第三章・天の印(2)
護衛といっても、影虎はそう大仰にするつもりはないようだった。
手隙の時に宮殿にやってきて色々教えてくれたり、少し遠出させてくれるという、それだけだ。護衛というよりは友達が増えたと思ってね、と影虎は言った。成り行きとはいえ、気兼ねなく話の出来る友人が出来たのだ。榛名にとって喜ばしいことだった。
ところが碧はちっとも面白くないようで、始終しかめっ面でトントンと机を叩いている。
能天気にはしゃぐ影虎に、凄みを利かせて唸った。
「……影虎。言っておくが、榛名をひょいひょい連れ出すなよ」
釘を刺されて、影虎は見るからに不満げな顔をした。
「何それ。いーじゃん別に。俺いるし」
「馬鹿か。無事ならいいというものじゃない。あまり榛名を人目に晒したくないんだ。宰相に見つかったらどうなると思ってる」
「って言うけど、最近あんま人前に出てこないんでしょ? こっちですら噂になってんよ?」
「本人じゃなくとも同じことだろう。お前が危ぶんだように榛名を怪しむ人間などいくらでもいる。せめてもう少し待って……」
「って、もしかして榛名ちゃん、宮殿すら回ったことないの?!」
言葉を遮って、勢いよく叫ぶ。熱気に及び腰になりながら小さく頷くと、影虎は深く息をついてやれやれと頭を振った。
「ひっどいねー。榛名ちゃんが何も知らないからってやりたい放題ですか。こんなん保護してるとか言いながら、実態は軟禁じゃん」
「……軟禁」
それは初耳だ、と目を丸くしていると、影虎は憤慨して拳を振った。
「榛名ちゃんもねー、もうちょっと言ってやんなきゃ! 自分の住んでるとこがどうなってんのかってこと一つ知らないなんておかしい話だよ?」
言われてみると、確かに榛名はこの宮殿がどういう造りになっているのか知らない。入り口は現代で散策したし大体は把握しているものの、立ち入り禁止の場所もあったし、今とは違う部分も大きいだろう。
気になるかと聞かれると、よく分からない。見てみたいとは思うのだが、指摘されるまで別段不満でもなかったのだから、そこまでの気持ちでもないのかもしれない。しかしこう責め立てられると自分がおかしいような気がしてしまう。
「あ、あの……でも危ないかなって」
「色々やり方あるでしょー。変装するとかさぁ」
「毎度毎度変装してうろついていたら余計に怪しいだろうが。それにここの連中は碧の瞳を知っている。簡単な変装ではすぐにばれるどころか逆効果だ」
「じゃあ碧はどこか分かんないようなとこに閉じ込められてても平気ってわけ?」
「そんなに気になるなら図面でも見たらどうだ」
「あ、その発想おかしい。これだから文字だけで何もかも知った気になってる奴はだめなんだよ。そゆことじゃないでしょ。目で見て肌で感じることが大事だっていってんの」
「……本も読まないような奴に言われたくないな……」
「だって俺、本嫌いだし」
けらけらと笑う影虎に、碧は眉間に指を添えて呻いた。
「……もういいだろう。用がないなら俺は行くぞ」
「あ! えーと碧」
影虎は慌てて今思い出したように繋ぎとめる。既に腰を半ば上げていた碧は、不機嫌さを顕わに睨み返した。
「何だ」
「碧さー、今日暇? 暇だよね。そういうことにしておく、よし」
「……あのな。俺は仕事が詰まっている中、お前が帰らないから仕方なくここにいるんだが」
苦々しく言う碧に、榛名は目を見張った。もしかして、気を遣っていたのだろうか。そういえば今まで碧と一緒に食事することは一度としてなかったのに、今日に限って自分の分の食事も持ってきた。ぽかんとしている榛名に気付いて、碧は気まずそうに目を逸らした。
「……分かったら俺は行くぞ」
「うんだからー、俺がいると仕事休めるんでしょ? ならいいじゃん」
「お前、人の話を聞いていたか?」
「で、榛名ちゃん。こないだ置いていかれちゃった埋め合わせしちゃおーよ」
影虎は碧をまるっきり無視した。
「埋め合わせ?」
「うん。榛名ちゃん細工物とか好きみたいだったから、色々見て回らない? 俺の知り合いに、そういうの作ってる人がいるから。こないだ言ってた機もあるよ」
「あ、あの絨毯?」
「うん。全く同じものを作ってるわけじゃないけど、楽しいと思うんだ。ね、碧いいでしょー?」
「……お前たちだけで行けばいいだろう」
乗り気ではなさそうな碧に、影虎はにやりとした。
「別にいいけどー、俺は。碧がいてもいなくても榛名ちゃんと楽しんでくるし。でもどっかな? 変なとこ連れ込んじゃうかもよ」
「はあ?」
「ってなると、碧がいないほうがよっぽど楽しめるかもなあ、うん」
「お前は榛名の護衛じゃなかったのか?」
影虎は碧の言葉を鼻で笑った。
「俺は他の奴からのちょっかいから守ってやるの。俺自身は範囲外」
「……お……っまえな……!」
青筋を立てて詰め寄る碧をどうどうと宥めて、影虎はにたりと微笑む。その笑みといったら、本当に意地の悪いタイミングだった。
「大体さあ、これは碧の謝罪も兼ねてんのよ? 榛名ちゃん置いてけぼりにしちゃったじゃん、前回。悪いと思わないわけ? 街に知らない男と二人、問答無用で置き去りにされた女の子の心情ってもんを加味して、ちったあ融通してやりなよ。大体、元は碧が請け負ったんでしょ?」
碧はぐっと言葉を飲み込んだ。長く逡巡していたが、結局は罪悪感が頭を下げさせた。深い溜め息をついて細々と漏らす。
「……本当に忙しいんだ」
「だから今日一日だけでもって言ってんの。ここを離れたくないのは分かるけどさ、俺と榛名ちゃん、会ってこれで二回目よ? 榛名ちゃんにもっとこの国や俺に慣れてもらうことも兼ねてんだから、碧も来いって。机上だけじゃない民の生活っていうのも悪くないでしょ?」
碧はしばらく黙していたが、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった。今日一日だけだ」
「よっしゃ決まりー! そうと決まればさっさと行こー、榛名ちゃん!」
子供のように無邪気に喜ぶ影虎に、榛名はつられて笑みをこぼした。
碧だけは一人苦りきった顔をしていたが、ともかく初めての三人での外出だ。麓鳴を気に入っていた榛名にはそれだけでも嬉しいもので、三人でともなると喜びは倍増だった。機嫌よく笑う――本当に他意なく無邪気に笑う榛名に、とうとう最後には碧も根負けして不機嫌一辺倒の態度を崩したのだった。
麓鳴は今日も変わらず賑やかだった。市に決まった休みの日はないようで、どの店も商売に熱心だ。
先日は市を真っ直ぐ見物したが、今日はすぐに道を反れた。工場はどこも裏手にある。現代とは違い工場といっても大抵は数人だけ、それも土間を改造したようなもので、広さは一軒家ほどしかない。おのず大通りではなく土地の安い裏通りになる。
影虎は勝手知ったる風で迷いなく進んでいたが、雑多な町並みに碧の表情は曇っていった。不機嫌そうにも見える様子に、榛名は最初怒っているのかと思ったのだが、そうではなかった。
実は、碧は麓鳴をあまり知らない。立場上当然のことなのだが、大通りを馬で通ったことは幾度もあれど、小道に入ったことは一度もなかった。そこは表通りとは違い、華やかさなど欠片もなく、そこら中で人が暮らす生活の匂いがする。姿が見えなくても、ざわざわと肌で感じる気配。一皮めくったところで深く繋がっている、息遣いが聞こえる、そういう覚えのない空気を警戒して神経を尖らせているのだった。
しかし榛名にはその警戒を解く術がない。思い悩みながらも、影虎が指摘しないことに任せて、ただ歩き続けた。
最初に向かったのは蝋燭の店だった。
惟では当然ながら、電気のライトなど存在しない。明かりは全て木や石、陶器の枠で出来た灯篭の中に蝋燭を入れるか、油皿に頼っている。高価なものであれば絹を外張りにした灯篭などもあるが、富裕層が祝い事などに使う程度で一般的に普及はしていない。元来は農耕から手工業に発展してきた惟では、蝋燭作りはごく自然な産業だった。
この店では主に祭典用の、少し値の張る蝋燭を扱っている。商品は絵付けに至るまで全て、店の奥にある工場で作られていた。
蝋燭は、櫨の実から取れた脂を和紙で作った芯に一層一層重ねて、削って、形を整えながら作る。勿論全て手作業である。芯を回し、脂を塗る。形を削って整え、また塗り重ねていく。単純なことなのだが、実は均一に塗るのはとても難しい。削りすぎても駄目だ。
だが、そうやって出来た年輪のような蝋燭は、苦労した分だけ不思議な味わいがある。火を灯してみればそれは明白で、いくつもの層が同時に燃えるため、炎は不思議な揺らぎを見せた。とろりと溶けてしまいそうな光は、けれどとても明るい。薄暗い店の中にぼうっと浮かぶ灯火は人を魅了するだけの妖艶さを持ち合わせていた。
「こんなん見てて若い人が面白いのかい」
店主のアギトが首を捻って問いかけた。
アギトは異国の出身で、柔らかい空色の目をしている。
「面白いです、とても」
榛名がそう請合うと、穏やかに笑った。
「ならよかったよ。坊主が無理矢理ひっ捕まえてきたんかと思ってたからな。にしても、可愛らしい客人は歓迎だが、どうせなら弟子を連れて来いよ」
「弟子が出来ないのはお前の甲斐性のせいだろ」
「何が甲斐性だ。異人を嫌がる奴がいるからだろ」
「嫌がる?」
きょとんとする榛名に、アギトはさも当然のことだという風に答えた。
「異人の師匠とそうでない師匠なら、そうでないほうを望むのは当然だろう?」
「……?」
榛名は混乱した。異人の少ない国なら分かるが、惟は沢山の人が流れてきていて、異国の人も珍しくはない。町を歩いてみてもそれは明らかで、髪も目も、元々惟の生まれである人が多いとはいえ、見るからに浮いてしまうことはなかった。
「ああ、アギト、この子田舎出身でね」
影虎が差し挟むと、アギトは膝を打った。
「そうかい。どこだ?」
「規藩」
「……そりゃほんとに何もねぇとこから来たんだなあ。じゃあ分かんねえのも当たり前か。いや、心配せずともそこまで深刻な話じゃねえんだ。俺のいた国はラピトっつーんだが、貧しい国でなあ。ヴァステバの玉だったり、惟の細工物だったりといった目立った特産がねえんだが、かといってあんまり実りもよくねえ。取れるのは油の実やちょっとしか穀物くらいのもんで、食い詰めた両親は赤子の俺を連れて惟に流れてきたんだな。残念ながら二人は惟についてすぐ死んじまったよ。でも家省が取り次いでくれて、ここに奉公に来たんだ」
「カセイ?」
「そんなことも知らないのか? 家省はどの藩都にもあるだろ」
「あーいいから。えーと、家省ってのは、まあ色々やってんだけど、このおじさんみたいに孤児になっちゃった奴とか、異国からこっちに住み着く人の世話もやってんの。仲介だね。職が必要な人には、逆に人手が必要な職場を紹介するの。孤児は大抵こういう工場に住み着いて、師匠の下で働いて、手に職をつけるわけ」
藩都や規藩も意味が通じなかったが、とりあえず大筋を理解した榛名は大きく頷いた。
「まあお陰で仕事にあぶれず済んだわけだが、こういう工芸ってのは美的感覚がいるわけだ。それは生まれつきじゃねえ。暮らすうちに育っていくわけだな。俺はもうむつきもとれねぇうちからこの家にいたから両親といやあここの先代だったが、皆が皆そうじゃねえんだ。本当の孤児ってのは珍しい。普通の移民の奴が弟子入りするのは、そうだな、親元を離れる頃だから大体七つか八つじゃねえかな。それも親がいるんであれば住み込みってのは珍しい。そうなると、元々そういった家業の家に生まれついた奴、そうじゃねぇ奴、情報量の差が出来るんだよ。それはつまり、感覚の差だ」
「俺生まれてからずっと惟にいるし色々見てきたけどこんなん出来ないよ?」
茶化した影虎をアギトが軽く小突いた。
「馬鹿、そりゃ当たり前だ。俺らがどんだけの時間かけて出来るようになったと思ってる。そうじゃなくてだな、生まれてこのかた一度も蝋燭を見たことがない奴に、さあ今から蝋燭を作れって言ったって作れやしないだろう。人間ってのは、実は環境で作られてる。生まれてから今までどんなもんを見てきたかで、美醜の価値観が決まるんだ。その感覚がずれてたら売れるもんなんて作れねえ」
アギトは大きな体躯を揺らして溜め息をついた。
「要は異人だと信用がねえってことだ。ここの師匠はちゃんとした腕を持ってんのか、売れるだけのものを作れるのかっつうな。特に蝋燭は人が多いんで、どの師匠につくか選べる。一生の職にわざわざ博打はしねえ。それにかじっただけの知識で安物ばっか適当に作ってる奴もいるしなあ」
「まあそれは需要あってのことじゃない? 大体アギトが弟子を持てないのはそれが原因じゃないだろ。腕は評判いいんだから、人格の問題だって」
「うるさいなあこのちびは」
睨みを利かせると、影虎はからからと笑った。
「お弟子さんって……大丈夫なんですか?」
榛名が尋ねると、アギトは手を振った。
「言っただろ、深刻な話じゃねえって。弟子ったって一人はいるんだよ。ただなあ、こういうのは一人が一人に伝えていったって衰退するばっかりだからな。出来るだけ多くに伝えていくべきなんだよ。勿論俺が責任持てる人数だけだが、それでも、師匠の技は師匠だけの技じゃねえからな。俺の代で絶やすわけにはいかねえよ」
「……それは、何となく分かります」
榛名の時代でも、こうした職人は徐々に少なくなっている。後継者がいなくなり、蓄えられた技が時代の波に消えていくのはあまりに惜しいことだ。
「まあ、だが焦ることじゃねえ。無理強いして引っ張って連れてきたって使い物にはならねえからな。何とかなるさ」
「楽天的ぃ」
「お前がやったっていいんだぞ。弟子になるには遅すぎる年だがな」
「……遠慮しときます」
影虎は神妙な顔できっぱりと断った。
「ところで、そこのあんた」
アギトはひょいと白い何かを放った。ぱし、と受け取る。碧は硬い表情で見返した。
「さっきから気難しい顔してんなあ」
「……」
躊躇いが見えるものの依然としてぎこちないその顔に、アギトは肩を竦めた。
「そんな警戒しなくたって、誰も取って食いやしねえよ。それはやる」
碧の手の中に握られているのは、梅の花が描かれた蝋燭だった。きっちり三本、三人の分だ。
「――また来な。あんたも嬢ちゃんも、いつでもな」
つかの間、こわばりが取れる。
「……ありがとう、ございます」
碧が静かに頭を下げて、それを見たアギトは満足げに笑った。
お土産を貰った榛名は、ご機嫌で店を後にした。くるくると蝋燭を回して、緻密に描かれた枝の先まで観察する。薄紅の色づきは春の訪れを感じさせ、儚げな印象の細い木に華やかさを添えていた。
「楽しそうだな」
碧が意外そうに言うので、榛名は表情を緩めた。
「自分でも知らなかったんだけど、こういうの好きみたい。あんまり見る機会がなかったからかも」
「……俺も本物を見るのは初めてだな。物がどういう風に作られているか、特に惟で作られているものに関しては粗方勉強したが、実際に見てみると結構難しそうだった。それに早い」
「ほんと。これ、綺麗だよね」
無骨なアギトが描いているとは思えない、繊細な柄。飾り絵のついた蝋燭は最近人気だそうで、女性を中心によく売れていて、特に大事な日の灯火に選ばれる。
榛名は碧を見上げて、にこりとして言った。
「碧、ありがとう。忙しいのに、一緒に来てくれて」
「……ああ」
目を細めて碧は微笑んだ。不意の柔らかな表情に、どきりとする。
だが、それを遮るように声がかかった。
「ちょっとそこー。俺が先導してる間にいちゃいちゃしないで、ほらついたよ」
影虎が立ち止まったところには、他より大きな間口を構えた工場があった。中には何人かの女性がいて、木枠で出来た織り機に向かって座っている。
その目前の壁には、一面完成した布や模様の図案が下がっていた。絨毯だけを扱っているわけではないようで、紗幕や覆いなどもある。
影虎は中に入り了解を取って戻ってきた。
「入っていいよ。つっても、大した話は聞けないと思うけど。今追い込みなんだって。代わりに俺が分かるとこは説明するから」
呼び寄せる指先に従い、邪魔にならないようついていく。
影虎の口添えで間近で見ることを許してもらって、榛名たちは織り手の隣に立った。
体よりも大きな機に立ち向かう彼女らは、一心不乱に作業していた。真っ直ぐに張られた縦糸の目を掬い取り、糸を通しては編みいれて、木製のフォークに似た器具で目を詰めていく。こうすることで経糸の色が見えなくなるくらい密集していくのだ。今織られているのは深紅の糸で、完成すれば夕焼けになる。
それぞれの図案には、きちんと意味がある。人間の図案は、神の恩恵や人々の営みを示している。蝶は幸福を呼び込むし、動物は動物への感謝や、幸福、富の象徴。翼は王そのものを意味する。
影虎の説明は丁寧で、壁の図案を見ながら工場を歩き回った。書き込まれた図案は人間だけでも何パターンもある。そのとき織り込むものによって、一番合う絵柄をそれぞれ工夫して入れ込んでいくのだ。当然織り手によって微妙に表情が異なってくる。同じ人間の図案でも、物憂げな表情に見えたり、毅然として見えたり、命を吹き込まれたように生き生きとして見えた。
「影虎の持っていた絨毯は、何の意味があるの? たくさん描かれていたけど」
「あれは図案のそれぞれの意味がある絵じゃなくて、あれ全体で天地創造を表してるんだよ。この大地の始まりの光景なんだってさ」
「始まり……」
あの透き通るような朝焼けが、天地創造の時。大地が始まり、いくつもの国が生まれて滅び、惟が起こり、そうしていつか榛名にまで時が渡る。まるで本来見ることすら許されない、神様の作った至高の細工に触れているような気分だった。想像もつかないような幾億もの命の連なりが、目の前の営みに繋がっている。榛名は偶然にもそれを緞帳の向こう、垣間見ているだけなのだ。
うろついていると、たくさんの資料が並べられた棚が目に入った。あまり気に留めなかったのだが、前を通って榛名は立ち止まった。背表紙をじっと見つめる。
「どうした?」
声に振り返って、榛名は眉を下げた。
「あ、碧。……あの、」
「何だ。流石に本は勝手に触るなよ」
「そうじゃなくて。わたし……もしかして、字。読めないかも」
「は?」
碧が胡乱な目で背表紙に目をやる。榛名ももう一度確認してみたが、やはり読めなかった。漢字が使われていて全てが分からないわけではないが、今とは少し字体が異なっている。片仮名が通じないことからも何となく察していたが、こうも違うとは。
「……これは?」
「糸……記……あとは分かんない」
次々指差されたが、結局その言葉のうち、半数も分からなかった。碧は考え込んで呟く。
「……お前の時代では変わったのかもしれないな。言葉というものは存外変遷が早い。話し言葉は勿論だが、こうした書き言葉も時を経るごとに変わっていくものだ」
「じゃあわたし、多分文字も書けない?」
「そういうことになるだろうな。不思議と話は出来るが」
「……あれ。そういえば」
今までこちらの世界で会話に困ったことは一度もなかった。影虎の知り合いなど、何人もの相手と話してきたが、言葉が理解できなかったことはない。
「何でだろう」
「さあな」
にべもなく返される。悩んだが、文字も全く違う訳ではない。何を書いてあるのか、おおまかではあるが読み取ることが出来る。流れは同じところなのだから、会話のほうが聞き取りやすいのだろう。少し腑に落ちないものの、そういうことにしておいた。
機の音は軽快で、カタン、トトン、カタンと心地いい。音は軽いが、その速さは目を見張るばかりだった。どこをどう編み込めばどういう色が出るか、考えながら織っていかねばならないのだが、既に設計図が頭の中にあるような速さだ。それでも、一つの作品が織り上がるのにはかなりの日数が要る。
模様が一目、また一目と浮き上がっていくのに榛名は夢中だった。一つ一つでは全く読み取れない行為が、時間を減るごとに徐々に形を現していく。まるで魔法だった。指先から紡がれる、糸と糸の魔法。
碧が席を外している隙に、影虎はきょろきょろと辺りを見渡し様子を見計らってから、榛名の横に並んだ。
「ね、榛名ちゃん。やっぱそれ榛名ちゃんにあげたんだ? 碧」
「ん? あ、うん」
右手を少し持ち上げると、影虎はにやりと意地悪い微笑を浮かべた。
「おもしろー。碧が女の子に贈り物なんてするんだ」
「……影虎、楽しんでるでしょ」
「うん、けっこー。いや、かなり?」
意地悪だなぁ、と榛名は少し頬を緩めた。このことを聞いたら、碧はまた怒るだろう。
手首に指を伸ばす。碧のくれたブレスレットは、ひんやりと冷たかった。加護を与えるという、守りの腕輪だ。
「ねぇ、影虎。何で急に護衛なんて言い出したの? ほんとは何か理由があるんだよね?」
「何それ? 俺はほんとに榛名ちゃんが心配なのよ」
一瞬眉を顰めて、綺麗に微笑む。けれど、目だけ温度が違う。じっと見つめると、深くて飲み込まれそうなほど暗く濃い碧をしている。視線を逸らさずに見つめていると、頭上から声が降ってきた。
「……何をしているんだ」
影虎が首を垂直にする。
「あ、碧。いやあ、大したことじゃないよ。碧が実は女に弱いってこと話してた」
「……誰が何だって」
「こら、すぐ喧嘩しない」
榛名が声を尖らせると、碧は溜め息をついて頷いた。この場は収まったが、またすぐに喧嘩に発展してはたまらない。感謝を伝えると、榛名たちは工場を後にした。
昼過ぎに訪れたが、夏真っ盛りだけあって、まだ日は高い。影虎は一直線に市に戻った。
「あー腹減った」
心底苦しそうに腹を抱えながら市を物色しだす。碧は半ば呆れている様子だったが、少し小腹が空いたのには榛名も同意見だった。
「全部美味しそうだねえ。碧はどんなのが好き?」
「……食べ物の話か? あまり好みはない。こういう市で売られているものは殆ど食べたことがないから、知らないんだ俺は。甘いものも食べない」
「嫌いなの?」
「いや。単に面倒だ」
「面倒って。何それ」
「時間がないから早く摂取出来るものがいい」
「……。お前さ、相当嫌な人間だよな」
「お前ほどじゃない。馬鹿と違って俺は忙しいんだ」
影虎はちょっと真面目な顔をして説いた。
「碧、いいか? 食事を楽しむってことはお前が思ってるよりずっと大事なことなんだよ。毎日のことだから忘れがちだけど、三食きっちり摂るのは重要なことだよ。心にゆとりが出来るし、気力も湧く。誰かと一緒だと会話も弾むしな。ったく、その調子じゃ榛名ちゃん一人で食事させられてんでしょ」
「え? あ、まあ」
肯定したものの、余程忙しいのだろうとさして気に留めてはいなかった。碧の帰宅は夜遅く、自室に仕事を持ち込むときもあったので、戻ってくる余裕がないのだろうと考えていたのだが、なるほど碧はそもそもきちんとした食事をしていないらしい。
「全く。これだから放っとけないんだよ。気遣いってものがないんだからさ」
「煩いなお前は。どうでもいいだろう」
うざったそうに手を振る碧を再び無視し、影虎は背伸びして周囲に目を配った。
「しょーがないなあ、あ、あれにしよう。オネエサン、それ二袋ちょうだい」
「はいよ。おや、いい男だ。おまけしてあげるよ」
「あんがと」
手際よく影虎が持ち帰ってきた袋には、ナッツに蜂蜜のようなものを絡めているお菓子が入っていた。
「糖蜜花だよ。はい、榛名ちゃんどうぞ」
丸々一袋を手渡されて、榛名は中身を覗き込んだ。おまけは随分な量で、袋いっぱいに詰め込まれている。手にとってみると、見た目ほどベタベタしなかった。胡桃に形は似ているが、食感はアーモンドのようで、蜜の衣はカリカリしている。
「あまぁい」
思わず顔を綻ばせる。蜜は蕩けるように甘いが、それほどしつこくない。
影虎に促されて、碧も難しい顔をして口に運ぶ。咀嚼して、一瞬の間のあと目頭が緩んだ。
「……美味しい」
「でしょー?! あーなんか満足。よかったよかった」
諸手を上げて喜ぶ影虎に碧は眉を唇を引き結んだ。
「意味が分からない。何で美味いと言ったらお前が喜ぶんだ」
「んん? 別いいじゃん。あ、榛名ちゃんあれも美味しいよ、お腹空いた?」
「食べたい!」
影虎はすっ飛んでいって、次々色んな食べ物を調達してきては榛名たちに手渡した。そのどれもが美味しくて、お腹がはちきれそうになるまでつまみ食いした。とても三人では食べきれない量だったが、影虎が知り合いの子供たちに分け与えたので、市が終わりに近づく頃には手持ちの食べ物は綺麗さっぱりなくなってしまっていた。
「碧。楽しかった?」
影虎が覗き込むと、碧は顎に手を添えて言った。
「……そうだな。案外面白かった。物がどういう風に作られているか、実際に見物する機会は中々設けられないからな」
「んじゃよかった。実際見ることの大事さってやつ、ちったあ分かったでしょ?」
「……何だ。そんなことのために来たのか」
ふっと、碧が子供のように顔を綻ばせた。気を緩めたのを見て、影虎は満足そうに微笑む。榛名はあっと小さく声を上げた。
(……もしかして、最初から碧のためだったのかな)
ここ最近の碧は、榛名でも容易に分かるほど根を詰めて働いていた。今まではちょくちょく様子を見に戻ってきていたのが、めっきりなくなってしまっている。榛名のために削る時間がないというより、休憩する暇もないほど働いているようだった。疲労が顔に滲んでいたから、影虎も見てすぐにそれと分かっただろう。碧のことだ、体を休めた方がいいと言ったところで受け入れるはずもない。影虎なりに違うやり方で羽を伸ばさせていたのではないだろうか。
(二人って案外、凄く仲がいいのかも)
くすくす笑っていると、影虎が不思議そうに首を傾げた。
「どしたの? 榛名ちゃん」
「ううん。何でもない」
笑い混じりに答える。影虎は少し空を仰ぐと、榛名を振り返って笑った。
「あのさあ、最後にあとちょっと付き合ってくんない?」
「……? いいとこ?」
「おい。あまり長くなるなら俺は帰るぞ」
碧がつっけんどんに言う。
「大丈夫。宮の中だから遅くはなんないよ」
「え?」
「榛名ちゃんに、見せてあげたいんだ。今の季節だけだから」
悪戯っぽく顔をくしゃっと寄せる。碧は諦めたように溜め息をついた。
「……宮ならそう時間も取らないだろう。それならさっさと戻るぞ」
「保護者の許可いただきー。じゃ、いこっか? 榛名ちゃん」
「……うん」
榛名が頷くと、影虎は再び先導をかって進み出した。




