第一章・奇跡(3)
榛名が落ち着いて、碧は一安心したようだった。普段は強気の彼だが、どうも女性の涙には弱いらしい。泣きすぎて目を真っ赤に腫らした榛名より、よっぽど彼は疲弊していた。
あまりの有様に貸してもらった手拭いで顔を拭いていると、碧が問いかけた。
「ところでお前、今齢はいくつなんだ」
「ヨワイ? ああ、えーっと、年齢のことだよね。今、十五歳。碧は?」
「だから、様をつけろと言っているだろう。……俺は十八だ」
「……年相応に見えるような見えないようなかんじだね」
見た目からの推測は当たっていたらしい。この過剰に尊大な態度は、とても十八とは思えぬ振る舞いだが。
ふん、と鼻を鳴らして碧は顔を背けた。さらさらと耳飾が鳴る。榛名は思わずその秀麗ないでたちを観察した。口を開きさえしなければ、碧はきっと女の子の十人中十人を魅了しただろう。あんなに恐ろしい目に合わされた榛名でさえ、その美貌には素直に頷ける。鼻筋はすっと通り、切れ長の目は涼やかで、肌は抜けるように白い。何より、一度見たら忘れられない瞳の色。
「ねえ」榛名は何気なく聞いてみた。「その瞳の色って、ここでは一般的なもの?」
突然、碧はびくんと体を震わせた。はっと振り向く彼の顔は、怒りとはまた別のものを浮かべていた。戸惑いや、緊張や驚き、苛立ち――色んなものがないまぜになった表情。
榛名は何か悪いことを聞いてしまったのかと榛名は思わず身構えた。榛名はこの世界で碧と小太りの人しか未だ出会っていない上、小太りの人はあれからすぐにどこかへ行ってしまって、まじまじと見ることなどなく、瞳の色など勿論見ていなかったので、単純にこんな綺麗な色をみんなが持っているのなら素敵だなと思って聞いただけだったのだが。
「とぼけている、わけでもなさそうだな」
碧は表情を曇らせて肩を下げた。
「普通はお前のように、茶色だな。それか赤銅。……大体赤や黄色、それに類する色が多い。あるいは黒だ。他国からの移民なら灰色や空色もいるが……髪も似たようなものだ」
榛名はそれ以上深く聞かなかった。彼は彼なりに珍しい色で嫌な思いをしたことがあるのかもしれない。ただ綺麗だと思ったからなんてあまりに短慮だったとしょんぼりして小さくなった。
しかし、榛名の質問は思わぬ効力をもたらしたらしい。碧は少しだけ榛名の話を真面目に聞くようになったのだ。
「惟はここらでは一番大きな国だ。元々農耕が盛んだから豊かで、土地も広いぶん人も多い。翠王陛下の賢政から他国に攻められることも少ない。周囲は戦争で疲弊していたり、資源の少ない小国が多いということも勿論あるが……海も近く防衛にも優れて、立地には恵まれていると言えるな」
碧は惟の色々な話をしてくれた。思い出したことを取り留めなくといった風だったが、榛名にはとても興味深かった。
「じゃあ、旅するにも何するにも、ここが一番安全なんだよね」
「他国に比べればの話だ。物盗りがいないわけではない」
榛名はぎょっとした。物盗り――榛名のいた世界では、およそ発したことのない言葉だった。強盗や恐喝や、そういうことは確かにあるが、いつも隣り合わせに感じられるほど逼迫した問題ではなかった。ここではそれがあって当たり前なのだと、改めて恐ろしくなった。
「……あの、じゃあどうしたらいいのかな……」
「情報が一番集められるのはこの首都だろうな。他はあてになるとしても港の近い宗藩くらいだろう。安全においてはこの宮が一番だな。街の治安も悪くはないが、こことは比べようがない」
「じゃあこのままここにいたほうがいいの?」
「そうなるな。それに一人でお前が街に出ても、その調子なら暮らしていくのもままならないだろう」
「それは……確かに」
今の榛名では着替え一つまともに出来ない。
榛名は少し安堵した。街に放り出されても何も出来ないのでこれは導き出される当然の結論なのだが、この碧という人物が榛名には今ひとつ信用ならないというか、突然何の断りもなく榛名を放り出しそうに思えたのだ。
それにこれは榛名の直感なのだが、解決に向かう鍵はこの宮殿にあるような気がした。そもそも、突然あの部屋から飛ばされてきたのだのだから、物語のようにどこか旅に出て仲間を得、そのうち賢者に出会い元の時代に帰してもらえるというのは、どうにも都合がよすぎてあり得ない気がする。それでなくとも旅は止めておこうと榛名は心に決めた。特に武術を習っていたわけでもないごく普通の女の子である身に旅は過酷すぎる。
「……まあ」
碧はすうっと空気を吸い込むと同時に声色を切り替えて呟いた。
机上の小さな炎が突然しぼんで、かすかな白い煙とともに燃え尽きる。碧が立ち上がって、刀を手にして僅かに笑った。
「ここにも危険がないわけではないのだが」
「!!」
驚愕する榛名に構わず、碧は刀を鞘から引き抜く。青白い輝きを再び目にして心臓がぎゅっと縮んだ。碧は榛名を覆い隠すように椅子の真横に立った。
「動くなよ」
その一言の直後、衝撃が耳に響いた。思わず榛名は目を閉じる。
金属が激しくこすれあう音に、恐る恐る目を開けると、碧はいつの間にか白い覆面をした人物と刃を交え、組み合っていた。先程の衝撃音は、碧と相手が大きく踏み込み、かつ刃をかわしあったかららしい。榛名は息を呑んだが、碧に言われたことを思い出し、意地でも動きませんとばかりに必死で椅子を掴んだ。
覆面の男は、頭は布を巻いて帽子代わりにしていて、口元は布きれをマスクとしてはためかせていた。隙間から覗く獲物を狙う虎のような厳しい眼差し。明確な殺意が、そこにあった。思わずぞくりとする。
結んだ剣を解いて、二人はもう一度距離を取る。ほんの一瞬見つめあって、碧は恐ろしい速度で再び向かっていった。無謀とも思えるが、その速度は相手を圧倒していた。重なり合った二人の間から血がしぶくのを見た瞬間、榛名は更に強く椅子を握り締めた。必死で声を堪える。今にも叫びだしそうなのを、何とか留めていた。
「このっ」
肩に傷を作った覆面の人物が、再び碧に刀を振り上げた。完全に無防備の碧を見て、榛名は思わず恐怖で目を閉じた。――刺される!
何度か揉み合いの音が聞こえてきたが、榛名は何があっても見るまいとしていた。もうこんなところ嫌だ。散々だ。帰る、絶対に帰る。椅子の固い感触だけが榛名の味方で、握り潰さんばかりに掴んでいた。
しばらくして、暗闇の向こうから声がした。
「もう目を開けてもいいぞ」
そう言われても、榛名は目頭に力を込めていた。意地でも見るものかとしていたが、もう一度鈍い音がして、怒られたのではないかという思いからやっとまぶたを上げた。
実際、碧は怒っていたわけではなく、それどころか榛名のほうを見てもいなかった。つい先刻前榛名に行ったのと同じく、彼は刺客の腹上に馬乗りになっていた。容赦なく首を締め上げるので、布切れの向こうで、男性は苦しみもがいていた。
よく見ると、碧の体に傷はなかった。床に転がっている小さな懐刀を見て、それで攻撃を防いでいだのだと分かった。
「全く、何も今来なくてもよかろうに……」
余裕綽々の微笑は艶やかで、この上ないほど嫌味ったらしい。相手は憎らしげに唸ったが、碧はすっと目を細めた。
「一晩に二回の襲撃、これを別の人間と見る奴はいなかろう。言え。刺客の黒幕は誰だ」
少しだけ首元を緩めると、覆面の男性は笑った。咳き込みながらも、息も荒くいびつな笑い方で、それが不気味に映った。
「陛下だよ……翠王陛下だ」
碧がさっと閃くように怒りに包まれた。それまでは慣れた様子で、楽しんでいるようにすら見えたのに、一気に目の色を変えた。炎に身を焼かれているような溢れ出る怒りに、榛名は青ざめた。再び首に力が入る。今度は相手を拘束するのではなく、死んでも構わないと思っている力で。ごぼっ、と鈍い音が喉を鳴らした。
「言う気はない、と言いたいのだな」
碧は冷ややかだった。どこまでも底のない残酷な目で見下ろすと、低い声で告げた。
「……ならば、死ね」
「や……、めてっ!」
刀が振り上げられた瞬間、榛名は何も考えず反射的に飛び出した。もぎ取る、という表現が正しく似合う。理屈などなく、乱暴に腕を目掛けて突進し渾身の力でしがみついた。碧が一瞬、敵意に満ちた目でこちらを睨む。けれど放すわけにはいかなかった。
振り切ろうとするなめらかな流線を描く腕は、見た目よりもよっぽど力が強かった。細身に思える体つきだが、鍛え上げられ無駄な肉は一切ない。よくよく見れば、その腕には小さな古傷が薄く、花びらが散ったあとのように大量についている。それに気付いて榛名ははっとした。
「や、め……」
そう言葉にしようとすると、再びまぶたの奥がつんと痛んだ。
「やめて……」
「……お前」
碧のその一言が聞こえた瞬間、榛名は吹き飛ばされた。どだん、と鈍重な音を立てて床に転がる。咄嗟に手をついたが、肩を強かに打ちつけて、痛みのあまり即座には動けなかった。慌てて顔を上げると、碧もまた床に尻餅をついていた。
その隙をついて、既に覆面の男は窓から飛び出していってしまった。その後姿は二人とも目撃していて、榛名は声をあげたが、追いつけるはずもなかった。ここは平屋建てのため逃げ出しやすいのだ。
――どうしよう。取り逃がしてしまった。
碧を止めたけれど、逃がしたいと思っていたわけではない。ただ、これ以上血を見たくなかっただけで。
けれど碧は何事もなかったかのように軽く息をつくと、足元を払いながらゆっくり起立した。もう追いかけるつもりはないようだった。
「……すまないな。怖い思いをさせてしまったんだろう」
碧はやけにすっきりした声で榛名に話しかけた。怒りは鎮火したようで、榛名は体の力がへなへなと抜けていった。へたり込む榛名に碧は少しだけ苦言する。
「だが、あれは無謀だぞ。飛び込んできて、お前が怪我するところだった」
「ごめんなさい……」
自分でも、あんな風に突然体が動くとは思わなかった。あれほど恐ろしかったのに、どうして飛び出していけたのか榛名にもよく分からなかった。
碧には長くお説教するつもりはないようで、励ますように言った。
「よくあることではない。気にするな。今後遭遇することはないと思う」
そう言いながら、碧は榛名の体を座った状態に起こしてくれた。よく見ると、榛名の手には転倒したときに擦り傷が出来ていた。認識した瞬間じんわり痛みが広がったが、これだけで済んだなら上出来だろう。あわや人が目の前で殺されるところだったのだから。
部屋には張り詰めたような夜の静けさが戻っていて、ここでつい先程まで乱闘があっていたとは思えなかった。
「さっきのって……あれ……強盗?」
「物盗りなら人がいない隙を狙うものだろう。あれは違う。言っただろう、お前と間違えた刺客がいたと。そっちだ」
「あの人がそうだったの?」
「時間から見ても同一人物が来た可能性は低いだろうな。黒幕は同じだろうが」
「翠王陛下って言ってたよね」
「あれは出まかせだ。暗殺に来た人間が、容易く黒幕の名前を言うはずがなかろう。俺も元々本気で聞き出せるとは思っていなかった。何より、陛下はそんなことをなさる方ではない」
「そっか……」
言われてみると確かに不自然な話だった。宰相側ならまだしも、賢王と名高い翠王が暗殺を企むとも考えがたい。少しほっとした。一度座り込むと、安堵からか立ち上がる力は沸いてこなくなった。気付けば外はわずかに白み、どこかで小鳥のさえずりが聞こえ始めている。
(とんでもない一日だった……こんなところにやって来て、脅されて、襲われて……)
人生の不幸を全て詰めこんだような一日だな、と榛名はしおれた。
碧は刀を鞘に納めると、倒れた椅子を片付け、いくつか落ちてきた本を戻した。そしてふいに腰を折ったまま目を留める。
「おい、お前。荷物が落ちているぞ」
「え?」
碧の声に、榛名はそちらを振り返ったが、あまりの惨状に愕然とした。
榛名があちらから持ってきた唯一の持ち物である鞄が、机の下に荷物を全て吐き出して転がっていたのだ。先程刺客が逃げ出す際にひっくり返したのだろう、慌てて駆け寄って覗き込むと、折り畳み式の手鏡は床に落下した際に衝撃が走ったのか、見事にひびが入っていた。
「ひどい……」
それは飾り気のない半透明のものだったが、シールで飾っていて自分なりに気に入っていた。安物とはいえ少なからずショックで、気落ちする。
仕方なく他に使えなくなったものはないかと、鞄に戻し入れながら確認していった。身分証明に持ってきた生徒手帳。宮殿の様子を納めたカメラ。
携帯は、と探しまわっていると、碧がそれを手に取ってまじまじと眺めていた。携帯をくるくる回して色んな方向から見つめてみたり、ボタンを押すたび返ってくる反応――ライトが点滅したり、待受画面が光ったり――にどぎまぎしている。輝く目はまるっきり子供のそれで、榛名はおかしくなって、彼が満足するまで放っておくことにした。どうせ電波は届いていない。
その間に、次々確認する。ハンカチやお菓子。スケジュール帳に文房具。それとレポートパッド。
(ん? レポートパッド……?)
榛名は手を止めた。少し捲れているページを掴む。ちらりと碧を覗き見ると、彼は未だ熱心に携帯電話をいじっていた。夢中になって反応を楽しんでいる。――今ならきっと気付かないだろう。榛名は平然を装いながら乱暴に飛び出した資料をかき集めた。
レポートを持つ手が小刻みに震えている。ゆっくり深呼吸し、一度息を止め、勢いよく開く。そこにあったものは、やはり榛名の予想を裏切らなかった。
榛名の筆跡で書きなぐられた文字の羅列。参考文献のコピー。使わなかった分も、ご丁寧にパッドに挟んでいる。
惟の国の歴史全てが、そこにあった。分かっている限りの全てが。ぞくり、と背筋に寒気が走った。
ぺらぺらと捲る手が、力を失くしていく。
一瞬、これさえあれば何とかこの時代の動乱を乗り切れるのではないかという希望と自信もにわかにこみ上げた。しかし、帰れるのではないかという輝かしい問いは、別の不安がすぐに上塗りしていった。もし碧がこれを、地位や名誉を目的に翠王に差し出したらどうなるのだろう。いっそ碧でなくても、別の人物でも構わない。誰かがこれを見つけて、翠王に渡したら。あるいは、宰相に渡したら。
――未来が、書き換わるかもしれない。
榛名は蒼白になった。
(書き換わったら、どうなるの)
翠王が死なないかもしれない。暗殺が早まるのかもしれない。どちらにせよ榛名の存在が未来を歪める可能性がある。
それだけは出来ない、と榛名は即座に考えた。
それは神の領域に抵触している行為だ。神の存在を敬虔に信じているわけではないが、歴史という不文律に触れてはいけない。それがこの時代を生きる人のためでもあり、もっと先の未来に生きていた榛名のためなのだ。例えそれでこの国の動乱が防げるかもしれなくても、それが運命なのだから。
(……運命? 本当に?)
考えれば考えるほど、偉ぶった言葉だけで言い訳をしているようにしか思えなかった。
榛名が真に恐ろしいのは、歴史を改変したことでもっともっと先の未来も書き換わり、榛名の存在も消滅するかもしれないということだった。バタフライ現象――本当にそうなるかは分からないが、これは『ちょっと試しに』という軽いレベルの話ではないのだ。
(……怖い。嫌だ……それは絶対嫌だ。無理……きっと……何もしないほうが、この国の人たちのためでもある。私が介入していいことだけ起こるわけじゃないんだし)
そんな榛名をあざ笑うように、もう一人の自分は、あまりのことの大きさに、自分の身の可愛さに、この国の人たちが救われる可能性を自分のいいように解釈して、否定しているだけではないのか――そう、耳打ちする。神の意思に反するというのなら、ここに未来を知る榛名を運んだのもまた神の意思ではないのか、と。
(でもじゃあどうすればいいの。捨てる――ううん、燃やす? でもこれは帰るための唯一の手がかりかもしれない。それに、その現場を見られて怪しまれたらどうするの。最悪わたしっていう存在自体が歴史を変えることもあり得るんだし)
榛名はどれだけ自分が危険なことをしているのか痛感した。ただ違う国にやって来てしまった、それだけではないのだ。
変革――。重大な意味を持って、榛名はここにいる。一気に責任の二文字が榛名の肩にずしりと圧し掛かる。肺が潰れた。
(だ、め。だめ、だ。何が最善か、分からない。分からない以上、当面は隠すしかない……)
またちらりと碧を見て、こちらの様子に気がついていないことを確認すると、さっと鞄にレポートパッドを直した。
「お前」
突然碧が言葉を発したので、榛名は飛び上がった。
「榛名。――だったな」
心臓が一気に音をはやめたため、苦しさで返事はできなかったのだが、碧が気にする様子はなかった。それどころか、どこか途方に暮れたようにぼんやりしている。その姿は、普段の威圧的な態度とは裏腹に少年らしさが垣間見えた。
見交わした目は、何だか寂しげだった。
「本当に、未来から来たのか……」
その言葉は、かつての疑いに満ちたものとは違っていた。碧はこちらを凛と見据える。真摯な眼差しだった。
「お前、未来が分かるか? この国の行く末が」
碧は真剣だった。切実なその様子にまた息が苦しくなったが、榛名は静かに俯いた。躊躇はある。しかし、話すわけにはいかなかった。
「……知らない。確かに、私がいた世界はこの国の未来だよ。だから惟の国のことも、少しは伝わってると思う。でも私は、詳しく知らないの」
喉元から、どんどん底冷えのする心地が広がっていく。けれどそれ以上何も言えずに、榛名は黙り込んだ。
「……そうだな」
碧が自嘲気味に、笑った。
「そう簡単に未来が判れば――誰も苦しまない」
榛名はそう言った碧を見たことを後悔した。見るべきではなかった。嘘をついたときより、もっともっと辛くなるだけだったのに。
その目は悲しげに細められていた。あまりに儚く、あまりに寂寥で、今まで見たどんな表情よりも、彼は悲嘆に暮れていた。世界の不条理の中、たった一人苦しんでいるように。孤独に縁取られたその瞳は、とても遠かった。
(ごめんなさい……)
言葉を発しようとする喉を、反射的にぐっと押さえ込む。
言ってはならない。決して彼に伝えてはならない。この国がどうなるのか、知ったらきっと正義感の強い彼は黙ってはおけないだろう。王に告げるか、あるいは戦うのか。どちらにせよ、逃げてと言っても矜持の高い彼は決してこの国を去ろうとはしないだろう。
(……だからといって、許されない。こんな残酷な嘘)
碧は、恐らく簡単ではないことを榛名のためにやってくれた。得体の知れない人間の身柄を預かるというのは、言葉以上に重たい覚悟がいるものだ。特に榛名は、未来からやって来たなどと言い張っており、この国の文化も歴史も風土も何一つ分からない、赤ん坊以上に手のかかる人間なのだ。露見したとき叱責だけでは済まないだろうと、疎い榛名でさえ薄々と感じ取っていた。
そんな碧の誠意を裏切る――裏切ることしか出来ない、自分を嫌に思う。
榛名は碧を見返した。いつも揺るぎない真っ直ぐな瞳は、今は苦笑めいて揺れていた。
やがてこの国に住まう全ての人々に、平等に理不尽な暴力が降り注ぐ。多くの人が死ぬだろう。碧もこの動乱に巻き込まれ、命を落とすのだろうか。そう思うと、芯が震える。目の前の青年が、自分のせいで命を落とすかもしれない。碧は榛名の恐れには気付かず、視線に気付いてただ見つめ返してきた。その碧い底なしの深さを覗き込み、榛名は自分の狡さを呪った。何か出来るかもしれないのに、何も出来ない。
「……ごめんなさい」
「いや。……俺が無理を言った」
榛名は目を瞑り、そっと喉を押さえて、溢れる感情を堪えた。
そしてしばらく後に、榛名は知ることになる。
二人が出会ったことは決して偶然ではなく、人と人との縁の糸が繋がった瞬間だったことを。