踵を返してまた歩き出してしまった。出遅れた榛名はまたも小走りに追いかける。
「碧!」
呼ぶと碧は振り返ってくれた。いつもと変わらない不機嫌な表情である。けれどそれが温かく思えたのは、きっと嬉しかったからだ。
思わず笑みがこぼれる榛名を見て更に碧は眉根を寄せたが、それでも変わらず、榛名は胸の奥から滲み出る温かい感情のままに笑っていた。
一気に上機嫌になった榛名に碧はため息を落としながら、呆れたように淡く笑った。
「……仕方のない奴だな」
再び歩き出してからは、碧の背中がさっきよりずっと身近に感じた。歩いている、ただそれだけなのに、守られている気がする。そう筋肉質にも見えないのに、やはり背中を見るとがっしりとしていて、ああやっぱり男の人なんだなぁと再確認した。
次第に、宮殿の中でも見慣れた場所に来ていた。榛名が入ったのは出入り口付近のみだったので、そろそろ入り口の大門だろう。しかしその間、やはり人の姿はちらとも見ない。それは誰もこの宮殿にいないというわけではなく、碧がわざとそういう道を選んでいるようだった。どこからか人々の声や、さざめく気配が伝わる。まるで透明人間にでもなったようだった。
今この宮殿内は水面下で、二つに分裂している。翠王につくもの。寧の宰相につくもの。若い王に対する不満や、嫉妬心が与り知らぬところでせめぎあっている。
そういえば碧はどちらなのだろうか。榛名はあまりそのことについて深く考えていなかった自分に気がついた。しかし思い返せば、碧は翠王に忠義をたてている様子だった。時にはやりすぎだと思えるほど必死な様相で王を守ろうとしている。榛名は何となく胸を撫で下ろした。
これから起こる悲劇を思えば、榛名の宰相に対する心象は悪かった。
寧の宰相には子供がいたらしく、彼は次の王をその子に継がせたいと考えていた。しかしはやくに崩御した翠王の父である緑王は王位は我が子に継がせると遺言を残していたのである。我が子と言っても、翠王はまだ当時十歳の子供。大国を治めきれるはずがないと、臣下は絶望した。当然根強い反対があったものの、代わりもないまま王位についた小さな王。臣下が国の未来を憂う中、宰相は歓喜していた。十歳の王となれば傀儡も同じ。治世を振るうのは間違いなく王の次の権力者、宰相だった。けれど多くの予想に反して、翠王は見事宰相に頼ることなくこの国を最盛期まで導いた。
――事件が起きる、そのときまで。
ぼうっとしていたため、榛名は碧が立ち止まったことにも気付かなかった。そのままその広い背にぶつかり、わぷ、と間抜けな声を上げる。
「ご、ごめ」
慌てて謝ろうとしたそのとき、碧はぐいと榛名の腕を引いて碧の目の前に立たせた。榛名は驚きながらも、目の前に広がる光景を眺望する。
「よく見ておけ」
耳元で響く碧の声は凛と澄んで、大気に吸い込まれていった。
「これが、惟だ」
胸のうちに巻き起こった感情を、何と呼べばいいのだろう。胸に穴が開いて、そこを突風が突き抜けて、体中が風に飲み込まれたような感覚だった。
――圧倒。
榛名は眼前の景色に言葉を呑んだ。
今踏みしめるのは、つい昨日見たばかりの鳥居だ。その向こうには石造りの階段が長く果てしなく続いている。制服姿の榛名が、億劫な気持ちで上ってきた場所。本来、その向こうは車通りの少ない田舎の道路のはずだった。
けれど、今この道の向こうに続いていたのは途方もなく大きな街だった。宮殿を中心に扇状に切り開かれ、遠くまで見渡せるその向こうには大きな湖や畑もあり、ビルもなければ電飾もないが、人の活力に溢れてきらきらと青空の下輝いていた。賑々しい空気がここからでも伝わってくる。
大国、惟。その最盛期、首都麓鳴。――この入道雲の下で、命を繋ぐ人々がいる。それは、言葉を失うほどの感情を引き連れて榛名の目の前にやって来た。
国の真秀ろば。その言葉が思い浮かぶ。
――倭は 国の真秀ろば 畳なづく 青垣山隠れる 大和し麗し
まさしく、榛名の見たこの国は真秀ろばだった。
「……綺麗……」
御伽噺の中のように、美しい。
あまりにも鮮やかな空の下、榛名は生きている。惟の国で、榛名は確かに生きている。けれど。
「綺麗過ぎて……眩しいくらい……」
思わず榛名は顔を覆った。今の榛名には辛い光景だった。
自分の住んでいた、小さな町。榛名が生まれる十年ほど前に作られた住宅街で、今は少し寂れた場所。それよりも、圧倒的に麓鳴は美しかった。だが。
胸の中に満ちる気持ちが何なのか、まだ経験の少ない榛名にはうまく整理できなかった。ただ、里心がついたとかそういう単純なことではなかった。ひどく動きのはやい雲は榛名を置いて、どんどん遠くへ流れていってしまう。榛名の心のうちなどお構いなしに、今日は透き通るように晴れやかで美しい空だった。
「……榛名」
碧は弱ったように声をかけた。
「俺は別にお前を意気消沈させたかったわけじゃない。ただ、知っておくべきだと思った。お前は今何も知らない。惟のこと、宮殿のこと、麓鳴という町のこと。何も知らないというのは、ここでは致命的だ」
こくりと頷くのを確認すると、碧は続ける。
「勿論危険な状況から身を守るためにというのは大前提だが、それだけじゃない。お前がここを綺麗だと言ったように、俺もそう思っている。ここに住む人間はお前とは本来、違う時間、違う次元に生きる存在だったんだろうが」
そう言って、俺もだな、と碧は少し落とすように笑った。
そして顔を上げ、真っ直ぐに榛名を見つめて言う。
「それでも、確かにお前はここにいる。……ならば、少しでもお前は世界と繋がるべきだろう?」
「繋がる……?」
「お前な、言っておくが、お前が俺としか関わらないと言うのは不健全な話だということくらい俺だって分かっているぞ。それともここにいる間、俺以外とは関わらずに引きこもっておくつもりか?」
「そ、それはいやだけど。でもあんまりタイミングがよくないんだよね? ……ああ、んーと……丁度良い時期じゃないんだよねってこと」
「だからそのためにも知識を身につけろ、と言っている。要するに怪しまれない立ち居振る舞いが出来るなら多少のことは問題がないんだ」
「……なるほど……」
「友人を作れとまでは言わないが、折角やって来たのならば、ここで生きる時間をどう生きていくか考えたほうがいい」
「……本当に、いいのかな。わたしが、関わって」
榛名は暗澹たる気持ちで呻いた。
「わたしが関わることで、よくない方向に行くこともあるんじゃないかなって……そう、思って。……ここはわたしの世界じゃないから関わりたくないなんて、思ったことないし、出来るならもっと知らない国のことたくさん知ってみたいよ。自分の全然知らない国の話を聞くの、案外好きなんだって自分でも初めて知ったし。けど、――ちょっと、怖い」
本当はちょっとではなかった。すごくすごく、怖かった。
一体何が神様の思惑で、どこまでが神様の領域なのか。そんな途方もないことばかりが頭を過ぎって、そのたびに行き詰って。終わりのない迷路に迷い込んだのと、まさしく同じだった。
だが、碧は予想外に平然として言った。
「お前は馬鹿か?」
唖然とする榛名に、碧は、平然と続けた。
「お前な、占い師でもあるまいに、まさか誰がいつどこでどうやって転んでどの程度の怪我をするか、人生全て細々と知っているわけでもないだろう。それなら定められていたことかどうかなんて分かりようもない。そんなお前のせいかどうかも定かでないような不運を勝手に憂いてどうする。第一、もしお前のせいで何かあったとして、崖から落ちても幸運だったと感じる奴もいれば、道端で金を拾っても不服な奴もいる。お前の物差しで他人の人生を計ってどうする。そんなのは結局当人の考え方次第だろうが」
榛名はぽかんとした。
「……碧って……」
「何だ」
「時々すごく、犀利というか……」
そのものずばりというか、正鵠というか、淡白で冷静な考え方というか。
「……でもちょっと、気が楽になったかも」
榛名が笑うと、碧はまた少し馬鹿にしたような顔をしたので、むっとしてしまった。
ちらりと目をやれば、そこには麓鳴が広がっている。強張った顔を崩して、榛名は微笑んだ。
「うん。でも――やっぱり、綺麗。今ここでこの景色を見ることができて、よかった」
「そうか」
「……じゃあ、元気になったところで。いこっか! れっつごー!」
「は?」
お前の言葉はわけがわからん、と唸る碧を引っ張って、榛名は意気揚々と石段を下り始めた。