琥珀の王(2)
それから数日。
陛下、と青白い顔で駆け込んできた透を見た時から、嫌な予感はしていた。恐らくそれは碧だけでなく、ともにいた影虎もそうだっただろう。滅多なことで動揺することのない透のことだから、相応のことが起きたのだと。
だが、事態は思った以上に深刻だった。
「剛藩か……」
「まさか剛藩から火の手が上がるとはね」
影虎が軽い口調で混ぜっ返しながら、地図上の赤い印を指先で弾いた。山に囲われた、惟の東南部にある藩。それが剛藩だった。
数ある藩の中でも、剛藩は特殊だった。
惟は大陸でも矢尻のように突出した場所に存在しており、その最北がこの麓鳴になる。温暖で過ごしやすい気候にある首都と違い、南部はどこも寒さのきつい場所だが、中でも剛藩のそれは過酷だった。山に覆われた陸地、平地はごく僅かで、作物もあまり実らない。山風がきつく、豪雪に耐え切れないのだ。だが、剛藩には他のどの藩にもない特産物があった。それが鉱石である。剛藩で取れる鉱石類は、手工業で発展してきた惟にとって貴重なものだった。
その中でも、特に貴重なのが地真珠と呼ばれる宝石だった。海の真珠が貝の中で育つように、これは大地の中で育つ。数は真珠よりもっと希少で、年にごく僅かしか取れない。その上剛藩で取れる地真珠は他の国のものと違い、薄く碧みがかっていて、その色から惟では神の秘宝と呼ばれた。
「……それがまさか」
透が持ってきた目の前の真珠を、碧は摘まみ上げた。
力を込めると、パキッと音をたててあっさりひび割れる。
「偽物が出回るとは……」
パラパラとこぼれ落ちた粉を見遣りながら影虎がため息をつく。
「分かりそうなもんだけどね。これはどう見たって偽物だよ。色合いも本物とは微妙に違う」
「問題はそこじゃない。これは惟の重要な輸出品だ。それも高額で取引される類のな。それが偽物となれば、藩としての信用はもとより惟の工芸品全ての信用すら地に落ちる」
「いえ、陛下――もっと悪いことが」
透は膝をついて進言した。
「……その宝石は、神の秘宝。それが紛い物だということは、王そのものが偽王なのではないかと、王宮ではそのようなことがまことしやかに囁かれております」
「なっ」
影虎が息を詰める横で、碧は奇妙なまでに冷静だった。――成程。そう来たか。
「それで」
碧に促され、透ははっきりと答える。
「……恐らく、今回のことで寝返る者も多数かと」
「……そうか」
賢い作戦だ。何も碧が真実、偽王かどうかが大事なのではない。碧は翠の死去以前より王として振舞っていたのだから、情報の真偽が確かめられない者たちの多くは、本気で疑ったりしてはいないだろう。問題はこんな噂が立つことだ。元々御家方の造反で、宮中は荒れきっている。迷う連中の背中を押してやるには、こんな他愛もない噂話で充分だ。
――偽物には、偽物としての罰を。そういうことか。
黙り込む碧を押しのけて、影虎が勢いよく割り入ってきた。
「待てよ。他の藩ならまだしも、剛藩といえば先王時代から縁深い藩だろう。宰相派閥の利藩なら分かるけど、まさか藩主自らこんなことを行ってるっていうのか? 自分の藩の信用も失うっていうのに」
「そこまではまだ分かりませんが、話を聞く必要はあるでしょうね。もしも関係がないというのなら、剛藩にとっても不利益な話です。何とか藩主の力で止めていただかなくては」
「藩主の名は李淵だったな。火急、呼び出してくれ」
「承知しました」
一礼すると、透は退室していった。
彼も本来の仕事があるだろうに、宰相が自室に引っ込んでいるのをいいことに出来る限り碧に助力してくれている。そのお陰で、碧は何とか公務に紛糾することが出来ている。
粉のまとわりつく指先をすり合わせて、碧は考えた。
(……俺の命は俺だけのものじゃない。……皆のために、生きなくてはならない……)
「碧」
呼びかけに、碧ははっとして顔を上げた。影虎は呆れ顔でこちらを見ていた。
「……馬鹿だな、お前。しつこいくらい自分は翠だって言う癖に、碧って呼ばれて反応するなよな」
「な……っ」
「翠さん、顔色悪いですよ。ほら、仕事は俺がやっとくから、ちょっと休んで来い。寝なくてもいいから、横になれ」
とんと胸を押され、碧は一歩下がった。
――そんな軽い衝撃にさえ、ふらつく自分に驚いた。
棒になったように突っ立っている碧に、影虎は苦笑しながら声をかけた。
「心配しなくても時間になったら呼びに行くから。それまでは寝とけ。休養も仕事の一環だぞ」
「……ああ」
ぽつりと返した碧に、影虎は愉快そうに片眉を上げた。
「あら、珍しく素直じゃん」
「……まあ、な」
疲れているから。淀む言葉を飲み込んで、曖昧な礼を述べると碧は踵を返した。
*
薄暗い部屋に火を灯して、碧はゆっくりと照らし出されていく部屋を見渡した。格子戸が嵌め込まれた壁。黒塗りの部屋の殺風景な中心に、大きな寝台が据えられている。
碧は王になってから、榛名と過ごしたあの部屋を出て、翠がいたこの寝殿に移った。王になったのだから当然のことだが、碧には未だにこの部屋が自分のものとは思えなかった。寝台に横になっていても、どこかそわそわして、泊まりに来た客分のような気がする。
――いっそ幼い頃のように、翠に招かれて泊まりに来ただけなら、どれほどよかったか。しかし、翠はもういない。巴も、榛名もいない。誰もが碧を過ぎ去っていってしまった。
枕に頭を落とすと、柔らかな感触が跳ね返ってくる。その柔らかさもまた、翠を思い出させて胸が詰まった。
「……翠」
乞うように呟く。
「はる……」
碧は言葉を切って枕に顔を伏せた。
――願ってどうする。
また榛名に出会えたところで、碧はきっと同じことをする。何度も何度も同じことを繰り返す。けれど彼女を失うことに、碧はこれ以上耐えられない。
(……会いたい。会いたい。誰よりお前に会いたい。だから、きっともう会えない。会うべきではない……)
ぐ、と枕を掴む。碧は悲痛に呻いた。
「どうしたらいいんだ……」
事態は深刻だった。誰もが当然のような顔をして碧を裏切っていく。どんなに尽力しても、味方だと思っていた人々は遠ざかっていくばかりだった。刻一刻と、着実にこの身は死に向かっていっている。
どうしたら――。
途端に吐き気がこみ上げてきて、碧は傍にあった盥を慌てて引き寄せた。
今日やっとのことで口にした、僅かな食料が排出されていく。悪心の波が引いて、碧はふと盥を掴む自分の手を見た。土気色の、骨の浮いた手。思わず掠れた声をこぼした。
「……は、はっ」
あまりの惨めさに笑いしか出なかった。
――こんな王がどこにいる。
眠ることも食べることもままならず、朝議はまともな話し合いにすらならない。味方であった人々には次々に背かれ、この広い宮の中、一人孤立している。これのどこが王だというのだ。
もう碧を励まそうとする榛名の気配も、感じ取れる時が少なくなってきていた。
包み込む柔らかな手がなくなり、碧はいっそう精神的に追い詰められていった。それが榛名の死を証明しているようで、恐ろしくてたまらなかったのだ。
体をくの字に折り曲げて、碧は声を絞り出した。
「榛名……」
――助けてくれ。
祈るように手を組み合わせると、かすかに背中に誰かの手のひらの感触を感じた。幻に近い、声も聞こえぬ温かさ。儚いそれに縋って、碧は何とか眠りに落ちていった。




