第五章・牡丹(4)
「……影虎? 何でここが」
「榛名ちゃん探してたけど見つからないから、透が見てないかと思って。……で? 透、今のはどういうこと」
「どうもこうも、言葉通りの意味ですよ」
あっさりとした返答だった。しかし、影虎は納得いかなかったのか、眉をきつく寄せて透を睨みつける。
簡単には引き下がりそうにないその様子に、透は肩を揺らした。
「何を今更動揺することがあるんです。彼女を守ると決めた時点で碧は危険の火種を抱え込んだのだと、あなたも理解できているはずでしょう?」
「ああ。はっきり言って碧は迂闊だったよ。王族として正解ではないんだろう。それでも、俺はあいつに味方するよ。……そのためなら、何でもする」
透はくすりと笑った。
「……愚かですね」
「何とでも言えよ。この子を放っておくことは出来ない」
すうっと、灰色の目が猫のように細められる。ひたりと鋭い視線が頬に触れた。
「影虎。私が言っているのは碧ではなく、あなたのことですよ。私にはあなたが何を守りたいのかさっぱり分かりません。あなたは一体誰を守っているのですか?」
影虎はぐっと言葉を詰まらせた。透は感情の色なく述べる。
「今、あなたは榛名さんから目を離していた。危険だったとは思いませんか? もし私がその気になってさえいれば、今頃榛名さんは死んでいたでしょう。非力な私でさえ榛名さんを手にかけることは容易い。他の誰かに見つかっていたら、どうなっていたか」
叱責に、影虎は沈黙する。透が言いたいのは、目を離すなという単純な話ではない。責任と覚悟の話だ。
「碧のように迷うならまだ可愛げもありますけれど、あなたは問題から目を伏せています。閉じられた眼で、どうやって人を守るのですか? 口にするのは簡単ですが、現実にあなたは選び取れないまま、榛名さんを危険に晒している」
切って捨てるように、透は厳然と言った。
「人を守る、ということの重みを、あなたは知らない」
「な……っ」
影虎は一瞬面食らったが、すぐさま激しく瞳を燃やした。
「じゃあ放っておけっていうのかよ! 碧だけじゃどうにもならないの分かってて、このままあいつが潰れてくのを見とけっていうのか?! 俺にはんなこと出来ないんだよ! 中途半端だろうが何だろうが、碧には榛名ちゃんが必要なんだって――」
「……お兄様、どういうことよそれ」
「うわっ!」
影虎は飛び上がった。
「茜音?!」
振り返る背後には、いつの間にやって来たのか、茜音が小さな胸を目いっぱいそらして立っていた。赤い髪をふわりと揺らすと、ぎろりと睨みつける。
「聞き捨てならないわね。あの子が碧に必要ってどういう……」
言いながらぐるりと部屋を見渡して、ふと視線を止めた。透の対面に座る榛名の姿に気付いた茜音は、さっと気色ばむと、鬼の形相で詰め寄った。
「あなた、どっから入りこんだのよ! 何で透のところにいるの?!」
「えっ? あ、あの、透さんに呼ばれて」
「何でよ?!」
差し迫る顔を押し留めながら榛名は困惑の声を漏らした。どう説明したら分かってくれるだろうか。茜音は興奮していて、到底落ち着いて話が出来そうにない。
考えあぐねていると、ふっと笑みの混じった吐息が耳を打った。美しく微笑んだ透が、その続きを引き取った。
「……茜音様。その顔、物凄く不細工ですよ」
「なっ」
茜音は怒りに体を震わせて叫んだ。
「うるさいわね! 私が美人だろうが不細工だろうが透には関係ないわよ!」
「ええ。本当に、全くもって」
「ちょっとくらい否定しなさいよ!!」
力任せに机をバンバン叩くが、慣れているのか透は動揺する様子もなかった。
「茜音様、うるさいですよ。お客様がいらっしゃるのが見えませんか? お静かに」
「だから何でこの女が透と知り合いなのよ?! 碧にも馴れ馴れしくしていたし、一体何者なのこの女!」
「この女、ではないですよ。榛名さんです」
「そんなことはどうでもいいわ!」
「よくありません。王族がきちんと相手の名も呼べないのですか? 礼節の大切さ、私は口を酸っぱくして言い聞かせてきたつもりですが、まだ分かっていらっしゃらないようですね。行儀作法というのは相手に敬意を払うことはもとより、それ如何によってあなたの知性、品性が知れるのです。礼節なき子女はあなたそのものが侮られるのですよ。分かったら淑女らしく恭しく頭を下げて、はい復唱。榛名さん、です」
「あぁぁああもううるさい!!」
茜音は顔を真っ赤にしてだんだんと床を踏みつけた。それをまるっきり無視して透は榛名に向かって丁寧に目礼する。
「榛名さん、申し訳ありません。躾の行き届かない姫君で。私の至らなさゆえですね」
「透。躾じゃなくて教育な。犬じゃないんだから」
「え?」
「え? じゃないだろお前、主君を何だと」
ああああもう! と再び怒声が響き渡った。
「話をそらさないでよ! 私は何で透がこの女を招待してるのかって聞いてるのよ!」
「榛名さんです。私が誰と友人になって誰とお茶を飲もうが、姫君には関係のない話でしょう?」
「透は私のものなんだから駄目なの!」
ヒステリックな叫びに、透は至極不思議そうに首を傾げる。
「残念ながらそんな覚えはありませんが。私は人にお仕えする身ですけれど、姫様の所有物にはちょっと、無理ですね。なれません」
「とーる……」
影虎が呆れるのも無理はなかった。茜音はあまりの衝撃にか、大きく仰け反っている。その体は小刻みに震えていた。
「いえ、私にも好きに友人を選ぶ権利はありますしね? そこは姫様に口出しされる必要ないかと思いまして。いちいちケチをつけられて、正直面倒臭いなと」
「だーかーらー!! 透、それだよそれ! お前茜音のことを何だと思ってんだよ」
「え? 聞きたいですか?」
ばん、という音とともに罵声がこだました。
「うるさいっ!!」
僅かの間に立て直したらしい。茜音は変わらぬ不遜さで大股を開いて立つと、ぴしりと指をさした。
「もういいからっ、透は黙ってなさい! 私が聞きたいのはあなたよあなた。そもそもあなた、どうして碧の預かりになっているわけ?!」
「え? ……あ、あのわたし、他の国からやって来たんです。暴漢に追われているところを碧に助けてもらって、それから色々とよくしてもらって……」
これは碧からもし誰かに見咎められたならこう言えと教わっていた文句だった。が、
「嘘ね。碧にそんな良心はないわ」
あっさりと切って捨てられた。
――全く信じて貰えなかったではないか。思わず榛名は胸中で呻いた。普段どれだけ行いが悪いのだろう、彼は。
茜音はふんと鼻を鳴らしてせせら笑った。
「馬鹿馬鹿しい。暴漢に追われてたところを助ける? 碧が? どう考えても有り得ないわ。あなたみたいなの、襲われてたって間違いなく見捨てるわね」
榛名はぱちくりして、やんわりと否定した。
「そんなことないです。碧は凄く優しいですよ」
先程の言い訳は確かに嘘だが、大筋では間違っていない。罪悪感があったとはいえ、榛名を助けてくれたことに違いはないし、その後もよくしてくれている。充分すぎるほどお人よしだと言えるだろう。
しかし何が気に入らなかったのだろうか、茜音の顔にはたちまち朱がさした。
「な……っ碧は私や翠には優しいけど、どこの馬の骨とも知れないあんたなんか相手にしないわよっ! 知ったふりしないで!!」
ずきんと胸が痛んで、浮かべていた笑顔が強張った。振り絞るように引き出した元気が、みるみるしぼんでいく。
茜音はそれ見たことかと言わんばかりに顎をしゃくった。
「ほおらやっぱり。碧があなたなんかに優しくしてるわけないじゃな……あいたっ」
軽く平手で後頭部を叩かれ、茜音は頭をおさえながら振り返った。
「何するのよっ!」
「お前こそ、碧はお前に優しいんじゃなくて、相手するのが面倒だから見逃してあげてるだけでしょーが。勝手に拡大解釈して本人のいないとこで振りかざすなよ」
「そうですよ姫君」
「透は庇いなさいよっ! 大体そんなはずないもの、碧には特別な人なんて誰もいないのよ! 私だってお兄様だって……碧にとって大切なものなんて、翠だけじゃない!!」
榛名ははっとした。何かがすとんと腑に落ちる。
ああ、だから――だから、茜音は寂しいのだろうか。
碧の心には誰もかからない。翠だけ。あのあまりにも儚い、姉だけ。彼女のために、碧は生きている。きっと茜音も影虎も、透のことだって大切には違いないだろうけれど、翠は特別だ。彼女のために身を削って、全てを捧げるようにして碧は生きている。
姉に心酔する彼の傍にいることは、楽しいばかりではないだろう。
きっと、どれだけ隣にいても、将来をともにすることが出来ても――永遠に、翠に与えられていた碧の心だけは手に入らないから。
「――だから?」
影虎は眼光を強めた。
「碧が翠を一番に思うのは、翠がそれだけのものを与えてきたからだ。じゃあお前は碧のために一体何をしてやれるんだ?」
鈍く光る眼差しに気圧されて、茜音は僅かに尻込みする。半身を引きかけたが、奮い立たせるように胸を張った。
「私は碧のためなら何だって出来るわ」
「嘘だな」
「嘘じゃないわ」
「じゃあお前は、碧のために王族の地位を捨てられるか? 父や母、透と決別して敵として争えるか? 出来ないだろう。お前には出来ない。そりゃ、夢みたいに好きだ好きだと言って自分の気持ちを押し付けるのは楽しいだろうな。けどその自己満足に碧を巻き込むなよ。お前は碧以外の人間とだって生きていける」
「……っ」
ぎりりと音が聞こえそうなほどに歯を食いしばって、茜音は怒気を露に踵を返した。
「あっ」
思わず引き止めようと手が伸びたが、言葉が続かずに落ちる。結局、ただその背を見送ることしか出来なかった。
去ってしばらくも、部屋には怒りの余韻が薄く漂っていた。
「あっ、あのっ、あんなこと言っていいの?!」
榛名は慌てて振り返った。きっと茜音はひどく傷ついたはずだ。心の柔らかい場所に踏み込まれて、痛かっただろう。
しかし茜音のお守りである透は平然としていた。
「いいんですよ、もう少し姫君には現実を知っていただかないと。あれくらいが丁度いいんです」
「でもまだ茜音さん、十二歳ですし」
「十二は大人ですよ。大人にならなければならない、年齢です。殊、茜音様のように家柄の優れたるお方なら」
榛名が息を呑むのを見て、透は苦笑した。
「私とて、姫様が家柄も地位も全て捨ててでも碧を追いかけたいというのならば止めはしません。けれど、分かるでしょう? そうはいかないんですよ。世間を知らない甘やかされた子供が一人では生きてはいけない。それを姫様も分かっているんです。……皆さん遠慮なさって無責任に姫君を可愛がるだけですけれど、あの方はもう少し現実を知るべきです」
「……でも……」
榛名は口ごもった。『分かる』なんて軽々しく口にするのはとても失礼なことだけれど、榛名には茜音の気持ちが、少しだけ分かる気がした。
あちらにいた頃、榛名の両親は共働きで、兄弟とも殆ど顔を合わせない日々が続いていた。寂しい思いをしたこともあった。一人で家に入り、誰もいない家にただいま、と言う。一人でご飯を食べる。冷たい布団で、静寂の中眠りにつく。それをずっと繰り返す。
そのうち慣れてきて、胸は痛まなくなったけれど、それでも一人で食べるご飯は味気なくて、自分が空っぽになった心地がした。
そういう時に、碧が――好きな人がいたら。攻撃的になるのも、失いたくないが故なのだと思えば分かる気がした。
「透さん、追いかけてあげてください」
頼み込むと、透は可愛らしく小首を傾げた。
「……うーん、どうしましょう」
「どうしましょうって透、一応仕事なんだから茜音ほっとくのやめて。あいつが不機嫌になると手当たり次第当たるんだから」
「えぇ……ったく仕方ないですねえ」
「透さん舌打ちしないで」
「全く、影虎の尻拭いをさせられるとは」
「何で全面的に俺のせいなの? お前もちょいちょい煽ってたよね?」
「ま、それはどうでもいいんですけど。榛名さん、少し待っていてくださいね」
透は書棚に向かった。指を泳がせて、目当てのものが見つからないのか、次々本を引き抜いてはそこら中に放り出していく。しばらくすると、あったあったと言いながら、一冊の古びた本を持ってきた。
「これ、差し上げます」
笑顔で榛名に差し出す。ためつすがめつしながら受け取ると、表紙はところどころ擦り切れ、印字も薄くなっていて、随分使い込まれているようだった。目をぐっと近づけて、タイトルを読み取る。
「……えぇと。教……本?」
睨めっこしながら呟くと、透は頷いた。
「文字の教本ですよ。簡単な言葉から学べる初心者向けです。私のお古で申し訳ないのですが、榛名さんには必要かと思いまして。私も昔、これにかなりお世話になったものです」
そっとページを捲ると、中には短い構文がたくさん並んでいた。恐らくは小学校低学年向けくらいだろう。簡単な単語が沢山出てきて、難しいけれど文意はある程度汲み取れた。所々教わらなければならないだろうが、この内容なら自分でもある程度頑張れそうである。
(私、は、……透、……です)
最初のページには手書きでそう書いてあった。
「他の国から来たのなら言葉には困るでしょうから」
「あっ、ありがとう……!」
榛名は感激して本を抱えた。
「嬉しい、わたし、いっぱい勉強するね!」
「喜んでもらえたようで、よかったですよ」
にこにこ顔の榛名の横から、影虎がひょいと覗き込んだ。
「そういえば榛名ちゃんに文字は教えてなかったね。話せるから大丈夫だと思ってた。違ったの?」
「うん、そうなんだけど、読み書きは出来ないんだ。でもこれで一人の時にやることが出来たから、嬉しい」
今まで碧や影虎がいない時、榛名はすることがなかった。本も読めない、人と話すことも出来ないとなると、やることといったら掃除くらいのもので、ずっと何か暇つぶしになるものがほしかったのだ。
「その本が終わったら教えてください。少し難しいものも渡しますから」
「本当に、何から何までありがとうございます」
ぺこりとお辞儀すると、
「いえいえ。どういたしまして。では、私はこれで。影虎、きちんと送り届けてあげるんですよ」
「分かってるよ」
透はにっこりと笑いながら一礼して、書類をまとめると、滑るように出て行ってしまった。
見送りの手が止まったとき、声がかかる。
「……さて」
影虎が榛名に体ごと向き直った。その表情がやけに真剣で、心臓が跳ね上がる。叱られる、と身構えたが、予想に反して影虎は勢いよく腰を折った。
「ごめん!」
「えっ?」
驚いて何度も瞬く。何のことだろうか。怒られる覚えはあっても、謝られる覚えはなかった。
「……本当は、榛名ちゃんのことすぐ追いかけるべきだった。ここに連れてきたのは俺なんだし、榛名ちゃんは帰り方すらわかんないのに、放っておくべきじゃなかった。ほんとごめん。透に会えててよかった。そうじゃなかったら、どうなるかわかんなかった。透の言うとおりだと思う。だからごめん」
榛名は慌ててぶるぶると頭を振った。
「わたしがいけないの。勝手に走っていっちゃったから。わたしこそ、ごめん」
「……このまま帰る? 部屋に。碧も夜には戻ると思うけど」
――碧の部屋に。
少し考えて、榛名は毅然と顔を上げた。
「あのね、影虎。わたし、お願いがあるんだ。聞いてくれる?」
「お願い?」
こくりと頷いて、一音一音、確かめるように力強く口にした。
「燃やしたいものがあるの」
バチン、と音がした。
枝が折れたのか、金属が燃えたのか、一瞬火花を散らした焚き火は枝葉を飲み込んで、小さいながらごうごうと燃え盛っている。木を凝縮した、濃い夏が香る。
小山のように組んだ木が一つ音を立てて崩れたのと同時に、影虎がパンパンと手を叩いた。
「よし、もうそれくらいなら燃やせるよ。他はないんでしょ?」
「うん」
榛名は膝と胸の間に閉じ込めた紙束を、守るように身を縮めた。
「……いいの? それ、大事なものに見えるけど」
その問いには答えなかった。ただ炎を見つめる。
胸にある紙束。それらは榛名がこちらにやって来たとき、持ってきてしまったレポートと資料だった。この国の歴史が書かれている、大事な大事なものだ。
大した情報ではない。少なくとも、碧の手助けになれるような有力なものは一切なかった。けれど、榛名には大事なものだった。この世界を生き抜くための鍵。そして何より、こちらとあちらを繋ぐ、数少ない故郷の品の一つだ。
――捨てるべきだと、ずっと思っていた。
どうせ頭には入っている。捨ててしまって大きく変わることはない。
けれどこうしてずっと手元にあったのは、紛れもなくこれが『佐川榛名』のものだったからだ。
誰かに盗まれたら大変なことになるとは分かっていた。捨ててしまうのが一番安全だとも。制服だってバッグだって残っているのだから、これ一つくらい構わないだろうと何度も考えた。それでも、言い訳しては諦めていた。捨てたくなくて。思い出させてほしくて。か細い糸に縋るように。
「情けないね……」
噛み締めるように零す。
投げ入れるだけだ。ぽんと腕を突き出せば、それで終わる。
なのにどうして、そんな小さなことが出来ないのだろう。
影虎は微笑んで、足を投げ出して隣に座りこんだ。
「……いくらでも待つよ。だから、好きにしたらいい」
燃え盛る炎が瞳に映る。
強く掻き抱くと、紙はぐしゃりと音を立てて潰れた。
捨てて何かが変わるわけではないかもしれない。もしかしたら無駄なことなのかもしれない。
でも。
味方になりたいと思った。碧のために何かしてあげたいと。
その何かが、まだ具体的に見つかっていないけれど――榛名は碧のための力になりたい。だからまずは、自分の身を守らなくてはならない。そのためには、余計なものは捨てなければならないのだ。
ぎゅっと唇を噛む。
強さがほしい。捨て去る勇気と、進む勇気。誰かを守れる強さがほしい。
人を守る、その重みを。覚悟を。榛名は知っているだろうか。
(……わたしにも、守れる? 透)
非力で。
知恵もなく。
何の特別な能力も持たない、自分でも。
碧を――守れるだろうか。
灰混じりの大気をいっぱいに吸い込んで、榛名は振りかぶるように投げ入れた。
炎の上に舞い上がった紙は、一瞬の間に黒色に変じた。
ああ。燃えていく。佐川榛名として生きた自分の断片が、燃えていく。
息を詰めて、榛名は全てが終息するのをただ見つめていた。
燃える。燃える。何もかも――。
「榛名ちゃん」
声がかかって、振り返る。
歪む視界で、笑みが映った。
「泣かないで」
声もなく、榛名は泣いていた。緩く首を振る。こんなことで、自分は損なわれたりしない。今までの何かが消えるわけじゃない。分かっていても、体を引きちぎるような痛みが走る。
「ごめん、なさい」
乱暴に眼窩をこすって、榛名は喘いだ。
「碧には、内緒にして……」
もう、おしまいにするから。帰りたいと、思い出して泣くのは、これで最後にするから。――だから。
懇願する榛名に、影虎は何故か悲しそうに目を細めた。
顔を覆う榛名の手を、優しく取って重ね合わせる。
「……あんさ、俺榛名ちゃんのこと守ってあげるって言ったじゃんね」
「……?」
涙の溢れる目をぱちくりとさせる。少し笑って、影虎は続けた。
「知ってる? この誓いはね、特別なの」
「とく、べつ?」
涙混じりの声になる。
影虎はまるで魔法をかけるような柔らかさで唱えた。
「目を合わせて、手を重ねて。温度が、通うでしょう? 惟ではね、これで二人は一つになったと見做されるんだ。目は意志を、手は命を。こうやって誓うってことは、その誓いはその命ある限り続くってこと。反すれば一体となった自分の半身を損なう。だからこそ、この誓約は永遠と、絶対を意味するんだ」
惟において、目と手は最も翠の力の宿る場所だ。その二つだからこそ為される、特別な誓いなのである。
重ねれば、繋がる。交じり合う。触れ合った部分の熱が、誓いをより強固にする。
「――だからさ。あの時の碧の誓いは俺の誓いで、榛名ちゃんの誓いも俺の誓いでもあるんだよ。勿論、俺のも」
決して後悔しない。嘘はつかない。きっと、守る。そう誓った。あの時、三人は一つになった。
それこそが、一人じゃないという証だ。
「……三人で、ひとつ……?」
「そう。……もう碧も俺も、同じ誓いを立てた。約束するよ」
きっと、君を守ると。
栓を捻ったように、目から大粒の涙が溢れ出した。
馬鹿だ。自分は、本当に馬鹿だ。
影虎も碧も、言わなくても分かっていたのだ。ずっと我慢していたこと。帰りたい。その気持ちに駆られて、素直に泣くことも出来なかった榛名を。
ああ、でも。
一人じゃない。ここには家族も友達も、誰もいないけれど、一人じゃない。
嗚咽がこみ上げる。影虎は震える肩を支えながら、隣でいつまでも待っていてくれた。




