第七章・恋心(5)
焦燥は風となって馬上の碧の頬を切るようになぶった。
焦りは禁物だと、分かっていても手綱を取る手はかたくなる。
――あれから、影虎に探らせた飛燕から情報が入った。鳴通りを真っ直ぐ西南、湖の方角へ向かう馬車を見かけたと。惟では馬車は高級なもので、滅多に見かけるものではない。これで可能性は更に高まった。
(榛名――無事でいてくれ)
碧は祈るような思いで名前を呼び続けた。
水泡のように浮かぶのは、彼女の柔らかい笑顔ばかりだ。彼女はいつも、ふわりと穏やかに微笑んでいる。しかしそれが時に薄氷よりも容易く叩き壊れることを、碧は知っていた。何度も何度も、そうやって人が壊れる様を見てきたのだから。
急いているのは碧だけではなかった。普段の飄々とした態度をかなぐり捨て、影虎もまた無心で馬を飛ばしていた。
はやく。はやく。はやく。
どれだけ馬を駆っても、心はそれを先んじていた。
森はそう遠くなかった。木々が濃くなる手前、湿った大地に残された車輪の跡や人足によって踏み荒らされた跡に、二人は言葉なく了解を示し、その場で馬を乗り捨てた。
そこからは、ただひたすらに木々を掻き分けながら走った。揺れる帯玉がチリチリと高く鳴る。
(榛名――)
小屋の輪郭が見え、その前に立ち塞がる男の姿を見た時、浮かんだのは何故か歓喜だった。
その姿を認めて、誰よりはやく影虎が前に躍り出ると、音もなく終わらせる。
「碧!」
頷いて、碧は腰刀に手をあてて扉を蹴破った。
暗い部屋に、光が差し込む。
まず初めに見えたのは、椅子に座り込んだ、萎れた花のような榛名の姿だった。
血で汚れ、引き裂かれた服から垣間見えるのは、白い太ももではなく、赤黒く腫れ上がった細い手足だった。
ぷつり、とどこかで音がする。
碧は怒号を上げて斬り込んでいった。
無意識のうちに体が動いて、相手が何人いたかさえ覚えていない。まるで怒りだけで動く繰り人形になったかのようだった。刀を翻すたび血がしぶいて、跳ねた血が碧の瞳を濁らせていく。目の前が真っ赤になって――何も見えない。
「碧っ!!」
弾かれたように振り返ると、影虎は呆れたような顔で立ち尽くしていた。
正気を取り戻してあたりを見渡すと、男が三人、呻き声をあげながら血海の中でもがいていた。
「やりすぎ。落ち着けよ」
「……榛名は」
慌ててそう問うと、大丈夫だと言わんばかりに影虎は深々と頷いて、榛名を拘束していた縄を掲げた。どうやら碧が暴れている間に、彼は榛名を解放してくれていたらしい。
碧はすぐさま榛名に駆け寄って、その小さな手を取った。見れば見るほどひどい有様だった。頬にも腕にも、体中に殴打された跡があり、中には切り傷も少なくなかった。腕は逃げ出そうと必死だったのか、擦り傷に血が滲んでいる。堪えきれない気持ちが込み上げて、碧はひんやりとした手を温めるように包み込んだ。
――痛かっただろう。辛かっただろう。どれだけ助けを待ち望んでいただろうか。
「……済まない、榛名……」
間に合わなくて。助けてあげられなくて。
落胆に沈む碧の肩を、影虎が軽く叩いた。
「落ち込むのは分かるけど、間に合っただけでも幸運だよ。そう思おう」
そう言って胸の結紐を解くと、自らの羽織を榛名に着せかけ、影虎は窓の外遠くを睨みつけた。
「……悪いけど碧、榛名ちゃんのことは任せていっかな。こいつらは俺が何とかするから、先に連れて帰ったげて」
「それは構わないが、お前はどうするんだ」
「このへんに何か手がかりがないかちょっと探してくる。それに榛名ちゃんにこの惨状を見せるのはあんまりよくないでしょ」
「……確かに、そうだな」
視線を配りながら、碧は肩を落とした。ただでさえ消耗している彼女に、この光景は追い討ちをかけるようなものだろう。
「んじゃま、こいつらはとりあえず縛り上げとくわ」
そう言って、影虎は手際よく三人まとめて縄で縛り上げると、外の木に繋げた。
そうして小屋の前に繋がれた、彼らが使っていたであろう馬にひらりと跨ると、「じゃあ」という一言だけで、余韻すら残さず走り去っていってしまった。
あまりの手際のよさに呆れながらも、何故かその時、碧は時の流れと影虎の変化を感じた。あの鮮やかな手腕は、恐らく飛燕としていくつもの修羅場をくぐり抜けて身に付いたものだろう。影虎が宮を出た、あの時から二人の道は明確に分かたれたのだ。
緩くため息をつくと、頭上から微かに呻き声が聞こえた。驚いて見上げた碧の、握り締めた手に思わず力が入る。
「榛名?」
呼びかけに反応して、とろりとした瞳が開かれる。
ゆっくりと瞬きをするたび、最初は淡かった色が次第にはっきりとして、濃い輪郭を持って碧を見つめた。
「……あ、お?」
夢か現か判断できずにいるような榛名に、碧は涙を滲ませて笑いかけた。
「榛名」
碧の言葉に、現実だと分かったのか、榛名の目にみるみる水膜が張られる。それが決壊したと同時に、ふらりと大きく体が揺れて、碧は慌てて抱きとめた。
細い肩。細い首。触れたところからそれが伝わってきて、碧は瞠目した。この細さで、これだけの痛みに耐えたのか。
「あい、たかった」
しゃくりあげる榛名の声。碧の肩が涙で濡れていく。
力の限り抱きしめてしまいたい衝動が、チリチリと耳たぶを焼いた。
それをぐっと嚥下して、碧はそっと手を伸ばすと、壊れ物を扱うように榛名を胸に迎え入れた。
「俺も、会いたかったよ。会いたかった」
ずっと、ずっと前から君に会いたかった。
碧は少し身を引くと、赤く腫れた榛名の頬をそっと撫でて、囁いた。
「……済まない。遅くなって、ひどい思いをさせた」
それを聞いて、榛名は涙を振り切るように強くかぶりを振った。
「いいの。碧が来てくれたから。もう、それだけでいいの」
碧は困ったように笑った。そんなことを言われたら、また衝動がやって来てしまう。
それと知らぬ榛名は、碧の胸にそっと頬を寄せて、囁いた。
「あのね、碧。わたし、決めたんだ」
「……何を?」
榛色の髪を撫でながら問いかけると、笑いながら、けれどはっきりとした口調で、榛名は言った。
「わたしね、もう帰れなくてもいい。――ここで、碧と一緒に……生きていきたい」
碧は一瞬、言葉を失くした。
嬉しさとも、悲しみともつかない、表現できない感情がこみ上げてくる。
――きっと自分は、生涯彼女の覚悟の重さを知ることはないだろう。こんな目にあって、それでもなお碧と一緒にいたい、自分の世界を捨ててでも一緒にいたいと言えるなんて。
碧は彼女がどれほど帰りたかったか知っている。それを悟らせまいと努力していたことも。それでもこの危険な場所を選ぶなどと、決して容易いことではないはずだ。
途方もなく弱く、途轍もなく強い。こんな人間を、碧は他に知らない。
脳まで突き上げる衝動に、今度こそ碧は勝てなかった。
息を吸って、思いの強さの分まで抱き締める。細い体は碧の胸にすっぽりと収まって、弱々しくもぎゅっと碧の背に腕を回してくれた。
(翠、許してくれ)
碧は噛み締めるように言った。
「絶対に、もう二度と離さない」
これが正しいのか、碧には分からない。
碧には翠がいる。他にも大切な人間がいる。
――榛名を好きになってしまってはいけないと、分かっている。
「榛名――」
それでも。
「お前が、大事なんだ。お前が嫌だと言っても、俺はもうお前を手放せない。きっと」
驚いたその顔に、そっと触れる。
得難い人。大切な人。――失うことが、耐えられないほどに。
「ずっと隣に、いてくれ」
彼女はいつか帰る人間だった。だからこそ傍にいることが出来た。
けれど本心では、ずっと恐れていたのだ。こんなに大切な存在になってしまったと――好きになってしまったと、認めることを。そうした瞬間から、碧は翠のためだけに生きることが出来なくなる。榛名のことも、碧の業に巻き込んでしまう。
それでも、もう止めることは出来なかった。
(人を愛するということは、誰かを大切に思うということは、弱くなるということだ。だが)
命懸けでも、愛しているのだと。
触れたときからきっと、分かっていた。




