第九章・永訣(1)
碧の決意を聞いた茜音は、愕然とした。
「碧が王に……?」
「ええ。既に決断したそうです」
キッパリと透は答える。
事態の深刻さを飲み込んだ茜音は、顔色を変えて透に縋りついた。
「ねえ透、他に何かもっといい方法がないの? そんなことしなくても」
「ありませんよ、そんな都合のいい方法は」
茜音は透の胸を強く叩いた。
「考えてよ! 透、頭いいじゃない。私なんかよりずっとずっと、だから……っ」
「無理です。一番の問題は碧が除籍されていることなんですよ。今の碧は宮において存在しないも同然。まともに行けば次の王は影虎でしょう。いくら出奔中とはいえ、碧のように除籍されたわけではありませんから」
「お兄様が?」
意外だというように目を丸める茜音に、透は呆れて肩を落とす。姫君ともあろうものが、政治への無知を晒している。
「碧の瞳が王になる。これは惟の絶対の掟です。そうでなければ翠の力を信じる民が許さないでしょう。そして影虎が王になれば、宮中は確実に宰相閣下のものになるんです。碧にとって、それでは困るんですよ。唯一碧が出来るとしたら、こんな手段しかないんです。かつて翠が自らの身を偽ったように、碧もまた偽ること。――幸い、公務で顔を出すときは碧が代理をしていましたから、宰相陣営の説得を除けば事は簡単に進むでしょう。影武者が本物にすりかわるだけのことです」
「……どうしてそう冷静に言えるのよ」
眉一つ動かさない透に、茜音は地の底を這うような低い声で唸った。顔を上げると、キッと睨ねつける。
「どうして碧がそんなことしなくちゃいけないの?! お父様が惟を動かしてちゃ駄目なの? 碧じゃなくたっていいじゃない。国なんか捨てたらいいんだわ。簡単だって、そんなはずないじゃない! それって、碧は一生他の人として生きるってことなのに!」
目を濡らして叫ぶ茜音を、透は冷静に諭した。
「ですが、翠もまたそうやって生きていたんですよ」
小突かれたようにはっとして、茜音は唇を引き結んで黙り込んだ。そして小さな声で反論する。
「……そうだとしても、碧が同じようにしなくちゃいけない理由なんてないわ。それに……榛名はどうなるのよ」
「……榛名さんは……もう一緒にはいられないでしょう」
流石の透も、その言葉には俯いて視線を彷徨わせた。透が思わず不憫になるほど、碧が失うものはあまりに多すぎた。
もしも翠が生きてさえいれば、碧には榛名と平穏に生きる未来もあっただろう。元々地位のない身分、どこの誰とも分からない人間を娶っても問題ない――或いはそれをきっかけに宮を離れることさえ出来たのかもしれない。きっと碧とて夢想したことがあるだろう。平凡に、静かに、ひっそりと――けれど心穏やかに、愛した人と生きる未来を。
けれど、今となっては机上の空論だ。夢は所詮、泡沫。叶うことはない。
茜音は顔を覆って呻いた。
「……こんなの、酷すぎるわ……」
か細く肩を震わせる少女に、透は嘆息した。
「……そうです。酷いことをするんですよ。国民を騙して自分も騙して、全てを失くす。碧はそういう選択をしたんですよ」
「透はそれで平気なの?!」
「そういう問題ではないんです」
噛み締めるように透は言った。
平気だとか平気ではないとか、そんな簡単な問題ではない。ただ、それしか選びようがないのだ。碧が宮を保つためにこうするしかないように、透も同じく、黙って見ていることしか出来ない。どれだけ親しくしていようと、所詮透は宰相の官なのだ。手助けは出来ない。ならば、彼の決断を止めることもまた出来ようはずがなかった。
かつて、これほど己の無力を感じたことはなかった。恐らくその悔しさを飲んだのは透だけではなかっただろう。碧の後を追いかけた、影虎の背中が瞼に浮かぶ。
誰も救えない。――過酷な道を選び行く、孤独な王を。恐らく影虎の制止も、碧は聞く耳を持たないだろう。
透は目を伏せて感傷を追いやると、儀礼的に腰を折った。
「翠様は本日、王の姉姫として送られるそうです。せめて最期くらいは本来の彼女として送ってやりたいと碧が言っていました。そしてその葬儀で碧は王として姿を見せます。どうぞ、姫様もご参列下さい」
「お父様は?」
「勿論参列なさいます」
「……反対していないの?」
この質問に、透は思わずしばしの間を取った。
碧からこの成り代わりを告げられたとき、透は宰相にそれを伝える役目を任された。だから侍医を呼びに行ったその足で宰相の元へ向かったのだが、何事かと言った彼の顔は、話を終えても変わらず冷め切っていた。
そして一片の動揺も見せぬまま、宰相は感慨もなく言ったのだ。
――そうか、とだけ。
(何を考えておいでなのだ……あの方は)
長年傍近く仕えているが、宰相の内情は全く窺い知れない。
本来ならばこんな無茶苦茶な提案、唾棄すべきものであるはずだ。それをあっさりと承知するなど、狂気の沙汰としか思えない。王位を狙える、最良の機会だというのに――
その時不意に、透の心臓をこつりと叩く感触があった。
思わず無表情になる透を覗き込むようにして茜音が尋ねる。
「……透?」
透は茜音の顔を見ていなかった。ただ考えに没頭する。
もし碧が王になれば、只でさえ碧を忌み嫌っている御家方は更に反発を強めるだろう。穏健派だった人物さえも、もしかすると宰相派閥へと流れるかもしれない。
宮は荒れ、大きな渦が起きるだろう。誰も逆らえない、大きな渦が。
(……この国を壊すおつもりか)
――惟に復讐したいと言った。恨みのこもったその言葉、透はそれを覇権を手にする意志だと思っていたが、違っていたのかもしれない。今までのことも、宰相にとっては暇つぶしに過ぎず、ただただその身を焦がす恨みの炎のまま、破滅を望む。そんなものに、成り果てていたのかもしれない。
どんどん符号が合っていく。
透は喉を詰まらせた。
――それではやはり、姫君は見捨てられたのだ。
眼前で顔いっぱいに光を満たす、まだ幼い姫の純粋な眼差しに躊躇が浮かぶ。伝えるべきではないだろうか。彼女はまだ十二だ。父親に必要とされていないと知って、どうなるというのか。
――いや、と透は思い直した。彼女は知るべきだろう。それがどれだけ過酷な真実であったとしても、知る必要がある。この宮に生きる人間として、人を統べる立場の人間として。そして、それに耐えられる強さを持っていると透は信じている。
「……閣下は国に興味がない」
「……え?」
きょとんとする茜音の鼻は擦れて赤くなっている。
息を落として透は続けた。
「これは私のただの勘ですが、閣下は既に王位に興味がないのです。望むのは破壊のみです。影虎に興味がないというのも本心でしょう。閣下は惟だけでなく、己が身の破滅すら願っている。――そういう閣下に国を任せれば惟はどうなるか、自明でしょう」
「……でも……お父様が反対なさらずとも、方々が許さないわ」
「そうでしょうね。問題は王になった後です。……その苦難が分かっていても、碧はこの道を選んだんです。榛名さんや影虎が、無事に過ごせるように。何より、この国は翠が命をかけて守った国です。……碧は何としても、最期まで惟を守るでしょう」
「……そう……」
項垂れて、やっぱり、と茜音は小さく呟いた。
「結局お父様は、私のことなんて一度も振り返ってくださらなかったのね。最後まで……」
唯一の異母姉すら失った碧とは違い、宰相にはまだ妻も子もいる。だというのに、宰相の目にはもはや家族の姿など映らないのだ。
碧を宿した兄と違い、茜音は一度も父の愛情に触れたことがなかった。関心を持たれたことすらないかもしれない。そして恐らく、これから先も恵まれることはないだろう。
服の裾でごしごしと目をこすると、茜音は視線を上げた。
「……私……やらなきゃいけないことがあるわね」
凛とした様子に、透は安堵してその腕を取る。目尻は朱を引いたように赤かったが、泣いてなどいられないと前を向こうとするそのひたむきさを微笑ましく思った。膝をついて、目線を合わせる。
茜音はいつもの調子を取り戻そうと、声を張って言った。
「行くわ。準備を手伝って、透」
「はい。姫様」
丁寧に傅くと、少し得意げに彼女は笑った。
*
赤のリボンを結わい、榛名は深く溜め息をついた。
キャラメル色のカーディガンに、赤いリボンのセーラー服。元の世界の制服だ。これを着ていたのはいつのことだっただろうか。思い出をなぞるように丁寧に畳んで、そっと鞄に詰め込んだ。殆ど身一つでやって来た榛名には、旅立ちに用意すべき荷物は少なかった。
鞄に詰め終えると、棚から一つ、花の描かれた蝋燭を取り出す。
これは以前蝋燭屋の店主、アギトから貰ったものだ。
惟では誰かが亡くなった時、七日の間、特別な蝋燭に火を絶やさず灯す。それが故人への追悼の儀式なのだと影虎から教わっていた榛名は、慣れた手つきで蝋に火を点けた。そして灯篭の前に手を合わせる。
これが正しい祈り方なのかは知らない。だが、きっと構わないと思う。下手な作法でも、翠はいつだって笑って許してくれるだろう。
手を解いた榛名に、声がかかる。
「……榛名ちゃん」
面を上げ振り返って、榛名は苦笑を浮かべた。
「これね、アギトさんの蝋燭。きっと翠も綺麗だって言ってくれるよね」
「……うん。きっと喜んでるよ」
梅の花が描かれた蝋燭は芯が太く、恐らく夜まで燃え尽きることはないだろう。放っておいても碧が帰る頃には間に合うはずだ。袴の埃を叩いて榛名は立ち上がった。
「行こっか」
窓から光が差し込んで、足元を明るく照らす。影虎は慎重に問いかけた。
「いいの? もう一回碧に会わなくて」
「……うん。そろそろ式が始まる頃だから」
もうすぐ式典が始まる。翠を送る、最期の別れの式典だ。それに碧は王として参列する。
まだ時間はある。願えば少しの間、話をすることもできるのだろうが、もう伝えるべきことは残っていなかった。
身支度をしながら、榛名はふと胸に当たる熱い感触に気を留めた。衿から引きずり出すと、光り輝く水晶が手のひらに転がり出てくる。眩しいほど真っ白な光に、懐古が過ぎって胸が締め付けられる。
深呼吸して、榛名は水晶をぎゅっと握り締めた。
――けれど奇跡は、起こらなかった。
笑みを形作って、榛名はくるりと回った。
「……もう行かなきゃね」
別れの時間だ。清々しく笑う榛名に、影虎も唇を緩める。
「……それ、初めて会った時の服だ。榛名ちゃん、あの頃よりずっと綺麗になったね」
「冗談ばっかり」
笑いながら、榛名は胸に手を当てた。
「でも、これだけは貰っていこうと思って」
薄く柄の入った桃色の地に、金の蝶の縫い取り。決して派手ではないこの服が、榛名は一番気に入っていた。
『蝶は自らの求める場所を目指して飛ぶという』
蘇る声に、目を閉じる。この服と、お揃いのブレスレット。それだけは、貰っていこう。僅かな時間をともに過ごした、その証に。
(胡蝶の夢だったのかな……全部)
思い返せば、全てが夢のようだった。一夏の、けれど永遠のように思える束の間の夢。だが、その夢に根を張って生きてきたのだと思う。だから後悔はない。何一つ。
戸口に立って、榛名は部屋を見渡した。殺風景なこの部屋は、いつも冷え切っていて人の気配がしなかった。それが今では、主が不在であっても、どこか柔らかな輪郭を宿している。日向の香りをめいっぱい吸い込んで、榛名は深々と頭を下げた。
手の中で、爪が食い込む。
長い時間そうしていた榛名は、にっこり笑って腰を上げた。
(これで本当にお別れだね――みんな)
温かな名残を身に纏って、榛名は部屋を後にした。
榛名たちは大門から帰ることにした。通用門は式典の準備のため、登ってくる人でごった返している。今の時間ならこちらの方が却って人目が少ないはずだと、影虎が睨んだ通り、掃き清められた大通りには人影がなかった。式典が終われば王がこの通りを下って街に行くからだ。
門番のいない朱門をくぐった時、突然、大気を揺らす轟音が背後で鳴り響いた。振り返る、その先には式典の合図である花火が上がっていた。青空に散っては、また上っていく。始まったのだ。
何故かその時になって、はっきりと意識した。
――今、この時から、碧はいなくなるのだと。
足が一歩、宮へ戻ろうとする。ふらりと動く体を、強い力が引き止めた。痛みに振り返れば、影虎が榛名の腕を掴んでいた。
「榛名ちゃん」
「あ……っ」
正気を取り戻して、慌てて手を振った。
「大丈夫、戻りたいわけじゃないから。ただ最後にもう一度、お祈りさせて」
「……うん。分かった」
手が離される。榛名は一歩進み出ると、大きな鳥居を振り仰いだ。
結局、死んだ彼らとその家族に謝罪は出来ずじまいだった。
(わたしがしたことって、何だったんだろうな……)
翠に中途半端な希望をもたらし、碧に絶望的な未来を引き渡して、結局、どう足掻いたって榛名は疫病神にしかなれなかった。
――こんな自分が、碧を止められるはずがない。
こつりと足先に何かが当たる感触がして、榛名は足元に落ちていた石に気が付いた。真っ白な石に、水晶を拾った時のことを思い出して、ふっと頬が緩む。
拾い上げて、鳥居の隅に傷を刻みつけた。
きっと彼は気付かないだろう。忘れているかもしれない。それでもいい。――もう彼は碧ではないのだから、届かなくていい。
ぱんぱんと手を叩いて、榛名は言った。
「本当の本当に、これでお別れだね」
「うん。……あのさ、榛名ちゃん」
遠慮がちに影虎は言った。
「旅をしながら元の世界に戻る方法を探すってことだけど、俺、榛名ちゃんを送り届けたら、ここに戻るよ」
「え?」
「……何年かかるかわかんないから、間に合わないかもしれないけど。……今度こそちゃんと、碧の力になってやりたいから。勝手に決めちゃってごめんね」
暗い顔をする影虎に、榛名は激しく首を振った。
「ううん! 嬉しいよ。わたしからもお願い、影虎、碧の力になってあげて。わたしには出来なかったから」
「そんなことないよ」
「……ううん、わたし、本当に何も出来なかった。碧を不幸にしただけだよ」
「それは絶対に違う」
影虎は力強く否定する。
「榛名ちゃんがいて、碧は救われたんだよ。碧は変わった。それがこの結果になったんだとしても、碧にはきっと必要なことだったんだよ。それに、俺も」
するりと手を取って、影虎は柔らかく微笑んだ。
「榛名ちゃんのおかげで、碧に向き合えた。もう一度ここに戻る勇気が出た。だから、ありがとう。あのままだったら一生後悔するはめになってた」
榛名は笑ってそれには答えなかった。
手を繋いだまま、二人で空を見上げる。とうとう花火は終わった。
「行く?」
「……うん」
踵を返し階段を一段下りて、榛名は心の中だけで囁いた。
(さよなら……碧)
不思議に、背中から柔らかく包まれるような温かさが広がって、碧の声が聞こえた気がした。とても優しい声音で、さよなら、と。




