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碧の瞳  作者: 古瀬ヒイロ
本編・胡蝶の夢
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第七章・恋心(4)

 ゆっくりと瞼を開いて、まず最初に感じたのはけだるさだった。瞬きする瞼さえ鈍重で、意識は緩慢に目を覚ます。微睡みの中、何とか頭をもたげ、ようやく榛名は目の前の男たちに気がついた。

 ぼんやりとしている榛名に、ふっ、と向かいに座っていた男が声を漏らす。

「起きたようだな」

 暗闇から現れたその巨体に既視感を覚える。

 記憶を探って、榛名はようやく気がついた。と同時、顎を強引に鷲掴みされる。

「思い出したか? 何が起きたか」

 屈辱的な行為に、憎しみを込めて見つめると、男は小馬鹿にしたように口の端を持ち上げた。

「……あの人は、どうなったの」

「さてな。運があれば無事だろう」

 そこで、下卑た笑い声が二人の間に割り入った。

「てめえ人のこと心配してる場合かあ?! お前、今捕まってんだぜ? これから何が起こるか分かってんの?」

 けたけたと笑うのは、巨躯の男の後ろにいる一番小柄な青年だった。細腕で少年のようにも見えるが、目の奥にはぎらぎらとした光がある。

 大男は横槍に眉一つ動かさず、懐から小さな瓶を取り出し、それを榛名の口に無理矢理突っ込んだ。アルコールのような独特の味がして、咽せそうになるのを力ずくで押さえつけられる。喉が動くのを視認して、ようやく男は榛名の顎から手を離した。

「気付け薬だ。少々の拷問で気を失ってもらっては困るのでな」

 げほげほと咳き込みながら、榛名は尚も勝気に顔を上げた。

 体は椅子に括りつけられ、腕は後ろ手に縛られている。何重にもなった縄は強固で、動いても傷が出来るばかり、緩む様子はまるでなかった。血が滲みだして、ようやく諦める。

 状況を知ろうと、榛名は周囲を見渡した。どこかの山小屋だろうか。八畳ほどの小さな部屋に、机や椅子、寝台など生活に必要なある程度のものが備えられていて、ロフトのような二階にはよく分からない器具が積まれている。小さな窓からは鬱蒼とした森が覗いていて、助けが簡単には来ないことを示していた。

 相手は男三人。少女を誘拐するにはそれで十分だっただろう。外に何人かもいるかもしれないが、主だった人物は間違いなくこの三人。主犯格と思わしき巨体の男。小柄だが一番危険そうな男。そして、一言も発さず冷静にこちらを観察している男だった。

「さて――」

 榛名の目の前に椅子を持ってきて、巨体の男がどすんと腰を落とす。やはり彼がリーダーらしい。勿体ぶった話し方をする。

「お前には聞きたいことがある。素直に吐けばよし。そうでなければ少しばかり痛い思いをしてもらう」

 ぐっと唇を噛む。すると、彼の右に立つ小男がにたりと哂った。

「回りくっでぇなー、ヨルドさん。少しばかりじゃなくてけっこーっしょ? そのための薬だったんだよ。ちょっと刺したり切ったくらいじゃ気絶しねえようにさあ」

「キール」

 そこで初めてもうひとりの男が声を発した。睨み据える青灰の瞳に、キールと呼ばれた男は大っぴらに舌打ちした。

 主犯のヨルドという男が一度大きく息を吐いて、再び榛名に向き直る。

「それではまず問おう。お前は何者だ。この国の人間か?」

「……規藩の出身です」

「嘘はつかぬ方がいい。お前が規藩の人間でないことは既に知れている」

 榛名は瞠目した。――榛名が自らを規藩の人間だと名乗った人間は数が知れている。蝋燭屋の店主と、宰相。それだけだ。この誘拐の犯人は宰相――分かっていたはずの事実に、それでも打ちのめされ、榛名は項垂れた。

 ヨルドは構わず尋問を続ける。

「お前、母君の縁だと言って陛下に擦り寄っているようだが、どうやった」

 榛名は沈黙したまま顎を背けた。

 擦り寄ってなどいない。偶然に出会い、偶然にともにいる。それだけだ。

 ひゅっ、と風が鳴る音がして、頬に衝撃が走った。横ざまになだれる体を縄が止(とど)める。

 それでも榛名は頑なに、決して一言も話そうとはしなかった。空気が苛立ちに沸き立っていく。

「……質問を変えよう。お前は陛下にとって価値ある人間か?」

「か、ち」

 顎が痺れて、言葉が途切れる。

 ――碧にとって、榛名は一体何なのだろうか。

 もう何度となく思った、自分は弱く知恵もない。碧にとって、リスクでしかない存在だ。現にこうして、碧を待っている僅かの間に簡単に誘拐される。足でまといになる。

 涙が滲む。痛みからではない。悔しかったからだ。

 秘密を知った今、碧にとって、碧の瞳である碧にとって、榛名は不要であるはずだ。翠の死期をどうにか伸ばしてあげられる知識など、これっぽっちも持っていないのだから。

 それでも傍にいるのは。

 それを選んだのは。

「かち、なんて、ない」

「では何故ともにいる」

「……それは」

 折れかけた心が、ゆっくりと束ねられていく。

 碧の答えは知らない。けれど、榛名の答えはきっとずっと前から榛名の中にあった。

 帰りたいからとか、そのために必要だからとか、そんなことじゃない。

 もっとわがままで、単純なことだ。

 榛名はただ――

「わたしは」

 湧水が噴き出すように、力がこみ上げてくる。凛と前を見据えて、榛名は言った。

「あなたたちの利益になるようなことは、何一つ言わない」

 瞬間、熊のような手のひらが飛んできた。

 爆発が起こったように目の前が真っ白になる。

 チカチカする視界の中、それでも意識が弛まないのは薬のせいだろうか。

 ならば好都合だと、榛名は笑った。――それならば、自分を保っていられる。負けないでいられる。どれほど痛くても、碧の不利になることを話したりしない。

 腕に、腹に、足に、痣が増えていく。

 何度殴打されても、痛みに嘔吐しても、榛名はめげなかった。どんな目にあっても口をかたく引き結んだ少女に、男は肩で息しながら呆れ声を上げた。

「……大した根性だ。薬で痛みも明瞭だろうに」

「ヨルドさん、俺がやろうか?」

 けたけたと残忍な哄笑とともに、キールが近づいてくる。その手にはナイフがあった。青く閃いたその光に、流石の榛名もびくりと体を震わせる。その怯え方が愉快だったのか、にたりとしてキールは大きくナイフを振りかぶった。

 反射的に目を瞑る、榛名の太ももの隙間に衝撃が突き刺さる。

 椅子に深々と刀身の埋まったナイフを見て、さぁっと血の気が引いた。

「ひゃはっ!」

 キールはそのまま袴を引き裂いた。掠めた刃が膝に傷を作る。ナイフの鋭利さに怯える榛名に、キールは顔を寄せて、わざと息を吹きかけた。

「今度はほんとにやっちゃうよ? ぶすぶすっと二、三回……何回持つかなあ、お前。あ、それともその前に手っ取り早くヤっちゃう? そしたら口も軽くなるかもねぇ」

「止めろ、キール」

 水を差され、キールは眼光鋭く振り返った。

「なぁにつまんないこと言ってくれちゃってんの? レイ。いい子ぶってんじゃねえよ」

「分別を持て。今回は対象を死なせては意味がない」

「ちゃぁんと死なないようにやるって。要は喋らせりゃいいんでしょ?」

「もし本当にこの少女に価値があれば、不用意に庇護者の怒りを買うぞ。どう処理するかは上が判断する。俺たちはただ判断が下るまで、支障なき拷問を行う――それが今回の仕事だ」

 静かだが、睨み合いは火花を散らしていた。水面下での争いに、ヨルドの一喝が終止符を打つ。

「仕事中だ。内輪もめするな」

 ちっ、とキールは首を竦めて退散し、寝台にどかりと腰を下ろした。

 当面の恐怖が去ったことに榛名は安堵したが、真っ赤な目が変わることなく榛名を狙い続けていることに気付き、ぞっとした。あれは血を嗅ぎ分ける獣だ。人の肉が裂かれる瞬間を愉しんでいる。

 必死に保っている芯が突き崩されかける、その瞬間、ヨルドは言った。

「――お出ましのようだ」

 光が差し込んで、榛名はゆっくりと頭を持ち上げる。だが、それが救いの光明でないことは一目瞭然だった。

 コツ、コツ、と、硬い足音が榛名の前で止まる。

 琥珀の冷たい瞳が、榛名を高々と見下ろした。

「……随分頑固なようだな」

 声も出なかった。

 ――信じたかった。どこかで信じていた。あの温かい影虎の父親が、これほどに非道ではないはずだと。しかし、傷だらけの榛名を眼前にしてもなお、その瞳には汚物を観察するような冷酷さしかなかった。

 すい、と指先で顎を掬い上げられる。宰相は皮肉げに嗤った。

「榛名と言ったか。……意外そうな顔だな」

 その面差しはどこか影虎に似通っていて、それが尚の事堪えた。

 涙を飲む榛名を見て、くつくつと喉を鳴らす。

「悔しいか? ――無力なことだな。碧がいなければ、お前には何の力もない。私に拉致されたと訴えても無駄だ。身元も分からぬ女の証言を信用する人間などいない。それも、生きて帰れたらの話だが」

 ――悔しい。悔しい悔しい悔しい。

 こんな人にいいようにされるなんて。自分の無力が悔しい。

 宰相は薄ら笑いを浮かべ、感情の露な榛名をとくと検分する。

「平凡な女だ。――これのどこが碧の琴線に触れたのだろうな」

 近付く体が露出した足に触れ、怖気が走った。生理的な恐怖に震える榛名に気が付いて、宰相は身を引いて告げた。

「そなたが生きるか死ぬかは、そなたが悧巧か否かにかかっている。沈黙は死と心得ておけ。そう時間をかける気はない。粗方拷問は受けたようだしな――私からの問は一つだけだ。そなた、何のために碧とともにいる」

 何のために。茜音にもそう聞かれた。何のために碧と一緒にいるのか、と。

 けれど、もう迷いはなかった。

 榛名は真っ直ぐ答えた。

「わたしがただ、碧が好きで、一緒にいたいから。それだけです」

 あまりに揺るぎない眼差しに、宰相は一瞬気圧される。

「愚かな。――そなたは何も分かっていない」

「はい。その通りだと思います。わたしは影虎たちみたいに碧の全てを知っているわけじゃない。それでもわたしは」

 言葉を遮って、軽い音が頬を叩く。

 榛名は俯きながら、痛みよりも、自らの中に決して消えない火が灯っていることを感じていた。

 いつか帰る、ずっとそう思っていた。そのために泣いたこともあった。家族や友達に会いたくて、思い出の品を捨てるだけで身を裂かれるように辛かった。

(けど、ごめんなさい。わたし――もっと大事なものを、見つけてしまった)

 捨てたいわけじゃない。けれど、これが一生の恋だと思うのだ。

 過ごした時間は僅かだけれど、惹かれるには十分だった。

 目を閉じていたって、碧を感じる。いつものように、少し呆れたような笑顔で、手を伸べて待っている。

 命取りでもいい。一人痛みに耐える時は寄り添って、幸せに笑い合えるときはともに傍にいたい。

 ――榛名は碧が好きだ。だから、一緒にいたい。何を捨てることになっても。

 宰相は苦々しく顔を歪めて、榛名の胸ぐらを掴んだ。

「そなた、分かっておらぬようだな。碧は他人に情をかけるような男ではないぞ。人を切り捨てることなど造作もない、私と同類の人間よ」

「違う」

「あやつの手にかかった人間は数知れぬ。そなたが知らぬだけだ」

「それでもいい!」

 腹の底から榛名は叫んだ。

 分かっている。初めて会った時、問答無用で殺しにかかってきた、あれも碧の一部だ。冷酷で、翠のためなら人殺しさえ出来る――碧はそういう人間だ。

 けれど、決して心痛めていなかったわけではない。あの瞬間踏み止まったのも、泣き出した榛名にほだされたのも、巴のことを捨て置けなかったのも、王座を奪った翠や逃げ出した影虎を決して恨まないのも、同じ碧なのだから。

 唐突に突き飛ばされて、椅子の足が床を引きずる。

「――そなたとはどうあっても分かり合えないようだな」

 咳き込みながら、榛名は宰相を睨みつけた。苛立っているのは宰相も同じで、険しい視線が返ってくる。

 宰相は身を正すと、踵を返して、榛名に最後通告を言い渡した。

「では、本当に碧が助けにやって来るのかその身をもって試すがいい」

 ギイ、と、扉が閉じられる音が、やけに耳に残る。

 同時に、言葉の意味が浸透して、慄然とした。助けが来るはずがない。こんな森の中、誰が探し当てられるというのか。

 ――どうとでもなれと、そういう意味だ。

 ヨルドたちは顔を見合わせた。誰より歓喜に沸き立ったのはキールだった。

「なあ、もうこいつは用済みだってことだよな? 好きにしていいんだよな?」

「そういうことになるな。金払いのいい仕事を貰ったもんだ」

 レイだけは気乗りしない様子だったが、止める気もないようだった。一歩引いてこちらを見つめている。ふらつきながら見返すと、何故か僅かに微笑んだ。

(……終わりっていうことなの、かな)

 キールは真っ赤な舌をちらちらさせながら、ナイフを近づけてきた。頬に冷たい感触が当たる。

「さぁって、どうしよっかな? まずは手か、足か、顔か……薄皮を剥ぎながら拷問してあげようか? それとも爪がいい?」

 首の薄皮から、血が玉になって滲み出す。

 がくがくとみっともなく足が震えているのを、キールは笑った。

「あんだけ気丈にしてたくせに、死ぬってなった途端これかよ! アハハッ!」

 乱雑に袴が裂かれる。もはや太ももの丈までしかないそれに、じんわりと赤い染みが広がっていく。

 怖い。死にたくない。けれど、榛名はもはや殆どまともな思考が出来なくなっていた。薬の効力が切れてきたのだ。今まで与えられた痛みが全身を襲い、痛覚が意識を混濁させていく。

 足元に迫り来る影を見つめながら、ぎゅっと拳を握り締めた。

 左手には影虎の。右手には碧の。

(それでもわたし……後悔しないよ。碧に出会ったことも、こうなったことも、全部)

 目を閉じる。

 そこには碧がいた。最初から、最後まで。

 そっと手を伸ばすと、確かな温かさが、榛名の手を掴み取った。

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