第九章・永訣(2)
榛名が宮殿を去る少し前、碧は清殿にいた。
襦袢に袖を通すと、絹が肌を滑って耳触りよい音をたてる。衿を整え、上から漆黒の衣装を纏うと、爽やかな印象は一気に重苦しく様変わりした。死者を悼むための黒衣。裾には銀の蝶が細やかに縫いとられている。
喪服であるため、碧は腰に下げる飾り帯をやめて、胸元を彩る紐だけを翡翠色にした。――翠の色。穏やかな湖畔に似た、彼女を象徴するような色だ。
簡素に仕立てた代わりに、耳には真紅の飾りをつけることにした。鏡に向かい合って耳たぶをいじっていると、不意に脳裏に記憶が蘇ってくる。
『碧、赤も合うと思う』
溢れるような笑顔が、残像となって現れる。幸せな記憶が喉を詰まらせて、一瞬指先が躊躇ったが、結局机に腕を下ろした。
その手で手首を容赦なく捻り上げ、碧は呟いた。
「俺は――翠だ」
言い聞かせるように何度も唱える。
――自分は翠王だ。死に逝く運命の王だ。なればこんな感情は封殺せねばならない。思い出すたびにいちいち胸を痛める、そんな余裕はどこにもないはずだ。
(自覚しろ。お前は王だ――たった一人生きて死ぬ、孤独な王だ)
きつく締め上げる痛みに、悲哀も恐れも溶かし込む。
心のままに叫べたなら、どれだけよかったか。
父を間近で見てきた碧にとって、玉座は畏怖の対象でしかなかった。王になれば、自分の決定一つで何人もの人間が泣くことになる。左へ転べば右が泣き、右へ転べば左が泣き、そうして時には誰かの命をも奪う。自分の母こそがその最たる犠牲者だ。碧に過たない自信などない。この身に流れる血こそが、過ちの証だ。
責任が、背に重く圧し掛かる。
(榛名……)
きつく目を閉じて、祈るように名を呼べば、そっと肩に置かれる手を感じた。ふわりと抱き締められて、温かさが憂慮を優しく拭っていく。
不思議だ。彼女はもういないのに、目を閉じれば、今も隣で支えてくれているような気がする。いつでも味方だから、と囁いて。
吐き気を堪えて碧は前を向いた。
――決めたはずだ。どんなことをしてでも彼女を守ると。だから弱さは捨てなければならない。それが仮面でもいい、絶対に過たず揺るぎない、屈強な王でいなければ。
締め上げる、その痛みにだけ、集中しろ。
「碧?」
小さな声にびくりと反応し、碧は机の上の瓶を倒した。
青い顔で見ると、戸口の向こうから、小さな少女が期待の滲む表情でこちらを覗きこんでいた。
「茜音?」
呼びかけると、彼女はにっこりと笑い、いそいそと部屋に入ってくる。
赤い髪をふわふわと揺らす目の前の少女に、碧は首を捻った。式典は間近だ。碧と同じく参列する茜音にも時間がないだろうに、どうしたというのだろう。
驚いて声をかける余裕もない碧をよそに、茜音は眩しそうに目を細めると、ついと背伸びした。視線が合うと、笑みはいっそう深くなる。
「ねえ碧、私、あなたが行ってしまう前にどうしても伝えたいことがあったのよ。聞いてくれる?」
「……? 何だ」
まだ呆然としている、そんな碧に、茜音は正々堂々と言った。
「私、碧が好きよ」
意表を突かれて、碧はぽかんとする。
そして、
「な……っ」
二の句を告げないうちに、茜音は重ねるようにして続けた。
「きっと碧は信じないでしょ? みんなだってそうだわ。いつも私の気持ちを否定する。でもね、私は本当に碧のことが好きだったの。私を突き放さない優しいところも、翠しか見えない真っ直ぐなところも、全部」
「茜音」
言い募ろうとする碧の唇を、茜音はそっと指で塞いだ。
「言わないで。答えはもう、とっくに分かってたから」
笑ってそう言えた。それ程までに答えは明確だった。
碧は昔から、茜音を妹としてしか見ていなかった。手のかかる小さな妹。そうやって可愛がってくれて、いつも我侭を許してくれていた。――それが優しさの理由だ。
けれど、それとは違う、この恋が叶わなかった理由を、茜音はちゃんと知っている。
「……碧はいつも優しいわよね。今思えばそれって同情だったのかもしれないけど、私にはそれが嬉しかった。碧が優しかったのは私と翠だけだったから、特別になれた気がした」
碧の瞳が揺れている。茜音は美しく微笑んで、
「でも、違ったのよね。私は碧の特別じゃなかったし、きっと私も、私を特別にしてくれる誰かなら、私を受け入れてくれる誰かなら、誰でも良かったのよ。――それが分かっていても、碧は好きだって嘘をつく私を許してくれていたんでしょう?」
大きく見開かれる瞳に、苦笑が浮かぶ。
この広い宮の中、茜音は一人ぼっちだった。父も母も兄もいない。女官たちはみんな同じ顔をして笑っているだけ。この孤独を真に理解して受け入れてくれるのは、碧しかいなかった。
だから茜音は碧を恋の相手に選んだのだ。そうすれば茜音は一人ではなくなった。寂しくなくなった。これはそんな、理由付けのための恋でしかない。
「でもね、碧。こんな形で成立した恋はひどく歪んでいるけれど、それでも今では本当に、碧のことが好きになったのよ」
言葉を紡ぎ出す喉が泣き出しそうに震える。
この気持ちに気づいたのは、榛名が暴徒に連れ去られたときだった。我を忘れて激昂している碧を見て、茜音は悲しいくらい分かってしまった。
――碧は榛名のことを愛しているのだと。
その時襲ってきた痛みは、想像を絶するものだった。引きちぎられそうな痛みは幾日も尾を引いて茜音を悩ませた。
そうして、やっと気がついたのだ。いつの間にか偽物の恋は形を変えて、本物になっていたことを。けれどそれに気がついた時にはもう遅すぎて、碧の心のほんの僅かな隙間にだって、茜音の入り込む余地はなかった。
――悲しくはない。自分のずるさを知っているから。ただ少し、寂しいだけだ。
「茜音」
伸ばされる手を振り払って、茜音は首を振った。
「いいのよ。知っておいてほしかっただけなの。碧が翠になっちゃう前に、私が碧のことを好きだったんだって」
ふふ、と笑うと、碧は呆然として呟いた。
「……驚いた、結構」
本気で驚愕している碧に、茜音は眉を下げた。
「それは馬鹿にしてるの?」
「……いや。ありがとう」
ぽんと頭を叩く、柔らかい感触にどきっとする。
「俺はもういなくなるが、素直に嬉しいよ。……ありがとう、茜音」
じわりと胸が熱くなって、唇が震える。何故か今になって深く実感する。――本当に碧は、今日でいなくなるのだ。この指先も全て、碧でない誰かのものになってしまう。
凍りつく舌を、泣き出しそうになる喉を、それでも茜音は押し止めて笑った。
「私って、すっごく我侭なのよね。だからね、碧」
碧の胸をとんっと叩いて、言った。
「碧が翠になるなんて、そんな難しいこと、私には分からないわ。私の中で、碧は碧のままよ、ずっと」
大きく息が吸い込まれる音が聞こえる。
目を丸くしていた碧は、ゆっくりと雪解けのように柔らかく笑った。
「……お前には敵わないな」
そう言う碧の顔にもはや迷いはなかった。覚悟を決めたのだ。――碧ではない、翠として生きる覚悟を。
茜音は悔しさを滲ませて唸る。
「碧は馬鹿よ」
「それは影虎にも言われた」
「私が止めても無駄なんでしょう?」
碧は困ったような顔で微笑んだ。
「すまない」
――いつもちっとも届かない、と茜音はぽつりと考えた。
茜音が一生懸命手を伸ばしても、いつも碧はぐんぐん先に行ってしまう。背伸びしたって、この距離は届いたりしない。今までもこれからも、きっと埋まることはないのだろう。
「……碧」
「うん?」
「好き」
「……ああ」
「分かってるの? 本当に好きなのよ」
「分かってる」
「……本当に、好きなのよ……」
みるみる瞳を潤ませる。そんな茜音を、碧は最後まで優しく慰めてくれた。世話の焼ける、可愛い妹として。徹頭徹尾期待させない、そんな優しさが痛くて悲しくて、暴れだしたくなる。
どうしたら分かってもらえるのだろうか。茜音だって一人の女性で、兄としてでも都合のいい誰かとしてでもない、碧を好きになったのだということを。
碧の優しさにつけこんだ自業自得だと分かっていても、願わずにはいられなかった。碧が今すぐ茜音の気持ちに応えてくれることを。
散々泣き尽くした後、茜音はそっと身を離した。
――絶望する必要はない。この気持ち全てが伝わらなかったわけではないのだから。悲しみを振り切って、茜音は満面の笑みを浮かべた。
「そのうちに後悔するわ。私、とびきりの美人になるんだから。皆が振り返るようないい女になってから慌てたって、遅いんだからね!」
「……そうか。そうかもしれないな」
「かもじゃないわ。絶対よ!」
偉そうに指差すと、碧は見たいものだな、と目を和ませた。その表情にふと奇異を感じる。碧はこんな風に微笑う男だっただろうか。
碧は茜音の視線には目もくれず、少し遠くを見やって言った。
「茜音。お前、惟を離れる気はないのか」
「? どうして」
「俺が王になれば宰相も御家方もそう簡単には許さないだろう。国は荒れる。お前は宰相の娘だから安全圏にいられるかもしれないが――それでも今までよりもっとこの宮は危険になる」
「何だ、そんなこと。馬鹿ね」
簡単なことだというように、茜音はあっさりと言った。
「嫌よ。私、この国が好きなのだもの。……離れたくないわ」
太陽と緑に包まれた、豊かな国。愛おしい故郷。父や兄、そして碧と透がいた、大好きな場所だ。離れることなど考えられない。
それに、と茜音はいたずらっぽい視線を送りながら胸を反らした。
「大丈夫よ。王様が守ってくれるんでしょう?」
そう言うと俄かに顔が歪んで、茜音は息を呑んだ。
不安が伝播する直前、碧は口早に答えた。
「そうだな。俺が何とかする」
あ、と声をかける手が空を切って、翻る碧の背中を掻いた。
「……時間だ」
低い声が、深く這う。まるで審判の音のように花火が上がった。鈍い足取りで式典に向かう碧の横顔は別人のようで、茜音は立ち竦んでしまった。
あれは、本当に碧なのだろうか。ぞくりと悪寒が走り、小さな体を抱えこむようにして腕を回した。
変わっていく。櫂を失った舟が制御を失い、深い海に飛び込んでいくがごとく。そうして溺れていく碧に、茜音は不安を募らせた。
*
清殿には既に多くの臣下が詰めていた。碧の姿を目にすると、一斉に波打つように叩頭する。
ただ一人膝をついて碧を待つ老獪の姿に、碧は眉間に皺を寄せた。顔色一つ変えず対峙出来る、その肝に感嘆する。こいつさえいなければ、巴は死なず、榛名を失うこともなかった。身の内を焼く炎が大きく揺らめくのを感じる。
冷静に、と呪文のように繰り返す。激昂してはならない。ここは衆目の前、何より今から翠の式典だ。まずは滞りなく彼女を送り出さなくては。
目前に至ると、宰相は頭を下げた。
「お待ちしておりました――『翠王陛下』」
「……ついて来るがよい」
その言葉で立ち上がると、宰相は碧に随従してきた。
長い廊下を歩く、ここはまだ王の住居だ。式が行われるのは中庭になる。宰相が立つと同時に、高位の順から次々と臣下がついてきた。しかし、尚が空位のため、碧と宰相から後は間隔が空いている。
今なら聞こえることはない。碧は低く唸った。
「狐が、何を考えている? 俺が王になることを随分とあっさり承諾したな」
「何も。あなたがそうすることは予想のうちでしたし、それがよいと思ったので承諾しただけです」
「……よく舌が回ることだ。影虎がいるお前にその理が通ると思っているのか?」
「使えぬ駒は必要ありませぬな。邪魔なだけです」
きっぱりとした答えに、碧は悲しげに視線を落とした。
「……お前はいつまでも変わらないな。家族も何もかも……お前の心には残らないか」
「兄弟の絆などかくも脆いものだと知らない、あなたの方が無知なのです」
そう言って宰相は不吉に笑った。
「いいことを教えてあげましょう。私のこれは、余生なのです」
「余生だと?」
「ええ。私は既に死んだも同然なのですよ」
顔色一つ変えずそう述べる宰相に、碧は疑義の念にかられた。これが形振り構わず王位を狙った、あの男だろうか。狡猾で、常に瞳は野心にぎらぎらと輝いていた、あの。
かつての宰相は、碧の瞳しか目に入らない男だった。碧はそれをよく知っている。その執着は異常とも言えるほどで、影虎に対する教育ぶりはまさしく常軌を逸していた。かつての彼ならば、まず間違いなく碧が王位につくことを許しはしなかっただろう。
しかし今、彼の者は、静かに碧の後ろを追従している。
懐疑の目を向ける碧に、宰相は微笑を返す。
「……陛下は煉獄をご存知ですか?」
「は?」
「神は大いに寛容なれど、大罪を犯した人間だけは幽玄には行けないのです。煉獄と呼ばれる炎の中、永遠に身を焼かれ続ける。聖女の如く清らかであらせられた姉君はきっと幽玄に行ったことでしょうな」
挑発に頭がカッと熱くなった。
「……余生だろうが神だろうが、お前のやったことは罪でしかない。即位を許したから俺に感謝されるなどと腑抜けたことは思うなよ。今もこれからも変わらず、俺はお前を縊り殺してやりたいくらいに憎んでいる」
宰相は余裕のある笑みを見せた。
「では今すぐここでそうなさればいい。――芽が出る前に種子を叩き潰す。それが正しい王というものだ」
「俺はお前の言う正しい王になるつもりはない」
「ならば、どのような王になるおつもりで?」
返答に詰まって、碧は歯噛みした。黙る碧にため息を落として、宰相は嫌味ったらしく嘲る。
「あなたは父上にそっくりですよ。本当に、嫌になるほど」
「何を――俺があの馬鹿に似ているって?」
「ええ、ですからそのあなたが苦しむ姿に私は愉悦を覚える。――余生には正直飽き飽きしていますから、いい見物ですよ」
「……本性を出したな」
足を止め、碧が凄む。
宰相は目にかかる赤髪をかきあげて、にたりと唇を弧にした。
「……いい様だな、碧。そなたのその秀麗な面が歪むのはまこと面白い」
追いついた臣下がざわつくのを見て、碧は舌打ちするとすぐに歩き出した。
「俺がお前を煉獄に送ってやる」
吐き捨てる碧に、宰相は声を漏らした。微かに聞こえる笑い声は、得体の知れない恐ろしさを含んでいる。不気味な様子に、碧はぞくりとした。
「陛下」
声をかけられて、碧は気を取り直した。見ればとうに中庭の門前についている。これ以上無駄な会話は出来なかった。
「式典について、説明をさせていただきます。よろしいですか――」
衛士からの説明を上の空で聞き流しながら、碧は横目で宰相を見遣る。しかし、彼はいつもの白けた表情に戻っていた。先程の毒々しさはまるで嘘のようだ。
いや――違う。
背筋を舐めるような、嫌な予感がした。
何か大事なことを見落としている気がする。碧は既にその糸口を得ている気がするのに、頭に靄がかかったようで、思考は鈍る一方だった。
(余生……煉獄だと? 何の話だ)
何の意図もなくあんな話をしたとは思えない。一体何の意味があって――
「閣下、申し訳ありません。少々お話が」
硬質の声が聞こえて、碧ははっとした。いつの間にか隣では透が宰相と話し込んでいる。漏れ聞こえる範囲では、どうも式典後に市街に下りる手筈のことのようだった。見知った顔が現れて、少し安堵に肩が下りる。
透は話を終えると、碧の方に向かってきた。
「陛下も、少々お時間を宜しいですか。すぐに済みます」
「ああ」
吐息のかかる距離に詰め寄ってきた透は、急に厳しい顔になって囁いた。
「本当にこれでいいんですか?」
「透」
驚いて見上げる、その先の表情は険しかった。
「これはあなたを思う人全てを踏みつける選択です。……それで本当に、あなたは満足ですか?」
碧はたじろいだ。それでも、透の真剣な眼差しは視線を外すことを許さない。生唾を飲み下して、碧は言った。
「もう遅い。これ以外に、道はないんだ」
「本当に――」
時間です、と告げる声が言葉を割った。
「透、下がれ。そなたも参列するのであろう、あのじゃじゃ馬から目を離さぬようにしておけ」
透は少し躊躇を見せたが、
「……御意に」
と、一礼して去っていった。序列では下位にあたる透は王の参列に加わることが出来ないのだ。真っ直ぐに伸びた背中を見送りながら、碧は息をついた。
(……後悔……するのだろうな、やはり)
現時点でさえ、碧は榛名のことばかり考えている。まるで救いを求めるように、何度も何度も。後悔しないと断言できる自信はなかった。
軋む音を立てて扉が開く。眩しさに目を細めると、視界が真っ白になる。
その時突然、いつか繋いだ温もりが手の中に戻ってきた。
『わたし、後悔しないよ。自分で選んだ道だから、苦しくても辛くても、後悔は絶対にしない。誓う』
次第に色を取り戻していく世界で、ずらりと並ぶ人々は、ゆっくりと叩頭する。その中に茜音の姿もあった。その人垣の先に白い棺が置かれていることに、今更ながら動揺が走る。
(翠……)
扉を開けた兵に促されてゆっくりと進みだしたが、集まる視線に、この一歩一歩がこれから抱えることになる人の重さであるように感じた。何と、重い。翠は今までこれだけのものを抱えていたのだ。
彼女はこの選択を知れば怒るだろうか。きっと怒るだろう。いつも碧の幸せを願っていた彼女ならば。
心拍が上がる。吐き気が再びこみ上げてきた。
(……だが、これ以外どうしようもないんだ。榛名を道連れに歴史に従い死ぬなんて、絶対に――)
そこまで思い至って、碧ははっと気付いた。
根本から、大きく取り違えているのではないだろうか。榛名は一緒に死にたいと言ったことは一度もなかった。翠も、影虎も一緒に死のうとは言わないだろう。彼女らはきっと、それがほんの僅かな活路であったとしても、一緒に生きようと言うだろう。
(生きる……?)
棺にたどり着くと、まるで眠っているような翠がそこにいた。花に囲まれて安らかに目を閉じている、その顔は本当に美しく、誰より清らかだった。死んだとは思えぬほど、魂はまだそこに留まっている。
ざ、と土を踏む音が揃う。
「今、彼女は永劫の幽玄にて神の安らぎに憩わん。どうか、翠の力の祝福があらんことを」
宰相の宣言に合わせ、復唱が一斉に響く。
碧も祈りを捧げた。
(お前も……言うんだろうか。死ぬために王になるんじゃない、生きるために王になれと……)
逃げることも投げ出すことも出来ない。だが、翠は逃げなかった。自らが殺される運命にあると分かっていても、受け入れて最期まで生き抜いていた。
――榛名。
声にならない声が、喉を震わせる。
(もし、望むなら……一緒に、いられるだろうか。死ぬためではなく、生きるために……)
儀礼的な式典はあっという間に終わり、碧は立ち上がった。これから数時間の後に、麓鳴に降りて王としての正式な挨拶がある。それがこの式典の本番だった。
今ならまだ彼女は麓鳴にいるはずだ。碧は中庭を突き抜けて大門へ向かう。追いかけるならば今しかなかった。明日になればあてのない旅をする二人を追うことは出来なくなる。
そんな姿を見咎めて、透が慌てて追いかけてきた。
「陛下!」
碧は振り返ることなく早足のまま告げた。
「悪いが出かける。挨拶までには戻る」
「今からでは時間が……」
「間に合わせる。遅れた時の対処はお前に任せる」
「な……っ」
愕然とする透に、碧は苦笑した。
「我侭を言える立場でないことは分かっている。だが……どうしても、俺はあいつが欲しいんだ」
運命は変えられないのかもしれない。解決の端緒一つ見つからないままに追いかけるのは無謀なのかもしれない。だが、それでもどうしても碧は榛名がほしかった。彼女に隣で笑っていてほしい。生きていてほしい。それが唯一、碧としての最後の望みだった。
「行って、碧」
凛とした声が響く。振り返ると、そこには茜音が立っていた。
「私たちが何とかするわ。だから行って、碧。……後悔しないで」
「……茜音」
驚きを隠せない碧に、何よ、と少しだけ拗ねたような顔をしてみせる。この一瞬で、茜音は随分大人びて見えた。
「……ありがとう」
頷いて、背を押された碧は厩に向けて走り去っていってしまった。
残された二人の間に、長い沈黙が広がる。そして、深い溜め息が落とされた。
「……勝手に仕事を増やさないで下さいよ」
「うるさいわね。いいでしょ」
言いながら、碧が消えていった廊下をいつまでも茜音は見つめていた。心ここにあらずといった様子に、透はやれやれとばかりに肩を竦める。
「……馬鹿ですねえ。協力したりしなければ、碧はそのうち榛名さんのことを忘れて、あなたの元へ来たかもしれないというのに。自分で希望の芽を叩き潰してしまって」
「うるさいわね! 私はね、卑怯なことはしたくないの。正直な自分のままで碧に好かれたいのよ」
「失恋しておいてそれを言えるのは尊敬します」
「うううううるさいわね!!」
顔を真っ赤にして怒る茜音に、透は薄っすら微笑んだ。
「姫様のそういうところは嫌いじゃありませんよ」
「……っうるさい」
はっとして、茜音は涙目で透の胸を――小柄な茜音では身長差が大きいため顔に届かなかった――小突いた。
本当は引き止めたかった。けれど、無我夢中に走る碧を止められなかったのだ。茜音のことなんかほんの一瞬も頭を過ぎらず、ただ榛名だけを目掛けて走っていく碧はあまりに眩しくて、愛しくて、止められるはずがなかった。
透はくすりと笑う。
「馬鹿ですねえ」
また言ったと抗議しかけたところを鷲掴みにされて、無理矢理腹に押し付けられた。そのまま透はぽんぽんと優しく頭を叩く。茜音は子供の頃によくそうして慰められていたことを思い出して、とうとう手放しで泣き出してしまった。
「ふ、ふら、れちゃ、った」
「そうですねえ」
「好きなの……碧が、好き」
「知っていますよ」
大好きだったんでしょう、と言う声に、芯から震える。
――ああ。もっと、もっと、伝えたかった。
「……とーる……っ」
嗚咽しながら泣く熱のかたまりに、透は眉を下げてひたすら背を撫でさすり続けた。




