第五章・牡丹(5)
泣き止んでしばらく、部屋に戻ると日は暮れて、碧が帰ってきた。それと入れ替わりに、影虎は飛燕に帰っていってしまった。
本当はまだ碧と二人きりになるのが気まずくて、一緒にいてほしかったのだけれど、それは榛名の事情だ。勝手な我侭で引き止めるわけにいかない。見送るしかなかった。それに、話をするなら二人のほうがいい。影虎がいては何かと聞き出しづらいこともある。そうは思うものの中々端緒が切り開けず、榛名は寝台の上でかたくなっていた。
碧は隣の寝台ではなく、机で本を読んでいた。耳には時折、頁を捲る音や何かを書き留める音が届く。よそよそしい静寂に、かきたてるように不安がこみ上げてきた。
――どうしよう。話しかけ方が分からない。一体今までどうやって碧に話しかけていただろう。全く思い出せない。考えれば考えるほど焦りだけが膨れ上がっていく。
――どうしよう。
居た堪れなくなった榛名は棚から本を引っ張り出した。古びたそれは透から貰った本だ。とにかく何かをしよう。このまま黙っていては不審なだけだ。勢いよく開いて、適当な字句を目で追いかけた。
『わたしは、女です』
『わたしは、十五歳です』
図とともに簡単な言葉が並ぶ。何度も繰り返すが、窮屈な頭にはちっとも入ってこなかった。頭の中はほかの事でいっぱいだ。
話しかけようか迷うたび、指先に力がこもる。
そろそろ碧も眠りにつく時間だ。彼は夜通し本を読んでいることも多々あるのだが、大抵はこのくらいの時間に寝ついてしまう。言うなら今しかない。ぐしゃりと紙に皺が寄った。
『おはようございます』
『さようなら』
『わたしは、』
榛名はそこでぴたりと手を止めた。何と書いてあるのか、よく分からない。先の頁を見てみるが、やはりよく分からなかった。
じっとその文字を見つめて、意を決して榛名は立ち上がった。
「あ、碧」
声が少し上ずる。碧は黒髪をなびかせて振り返った。交わる視線に身構えたが、瞳は冴えて落ち着いていた。
「何だ」
拒絶の色が薄いと見て、榛名はほっと胸を撫で下ろして近づいた。
「あのね、この本、透さんから貰ったんだけど、ここが読めないの」
「……? どこだ」
ずいと覗き込んでくる。ここ、と指差すと、碧は読んでいた分厚い本を退かして、手近から引っ張ってきた紙に丁寧に書写した。
「わたしは、あなたが、好きです」
「え?」
「そう書いてある」
指をさして一字一字、説明してくれる。見ると確かに字の中に『好』に似たものが混じっていた。
「これが、好き?」
「……ああ。お前の言葉では違うのか?」
「えぇとね、かして」
碧の手から筆を受け取った。しかし、いざ筆を持つと、そのたっぷりとした毛並みに筆先が彷徨う。諦めて榛名は片仮名で『スキ』と書いた。このほうが似た漢字がないので、碧も混乱しないだろう。
「これが、好き」
「……難しいな」
「そう?」
「他にはないのか?」
先を促す碧に、目を輝かせて榛名は「えっと、あとこれと」と次々に尋ねた。わたしには分かりません。それは嫌いです。この本はいくらですか。自分の鞄からボールペンとノートを持ってきて、一言一句間違いのないように書き取った。
手を動かしながら、ふと思い出して、榛名はノートに向かっていた顔を上げた。
「ねえ、碧ってどう書くの?」
「こう」
すらすらと書き付ける。『碧』の一字は崩れているもののあまり変化がなく、そのまま『碧』という形だった。忘れないようにノートにしたためる。きっとこれから多用する、本には載っていない言葉だ。
「影虎は?」
「こうだな。字はいらないだろう?」
「字?」
「字は――」
説明しながら、碧は次々名前を書いてくれた。字とは榛名の時代でいう姓で、影虎なら麓火になる。透ならば、彼は異国の人間であり現在の名は改名なので、字を持たない。もし養父がいたら、その名が姓になる。
気が付けば何枚にも渡った書付を、榛名は確認しながら集めた。
「……これで透、影虎、翠だね。他は」
言いかけて飲み込んだ言葉を、迷いのうちに吐き出した。
「茜音さんは?」
碧の手が止まった。表情が一変かたくなる。
あ、と後悔が胸を衝いた。――言わなければよかった。
咄嗟に俯いて、噛み締める目線は紙の上を辿った。わたしには分かりません。それは嫌いです。翠、透、影虎、碧。わたしは、あなたが、
「榛名」
「は、い」
面を上げると、碧は砂を噛んだような顔をしていた。予想とは違う表情に、榛名は少しぽかんとしてしまった。怒っているかと思ったのに、どうしたのだろう。
ことり、と筆を置くと、碧は淡々と述べた。
「茜音が、お前に酷いことを言った。悪かったな」
「……あ、うう、ん。平気……」
手を振って、笑みを取り繕う。謝られたのに、何故か心には雲がかかった。折角碧が話しかけてくれているのだから、明るく答えたいのに、ゆるゆると腕が落ちる。
碧は視線を外したまま、深く息を吐いた。
「それと、あれは嘘だ」
「嘘?」
首を傾げると、碧は再び嘆息した。
「俺とあいつが本当に結婚出来ると思うか?」
「え……?」
うまく飲み込めていない様子に、碧はゆっくりと諭す。
「あいつは宰相の娘で、俺は宰相の憎むべき敵だ。出来るわけがないだろう。あいつが勝手に言い張っているだけだ」
そう言われてもまだ榛名はぼんやりしていた。親に阻まれて結婚できない? それではまるっきり物語の中の悲恋譚ではないか。結ばれないお姫様と、王子様の。
碧の背に抱きつく茜音が過ぎって、胸が刺すように痛んだ。本当に物語のように、二人は絵になる。お似合いだ。茜音には碧しかいない。碧には――
榛名は高い声を張り上げた。
「わ、わたし、お、応援するよ」
「は?」
呆気にとられた風の顔を見て、笑顔が凍る。唇は醜い空笑いで歪んだ。心にもないことを言っている。応援なんて出来るわけがない。こんなにも胸が痛いのに。
「……わたし……」
どうしよう。痛い。
痛いよ。
ぱしっと腕を掴まれる感触に、榛名は引き戻された。
「……榛名。そうじゃない」
碧は強い口調で言った。
「立場の問題で結婚できないという意味じゃない。茜音は昔から俺を好きだと言っているが、ただ現実逃避の憧憬を恋だと取り違えているだけだ。俺はそれに応える気はない。今もこれからも」
「え……」
それは、つまり。
言葉の意味が下りてくると同時に、悟った榛名はかあっと赤面した。
「か、勘違い……」
だな、と碧が頷く。顔を覆って呻く榛名に、碧は可笑しそうに相好を崩した。
「大体、何を見ていたらそんな勘違いをするんだ?」
目尻に皺を寄せる、その顔は無邪気で、何の隔たりも存在しなかった。憂色がゆっくりと晴れていく。ああ、碧だ。いつもの優しい碧だ。
安堵に頬を緩める榛名に目をやって、碧は言葉尻温かく笑った。
「馬鹿だな」
くすぐったくなるような言い方だった。ばかはひどい、と笑いながらも抗議する。ささめく声がひとま途切れて、突然碧は言った。
「顔」
「え?」
「擦り傷がある」
頬に触れて気が付いた。そういえばこけた時に顔を擦っていたのだった。
「あ、これさっきこけちゃって……め、目立つ?」
「いや。少し赤いが」
よかった、と息をつく。人に会うことは少ないものの、やはり女の子として顔の傷は気になるところだった。笑いながら目線を上げると、驚くほどまっさらな眼差しがこちらを真摯に見つめていた。
「榛名」
どくん、と脈動が鼓膜を振るわせる。思わず身を硬くするが、碧は穏やかに目を細めた。
「悪かった」
「え……?」
「お前を傷つけただろう?」
頬に指先が触れる。ひやりと冷たい指先が傷に心地よかった。
「……お前のことを、ずっと考えていた。色々と。……正直、帰る方法が分からなくなった。この国で一番翠の力に詳しいのは翠だ。それがどうしようもないとなると、あてがない」
「うん……」
それは榛名にも分かっていた。残念な結果に落胆はしたけれど、人知を超えた力のことだ。ままならないのは当然のことで、仕方ない。
だが、と碧は苦渋を滲ませて呟いた。
「このまま俺の傍にいれば、お前はいずれ俺と同じ目に合うだろう。疎まれ、裏切られ、排他される。茜音など比でないほどの罵倒を浴びることも、あるかもしれない。……俺はいつもお前と一緒にいられるわけじゃない。だから、それは避けられない……」
「そんなの、碧のせいじゃ」
言い募ろうとするが、彼はきっぱりと首を振る。
「だとしても、本来無関係だったはずのお前が巻き込まれることには変わりない」
「……わたしが望んだんだよ? 翠のことだって、わたしが」
僅かな沈黙の後、不意にぐしゃりと顔を歪ませて、碧は泣き出しそうに笑った。
「……分かってる。お前が望んでることも、俺のことを責めないだろうことも。だが……どうしてだろうな。味方になりたいだなんて、そんな馬鹿なことを言う奴は今までいなかったから……俺はお前が変わるのが、怖いみたいだ」
はっとしたと同時に、榛名はじわりと胸が熱くなった。
(碧は、それを考えてたの? ずっと)
怒っていたのではない。彼は榛名のことを考えて、そのために竦然としていたのだ。
彼は知っている。敵意に取り囲まれ、悪し様に罵られ、取り残される孤独を。自らも辿った道の、その過酷さを知っている。だからこそ、榛名がこれから受けるだろう痛みを誰より理解している。そして、榛名はその一切を知らない。
変わらない、とは言えない。安穏と暮らしてきた榛名には想像もつかない痛みだ。今は自信があっても、碧のように、巴のように――いつか、変わってしまうのかもしれない。
けれど、それでも。
それでも。
「碧、あのね」
榛名は口火を切った。
「わたし、碧のことを何にも知らないよね。きっと影虎のことも透のことも、茜音さんのことだって、本当は全然分かってないんだと思う。だから大丈夫、変わらないよって、軽い気持ちで言っちゃだめなんだよね」
口にするのは簡単だ。誰にだって出来る。碧にだって、今まで力になりたいと申し出てきた人は沢山いただろう。特に碧は翠が王になるまで、最も有力視されていた碧の瞳だったのだから。けれど、それを最後まで貫く人がいなかったから、碧は今一人きりで戦っている。言葉にするなら、相応の覚悟がなければならない。
胸に手をあてて、榛名は言った。
「……最初はね、わたし、この国で頼れる人って碧しかいなかったから、碧じゃないと駄目だって気持ちが強かったんだと思う。見捨てられたくないって、そう思って黙ってたこともあった。でもね、一緒にいるうちに、碧のいいところをたくさん見つけたよ。力になりたいって思ったのは、碧が可哀相だからでも、碧しかいないからでもない。いつも前を向いてる碧が、凄いなって思ったから。だからね」
手を取って、重ねる。驚いたような目に、微笑みを返した。
触れる手には、強さが宿っている。その強さが、榛名を芽吹かせたのだ。
「……分かんないこと言うのは嫌いなんだけど、それでもわたし誓えるよ」
目を閉じる。永遠と、絶対の誓約をもって。
「ずっと変わらずに、碧の傍にいる」
しばらく呆気に取られていた碧は、ゆるりとその双眸を細めた。切れ長の瞳に、光が差して明るく瞬く。
「……俺は最初、お前のことを殺しかけたんだったな」
「うん」
「最初は事情を聞いたらすぐに帰すつもりだった。……まさかあてのない人間だと思ってもいなかったから、成り行きだった。仕方なく引き受けた」
「……うん」
「だが」
温かい手が榛名の手を包む。境界から、その温度が解けていった。
「翠の件を抜きにしても、俺はお前がいてくれてよかったと思っている」
「……いてよかった……?」
碧は小さく顎を引く。
「お前が来てから、たくさんのことが変わった。お前は知らないだろうが」
「変わったって、影虎のこと?」
「他にも、色々と」
くすりと笑って、ふっと睫毛を伏せた。
「……本当はずっとこのまま生きて、死んでいくつもりだった」
低い声に、榛名は息を詰めた。
「それで、いいと思っていた。誰かに心を預ければ、人は弱くなる。深く信じれば信じるほど、裏切りは重くなる。……俺は、裏切られるのには飽きた。西の連中とて、真実王の味方というわけじゃない。時勢に流される連中もいれば、初めから寝首をかこうとしている奴もいる。不用意に信を置けば、翠まで危険に晒す。ならば最初から、望まないほうがいいと思っていた。他人は必要ない。翠がいるならそれで。翠のために死ねるならば本望だと、そう思っていた」
たった一人。孤独のうちに死んでも構わないと。
そう、思っていたのだ。
「……だが」
碧は前を向く。重ねられた手の先、服の裾から垣間見えるブレスレットに、榛名は打たれたように顔を上げた。
「変わっていくことも、そう悪くはないと思えるんだ」
「……ほん、とに?」
声が震える。碧は明瞭に答えた。
「少なくともお前を拾ったことに、後悔はしていない。言っただろう? お前がいて、よかった。……お前に会えて、よかった」
「……なら」
涙がじんわり滲んだ。
「よか、ったぁ」
榛名は笑った。
よかった。――嬉しかった。他の誰でもない、あの碧が言ってくれた言葉。
傍にいてもいい、ではなく、傍にいてほしい。そう言われた気がして。
「……泣くな」
「な、泣いてないよ」
「……どう見ても泣いてるだろうに」
「う、嬉し泣きなの!」
袖で顔を拭う榛名に、碧はくつくつと喉を鳴らした。
「……本当に、仕方のない奴だな」
頬に触れる指先は、今は温かくその涙を掬い上げていった。




