琥珀の王(3)
慣れとは恐ろしいもので、仕事に追われる日々の中で、次第に碧は眠れないことにも、食事をとれないことにも問題を感じなくなっていった。寧ろ睡眠を必要としないことを便利だとさえ思うようになった。
碧は眠りたくないのだ。眠れば夢を見る。目覚めれば死にたくなるほどに幸せな、過去の夢を。数ある苦痛の中でも、それは最も碧を苛んだ。碧の中で、既に榛名との思い出は支えではなく、残酷な現実を思い出させるだけのものに変わりつつあった。
――どうせ叶わぬ夢だ。分かっている。それでも、夢の中で何の躊躇いもなく彼女を抱き締めるたびに、途方もない幸福を味わうのだった。
そんなやつれた王に対面した剛藩の藩主、李淵は思わず息を飲んだ。
今までに王に直接対面したことは数度限り。それでもはっきりと分かる、あまりの人相の変わり様に動揺が隠せなかった。
一介の藩主に過ぎない李淵も、宮中で流れている不穏な噂のことは聞き及んでいた。曰く、この王は偽物であると。だが、こうして対面した今、やはり彼は偽王などではないと確信できた。神の精緻な指先を感じる、先王によく似たその美貌。この世にこんな顔が二つもあろうはずがない。
けれど、その美貌は今、砂漠で晒された花も同然だった。美しさこそ変わりはないが、咲き誇るどころか今にも根から枯れてしまいそうに見える。――一体、何があったのだ。
「李淵――この度の紛い物の真珠の件、詳しく話を聞きたい」
梨園の動揺を押しのける怜悧な声に、李淵と彼に付き従う三人の侍従たちは慌てて深く叩頭した。
「重ねて言っておくが」
王の隣に立つ男が、四人を氷の刃のような眼差しで見下ろした。
「この場において虚偽を述べると、今後の保証はない」
李淵は震え上がって、額を床にすり合わせた。
虚偽も何も、李淵は今回のことに何の心当たりもなかった。まさか自分の藩から偽物の真珠が出回るなど、とんでもない話だった。李淵は元々、先王時代に王直々の懇意を得て、何とか藩主まで成り上がれた身だ。そもそも当時、剛藩の価値は今よりずっと低く見積もられていた。それを先王は、目立たる産物もなかった、小さな南部の藩の未来を真摯に考えてくれたのだ。その息子である翠王に対して恩義こそあれ、叛意があろうはずもない。
それに真珠の価値が下がって、李淵に利など一切なかった。剛藩は鉱山の藩。そこで採掘される全てが、剛藩の唯一の産物だ。山に囲まれ、港のある宗藩のように手広く商売を広げることも出来ぬと日夜苦心している小さな藩の、貴重な地真珠を貶めるはずがない。
そんな王にとっても分かりきっているだろうことを弁明しているうち、彼の左に控えた侍従が僅かに身じろいだのを、李淵はまるで感じ取ることが出来なかった。何とか分かって貰わねばと、釈明で頭がいっぱいだったのだ。連れ立ったその随従はここ最近雇ったばかりの文官で、馴染みの薄い人物だと気が付いていれば、止めることができただろうに。
李淵の背後に伏せた頭、長く垂らした髪の向こうで、彼女は静かに刃を握った。
肘をついて李淵の話に聞き入る王の姿に、にっと口角を吊り上げる。
立ち上がりざまに駆け出したのは一瞬、呆気にとられる李淵の横を通り過ぎ、彼女は王にまっしぐらに向かっていった。
李淵の決まりきった判を押したような釈明に、碧は内心でため息をついていた。
(呼び出したはいいが、やはりこうなったか――)
ここ数週の間、碧を裏切り宰相の手に回った人間は数え切れなかった。その中には碧が心から信じていた人間もいた。宮で語られる言葉の多くに真実などないと頭では分かっていたつもりだったが、離反はひとつひとつ、確実に碧を消耗させていった。誰を信じ、誰を疑えというのだろう。どんな繋がりがあろうと、裏切る時は裏切るのだ。
今や碧の衛士を務めるのは以前榛名を庇い負傷した斗来という門番一人のみ、側近と呼べる人間も影虎と透だけだった。それだけの人間しか、碧は心から信頼をおけない。この李淵という人物も、一体本音では何を考えているのか。目を伏せ、現実から逃げ出したくなる。
それでも、碧は李淵の前で王として堂々と見えるように振舞った。見下す目線は険しく、いっそ不遜なほどに。碧は絶対に、威厳ある、決して揺るがない王でいなければならない。侮られるな。――王は決して、過たない。
事の真偽を精査しようと、李淵を注視していた碧は、突然駆け出した女の姿に当初気がつかなかった。
初めに聞こえたのは、隣に控える影虎の怒声だった。
「翠っ!!」
鋭い声に、頬杖をついた手が浮く。
そうして、碧は彼女の姿を見た。
その名のように、明るい榛色の髪。いつも光を満たしていた、丸い瞳。碧の名を呼ぶ、桜色の唇。
「……は……」
碧は思わず迎え入れるように手を伸ばした。
その胸に招き入れたくて。
しかし、彼女の姿は玉座に辿り着く前に立ち塞がる影に隠れてしまった。金色の髪が跳ねて、一閃、血飛沫が飛ぶ。
からん、と刀が落ちて、重い、肉塊が床に落ちる音がした。
耳慣れたそれに、碧は呆然として、差し伸べていた手を動かすことさえ出来なかった。
「……榛名……?」
ぽつりとした呟きに、影虎がばっと振り返る。
「違う! 翠、よく見ろ! 似ても似つかないだろうがっ!」
「……は……?」
倒れ伏すその姿をよく見れば、確かにその女は榛名とは似ても似つかない、全くの別人だった。髪の色も榛名よりもっとくすんでいて、体つきもまるで違う。ぱっと見でも間違えるはずのない外見だった。
だが、あの瞬間――碧は確かに彼女を榛名と誤認したのだ。
そして、
そして。
「……は、あは……ははははっあは、あはははっ!!」
碧は突然、狂ったように腹を抱えて笑いだした。
影虎は思わずその異常さにぞっとする。場を震え上がらせる笑い声は長いこと続き、突然糸が切れたようにふつりと途切れて、静謐が訪れた。
碧がゆっくりと、視線を上げる。そして呟いた。
「……滑稽だよ、本当に」
あの瞬間――幻の榛名を抱き締めようとした瞬間――死んでもいいと思った。
もう一度この腕の中に彼女を抱けるのならば、この命など惜しくないと思った。
それが碧の本当の望みだ。王としてだとか、生きなければならないとか、口では色々と言っていても、本音では榛名と再び会えるのなら死んでもいいと思っていた。民のことも影虎たちのことも、全て投げ出して。
馬鹿馬鹿しい。何が王だ。――ただ一人の娘すら手に入れられぬ、己のどこが王なのだ。
碧の言葉を李淵に対するものだと受け取った影虎は、血で濡れた刃を李淵の首筋に添えた。
「――こういうことか。直接王を害する、この期を狙っていたのか」
「め……滅相も……!」
「ではこの女、何とする。この首、今ここで跳ねてやってもいいのだぞ」
傾けられる光に、李淵は金切り声を上げる。
碧はくつくつと喉を鳴らして、手を振った。
「……もういい。影虎、もう十分だ」
「翠?!」
「……よく、分かった」
死体となった見ず知らずの女を見下ろして、碧は笑った。
――幻の榛名は、またも僅かのところで手が届くことなく死んだ。
結局、碧はこういう運命にあるのだ。何度榛名を手に入れようとしても、その度に彼女を失う。
ならば、この生に何の意味もない。
「……行け。俺を殺したいのならばそうするがいい。勝手にしろ」
「翠……っ!!」
碧は影虎に構うことなく立ち上がった。
「……もう、たくさんだ」
誰かが自分を殺してくれるというのなら、それが歴史に従っているというのならば、もうそれでいい。
――死んだ先に榛名がいようといなかろうと、構わない。
(……同類を作るのが、本当に上手だな。宰相)
身を焼く煉獄の炎に、ちりちりとした痛みを感じながら碧は微笑する。瞳の奥に灯されたのは、決して希望の光などではなかった。
(これを望んでいたのだろう、宰相)
宰相が望んでいたのは、惟をその手中におさめることではない。
破滅。惟だけではない、己の身まで焼き尽くす、破滅を望んでいる――。
(……いいだろう。ならば、付き合ってやろうじゃないか)
この国最後の、終焉の王として。
「……翠……っ!!!」
影虎の最後の制止の声は、届くことなく。
碧は何者にも侵されない琥珀の中に、己を閉じ込めた。




