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碧の瞳  作者: 古瀬ヒイロ
本編・胡蝶の夢
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第二章・誰そ彼(1)

 結局あれから眠りにつくことになったのは、空がすっきりと明るくなった頃だった。

 碧の部屋は飾り気が少なく、あまり人の生活している匂いがしない。家具も最低限しかなかった。長方形の部屋に、小さな机に椅子が二脚。奥に桐の箪笥が一つ。それと華が描かれた大きな衝立の向こうに寝台が何故か二つ用意されていて、それだけが仲良さそうに並んでいた。

 榛名はてっきり碧はこの部屋から出て行くものかと思っていたが――いくら何でも、二人は男女の間柄なので――そうではなかった。

 まず碧は木製の小さな衝立を持ってきて、それを寝台の間に挟んだ。それと碧一人でも軽々と持ち運べるくらいの小さな箪笥を用意してくれて、榛名の使う寝台の横に設置した。中には当面の洋服や手ぬぐいや細々したものを入れて、その上に榛名の鞄を置いた。

 それがこの惟での、榛名の居場所だった。

 当たり前のように準備されて、榛名は呆然としてしまった。

 勿論ここまでしてくれただけでも十分ありがたい。しかし正直なところ、眠るときくらいは一人になりたかった。あのレポートのこともある。碧がいては見ることができない。それに榛名は女の子で、碧との間に何かあるなどとは思っていないが、着替えなど気を遣う場面もある。

 言い出せないまま思いあぐねているうちに明かりが落とされ、碧は早々と横の寝台で寝入ってしまった。寝息も聞こえないほど静かである。榛名はすっきりしない頭で悶々と考えた。布団を引っ張り、頭まで被る。

 何故――榛名はここにいるのだろう。

 その答えは、たぶんどこを探しても見つからない。箪笥に置いたネックレスを見つめる。水晶が輝き、その瞬間世界が変わった。榛名に分かることはそれだけだった。

(考えないようにしよう。今は、出来ることをするだけ……)

 布団を掴む手のひらに力がこもる。せめて、うじうじと泣かないようにしよう。碧は帰る方法を探す代わりに泣くなと言った。この世界で初めて交わした、小さな、けれど大切な約束。だから、いつか帰るその日まで涙は取っておく。

 そう決意すると、余計に目頭が熱くなった。首を振ってひたすら自分に言い聞かせる。泣くな、泣くな、泣くな――……

 そのうちいつの間にか、榛名は眠りに落ちていた。




*



 この世界に慣れることは、榛名にとって至難の業だった。

 例えば、言葉が通じないことが頻繁にある。着替えの最中ノックもなしに(碧の部屋に扉はないため、当然部屋を仕切っている衝立のことである)入ってきた碧に「プライバシーの侵害」と姦しく叫んだところ、「ふらいはし?」と聞き返された。どうやらカタカナの言葉は意味が通じないらしい。

 お風呂に入ることや朝に顔を洗うこともままならなかった。そういう習慣がないわけではなく、不用意に人目につき怪しまれてはならないからだ。それらは人気のない時間帯にこっそり迅速に行われた。習慣として当たり前に行っていたことが出来なくなるというのは、案外堪えるもので、榛名はかなりストレスを溜めていた。お風呂ひとつもゆっくり入浴するわけにいかず、いつもそこそこに切り上げてしまうので、休まることがなかった。その代わり、お風呂は天然の温泉だった。流れ落ちてくる打たせ湯もあって、最初に見たときは思わず歓声を上げてしまったものだ。

 何より一番辛いのは、事情が事情なので、碧以外と接触することがないことだった。慣れてくれば、碧の嫌味ったらしさや扱いにくい誇り高さも気にならなくなる。しかし、やはり女の子の気苦労は理解できないようで、榛名は毎日鬱屈が溜まっていった。唯一の救いは、碧が四六時中榛名とともにいるわけではないことだった。


 今日も榛名は一人きりだった。

 碧は仕事のため不在である。時折様子を見に戻ってきてはくれるが、することがないのでやはり退屈だ。自分から部屋の掃除だけはかって出たが、それも小さな部屋なので丁寧にやっても三十分もあれば終わってしまう。今日も朝方にとっくに終えて、碧が持ってきてくれた昼食も食べ終わってしまい、暇をもてあましていた。

 椅子に座り、机に体を投げ出して榛名は退屈を生きていた。手の中には、あの水晶がある。透かしてみても何も映らない。勇気を出して机に叩きつけても傷一つつかず、ただ凛然と気高さを保っていた。

「何なのかなこれは」

 水晶は以前よりも確実に輝きを増している。最初は気のせいだと思っていたが、古ぼけてくすんでいた光が、確かに明るくなっているのである。奥底から光が溢れるように、更に更にと輝いている。こぼれる色は泡立つ滝の白だ。

 しかし、何故か榛名の鞄や制服は何の変化も見られない。水晶の見かけが変わったことが時を駆け上ったことに関係しているなら、それらも同じく変化しているはずだ。あの時、榛名の周囲だけが――宮殿だけが、突然新しくなった。榛名に関係するものだけが以前と変わらないのである。それならば、

「これ、もしかして……ここのものだったのかな?」

 翠王時代の調度品だったなら、突然新しくなったことに違和感はない。だがそんなに長い間、水晶が床に放置されていたなんてことがあるのだろうか。

 傾けてきらめかせても、淡い乳色の光明が変化することはなかった。

「あー……もうっ、全然分かんない!」

 やっきになって机に叩きつけていると、

「……それを壊したら帰れないんじゃないのか」

「うあ?」

 水晶が榛名の手元からさっと消えた。突然手の中から失われた水晶を追って体を仰け反らせると、そこにはしかめっ面をした碧が立っていた。

「あっ、碧……」

 思わず顔を引きつらせる榛名に、碧は大仰に溜め息をついた。

「こいつのせいで、こっちに来たかもしれないんだろう。ならば、雑に扱うな。壊れたらどうするんだ」

「……はい」

 正論に榛名は苦笑したが、以前のように落ち込みはしなかった。ここ数日の付き合いの中で、碧の語調の荒さに心を痛めることは少なくなっていた。彼は確かに口が悪いが、心根まで捻じ曲がっているわけではないということが分かってきたからだ。

 何故か碧は他人に対して、全てを敵と見なしているように過剰なほど辛辣に対応する。それは最初に碧とともに出会った人や、ここ数日(榛名は隠れていたが)訪れた数少ない女中たちに対する態度で明らかだった。

 その碧にとって、初めて味方ではないが敵とも言い切れない存在になったのがどうやら榛名のようなのだ。彼女自身もその戸惑いを何度か肌で感じ取った。攻撃的な態度の裏に見え隠れする、本来の性質というものをどれだけ表してよいのか、距離を測りかねている。それに気付いていたが、何も言うことはできなかった。どうやら本人も自覚していないまま態度を使い分けているようなのだ。

「碧、お仕事はどうしたの?」

 微笑みかけると、碧は少し強張ったようなぎこちない顔になる。

「今日ははやく終わらせてきたんだ。……街に出ようかと思って」

「街? そっか、遠くに行くから報告に戻ってきてくれたんだね。わざわざありがとう、行ってらっしゃい」

 榛名が小さく手を振ると、彼は慌てて言い募った。

「そうじゃない。お前も行くんだ」

「え?」

「嫌なのか?」

「……出ても、いいの?」

「たまには、な」

 碧はぶっきらぼうに言った。

 しかし、榛名は即座に返答できずに眉尻を下げた。

 喜べるはずだった。しかし、現時点まで碧は徹底的に榛名の存在を悟られまいとしてきた。未来から来たという不可思議な少女を扱うにおいて、極度に神経質になるのは仕方ないことだったと思う。

 だがそれを急に翻されてしまうと、外に出ることを望んでいたはずなのに榛名は突然怖くなった。もし誰かに見咎められたらどうすればいいのだろう。まだこの世界に対して理解も及んでいないのに、うまく言い逃れできる自信がない。

 碧以外の人と会話できるかもしれない期待と、碧以外の人に見つかって問題になってしまったらという恐怖、二つに挟まれて、暗い表情のまま榛名は俯いた。特にレポートのことがあるので、余計に気は重い。戸惑う榛名を察して、碧は断言した。

「大丈夫だ。宮殿内をうろつくわけではないし、ここ最近宮殿内の情勢も静まり返っている。それに街に出て、お前を知っている人間がいるかもしれない。ここにいては吸収できない情報もあるしな」

「本当に?」

「ああ。……気詰まりだったんだろう」

 碧の一言で、榛名は思わず笑ってしまった。胸の中にじわりと広がり溶け出していく。碧はそれを見て、変な顔をしていた。

「……変な奴だな、お前は」

「碧が考えていることが嬉しかったんだよ」

「はあ?」

「えへへ」

 へらへらと笑う榛名に怪訝な顔をしつつ、碧は自分の箪笥を開けると、一枚服を投げて寄越した。

「ほら、これを着ろ。その服は目立つ」

 広げると、淡い桃色の地に小さな柄が入っている。質素だが、若い少女らしく可愛い色合いだ。だが、榛名はぴたりと止まった。

「あの」

 請うように口を開くと、碧は少し小首を傾げた。

「私一人じゃ、こんな服着れない」

「……は?」

 予想もつかないことを言われたためか、碧は拍子抜けしたようだった。

 寄越された服は、和服だった。というより、『この国の服』なのだ。碧を見る限り、榛名の時代の着物とは随分装いが違っていた。男性の着物の構造はよく分からないのだが、例えばショートブーツ風の編み上げの靴を履いていたり、下も袴に似た服を着ていたり、大分変わった着方をしている。洋装に近い和服、と言えばいいのだろうか。女性用の服は見たことがないが、きっと同じく着方は全く違うのだろう。

 ただでさえ榛名は自分で着付けなどした試しがない。唯一の経験は夏祭りの浴衣くらいだが、これは本当の着物だったので、対応できそうになかった。

 榛名はおずおずと碧に渡された水色のワンピースの裾をついと持ち上げる。

「この服じゃだめ?」

「これは異国の服だ。市には目立つ」

 あっさりと拒否され、榛名はめげてしまった。この国で対面したのは碧とそのおつきの人だけだが、二人とも確かに和服だった。最初に異国の服をくれたのは、奇妙な格好をした少女への碧なりの気遣いだったのだろう。

 碧は顎に手を添え、難しい顔を作った。

「あまりお前を人目に触れさせたくないから侍従にも頼めんしな……どうしたものか」

「……私はそんなに怪しいの?」

「そういう意味ではない、時期がまずいんだ」

 時期、と鸚鵡(おうむ)返しするものの、意味は全く分からない。何故だか自分が責められたようで、榛名は少し落ち込んだ。それに気付いて、碧は逡巡しているのを見て、まただと思った。話していいのか、どこまで話すべきなのか、悩んでいる顔をしている。

 碧は声を低め、慎重に言葉を選びながら話した。

「……この場所は特殊だ。それは分かるか」

「とくしゅ」

「どうにかして隙を見ては人を貶めようと思っている輩も、少なからずいるということだ」

「昨日みたいな?」

「……暗殺というのは直裁的すぎるが」

 碧は気抜けした顔をした。

「今は丁度、宰相閣下と陛下の対立がより激化してきた時期だ。表立った動きはないが、――まぁ色々と。昨日の刺客もいい例だ。宮殿内が緊迫した状態にあると、畢竟そういう不埒な輩も増えてくる。お前の存在を見つけて、姑息な考えを持つ人間もいるだろう」

「……ほんとに」

「用心するに越したことはない。魔窟だとでも思っておけ」

「……分かった」

 重々しく頷く榛名に、碧は満足したらしい。だが、

「じゃあ碧は?」

 と続いた榛名の一言で呆気に取られた顔になってしまった。榛名本人は真剣だったので、まずいことを言ったかと思わず慌てふためいた。

「あの、もし碧もそういう人だったら怖いなあと思って……あ! ううん本当にそうかなーとか思ってないんだけど確認! 確認しとこうかなって!」

 喋れば喋るほどどつぼに嵌っていく榛名に、碧はわっしと服を乱暴に押し付けた。

「……とにかく。これを着ろ」

 榛名は一瞬この前の服と同じワンピースだと喜んだが、よく見ると違った。真っ白の、蝉の羽のように軽い着物である。それと真紅のプリーツの入ったスカートのような服。知識の上だけで実際に見たことはないのだがこれはたぶん、――襦袢と袴、ではないだろうか。思わず碧と服、交互に見つめる。碧の顔には冗談の色はなかった。

「……これは、どういう」

「俺が着付けるしかないだろう他に頼めるやつもいないんだしいいからとっとと着ろ」

「え、あ、あの?」

「……着ないならそのまま」

「今すぐ着替えます!」

 榛名は大慌てで碧を部屋から押し出した。そのまま壁に手をつくと、暴れまわる心臓を必死で抑えつける。相部屋のことといい、何故彼はもっと榛名を女性として労わってくれないのだろうか。きっと碧にとっては、意識なんてしようがないほど子供にしか見えないのだろうが、それでも一応は女の子だというのに。

(……やっぱり魔窟は碧かもしれない)

 奇天烈な結論に至って榛名は溜め息をついた。紅潮した頬を両手でぱんと叩いて気持ちを落ち着かせる。悩んでいる間に碧が心変わりしてしまうかもしれない。うだうだと考え込むのはなしだ。

「よし!」

 腹を据えて、とにかく着てみることにした。

 しかし気合を入れて取り掛かってはみたが、正しい着用方法に則っているのかは分からない。袴には紐がついていて、腰紐を縛ると丈を見るために少し持ちあげてみた。和服にしてはこれはとても軽い。和服を知らない外国の人が、もっともっと着易く作り変えたもの、というのが一番近い気がする。あまり豪奢で機能性に欠ける服は好きではない榛名には、動きやすいこの服は有難かった。くるり一回転してみる。裾が舞って、すべらかな生地が肌の上を流れていった。

 碧は一体どういう仕事をしているのだろうかと、ふと榛名は疑問に思った。今まで与えられたもの全て、随分品がいいものばかりである。しかし、瞳の色について聞いたときのことを思い出すと急激にその気持ちは萎えた。不用意に探りを入れるべきではないし、想像してみたところで仕方がない。第一、聞いたところでまともに答えてくれるかは疑問だった。

 おかしいところがないか確認しているとき、何となく思い立ち、先程碧が奪取し、机に置いていったネックレスを手に取る。ほのかに光るそれを、しばらく見つめると榛名は首にかけた。

(……帰る手がかりなら、大事に……か)

 何となく、これはずっと肌身離さず持っておこうと榛名は決めた。


 支度が完了し、戸口の向こうへ呼びかけると、即座に鋭い声が飛んだ。

「向こうを向け」

 榛名は苦笑しながら後ろを向く。碧の緊張が伝わってきて、何だか照れくさくなり少し上を見上げた。

 碧は手際よく榛名に先ほどの薄桃色の服を着せ掛ける。さっと皺を伸ばすと帯を回し、綺麗に形を整えていった。彼の服とは形状が随分異なるのに、よく着付けできるものだと感心する。薄桃の服にはよく見れば、椿の模様が散っていた。それに金色の蝶が縫い取られている。みるみるうちに豪奢な衣は榛名を惟の人間に仕立ててくれた。

「座れ」

 端的な命令に従い、榛名は碧の指差した椅子に腰掛ける。何だろうと訝しんでいると、ひやりと冷たい指先が首筋に触れた。どうやら髪まで結ってくれるらしい。榛名の明るい茶色の髪が、碧の長い指で一度大きく持ち上げられる。胸元まで伸ばした髪が、ゆるゆると落ちていった。

「碧って、真面目だよね」

「……黙ってろ」

 その間はもしかして気恥ずかしいのだろうか。思わずほのかに笑んでしまった。

 女性の髪形を見たことがない榛名は、内心高島田なんかに結われたらどうしようとハラハラしていたのだが、髪留めでまとめただけで、普段の自分と大きく変わることはなかった。

 榛名はちらりと背後の碧の顔を盗み見る。睫毛の影が頬に落ちていた。黒髪が光を受けて綺麗な円を描いている。甘い香り。――何の匂いだろうか。衣装に描かれた椿の花を思い出す。違う。この強い匂いは、金木犀だ。花の綻ぶ、故郷を思わせる芳しい匂いだった。どこか古めかしくもあるその香りは、榛名にここは違う場所なのだ――そうきっぱりと伝えていた。

 ――全くの異国に来たのだと、そう。

 榛名は小さく目を伏せると、その後はもう何も言わなかった。

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