日常とノイズ
あの銀座の夜から、すでに一年の月日が流れている。
「……はぁ。やっぱり、今日も日暮里の蓄音機屋は空振りか」
僕は仕立てのいい黒い外套の襟を立てながら、夕暮れ時の上野の雑踏を歩いていた。手には、あの夜に瀧廉太郎から手渡された『白紙の楽譜』の手帳が握られている。
一年が経ち、僕は東京音楽学校への入学を控えた身となっていた。だが、今の僕の肩書はそれだけではない。国家調律局の「臨時の聴音生」──つまり、廉太郎の助手見習いとして、帝都のあちこちに潜む不自然なノイズを耳で探して回る、奇妙な二重生活を送っている。
あの銀座の夜の後、僕はすぐに戦場に駆り出されたわけではなかった。
夏目長官の言う「テスト」にはどうにか合格したものの、楽器も弾けない僕にできることは、帝都の街に流れる音楽を聴き、そこに「無秩序派一心党」が残した不自然なノイズが混ざっていないかをひたすら監視することだけ。
正直、地味で退屈な日々だ。あの夜のような派手な応酬なんて、そうそう起きるものではない。僕の主な仕事といえば、街の蓄音機屋に並ぶレコードの検閲や、寄席やカフェーで流れる生演奏の盗み聞きだった。
「おかえりなさい、山田くん。成果はありましたか」
上野の森の奥、赤煉瓦の分室に戻ると、瀧廉太郎がいつもと変わらない静かな佇まいで、机の上の古い和紙の楽譜を整理していた。
「駄目です、瀧さん。日暮里の店を三軒回りましたけど、ただの古い民謡や新流行歌のレコードばかりでした。一心党の『よどみ』なんて、どこにもありませんよ」
僕は外套を脱ぎ、椅子に深く腰掛けた。
「それでいいのですよ。何も起きないということは、帝都の調和が保たれている証拠ですから」
廉太郎は眼鏡のブリッジを押し上げ、煤けた懐中時計に目を落とした。
「しかし、油断は禁物です。一心党は、一見すると何の変哲もない日常の音楽に、少しずつ毒を混ぜていく。人々の精神をじわじわと不協和音に慣れさせ、世界の認識を狂わせるのが奴らの常套手段ですからね」
「日常の音楽、ですか……」
「ええ。例えば、街のチンドン屋の太鼓のリズムが、ほんの僅かに狂っているだけで、その通りを歩く人々の足取りが乱れ、些細な口論が増える。音による精神の汚染とは、そういう小さな違和感から始まるのです」
廉太郎はそう言うと、机の上に一通の報告書を広げた。
「明日は、浅草の活動写真館(映画館)を回ってもらいます。最近、そこでお抱えの楽士が演奏するピアノの音律が、どうも不自然に歪んでいるという噂が、一般の観客の間から上がっているのですよ」
「ただの調律師の腕が悪いだけ、ってわけじゃないんですね」
「それを確かめるのが、君の『耳』の役割です。大掛かりな楽譜が動く気配はありませんが、火種は小さいうちに潰しておかねばなりません。明日は僕も同行します」
「分かりました」
大物が出てくる気配など、今の帝都にはどこにもない。
ただ、明日もまた、街の小さな音のズレを追いかける地味な調査が始まる。
僕は手帳を開き、まだ一文字も書かれていない真っ白な五線譜を見つめながら、この一見退屈な「世界の裏側の日常」に、少しずつ自分の身体が馴染んでいくのを感じていた。
翌朝。浅草の街は、雲一つない五月晴れに恵まれていた。
「……すごい人ですね、やっぱり」
僕は、隣を歩く瀧廉太郎の歩調に合わせながら、浅草六区の興行街を見回した。
頭上を覆うのは、色鮮やかな芝居の絵看板や、活動写真の宣伝幟。まだ午前中だというのに、人力車が土煙を上げ、着物姿の家族連れやモダンな帽子を被った書生たちが、お祭りのような熱気で行き交っている。
「浅草は、帝都で最も”音”が氾濫している場所ですからね。それだけに、一心党のような連中にとっては、大衆の耳を汚染するための格好の実験場になり得るのです」
廉太郎は詰襟のボタンをきっちりと留め、周囲の喧騒に視線を走らせていた。
その懐には、あの和紙の楽譜──『荒城の月』が静かに仕舞われているはずだ。
僕たちが目指したのは、ひときわ大きな擬洋風の建築が目を引く活動写真館『電気館』。
中に入ると、瓦斯灯の薄暗い光の中に、すでに大勢の観客がひしめき合っていた。独特の油の匂い、そして活動写真のフィルムがカラカラと回る機械音が、狭い空間に満ちている。
白黒のスクリーンに映し出されているのは、海外から輸入されたばかりの無声映画──喜劇のようだった。
そしてそのスクリーンのすぐ下、特等席の並びには、映像に合わせて即興で伴奏をつける一台のアップライトピアノと、中年の楽士の姿があった。
「演奏が始まりますよ、山田くん。集中してください」
廉太郎の低い声に促され、僕は客席の最後列でそっと目を閉じた。
ピアノから、軽快なラグタイム調の旋律が流れ出す。
画面の中の役者が転べば、ズッコケるような音が跳ね、追いかけっこが始まれば、テンポの速いパッセージが鍵盤の上を駆け抜ける。観客席からはドッと笑い声が上がった。
一見、どこにでもある完璧な映画伴奏だ。
観客はみんな楽しそうに画面に見入っているし、隣の席の男なんて、リズムに合わせて気持ちよさそうに首を振っている。
だが──。
(……待てよ。何だ、この感覚)
僕は眉をひそめた。
耳を澄ます。脳の奥にある「原初共鳴」の回路が、その滑らかな演奏の裏側に隠された、奇妙な『棘』を拾い上げていた。
楽士が右手の小指で叩く、高音域の特定の音──「ロ(外国ではシーとかBとかいったか)」の音。
その音が出るたびに、脳の裏側を針でチクリと刺されるような、微かな、しかし酷く不快な「ざらつき」が交ざっている。それは楽器自体の不調ではない。演奏している楽士の「指先」から、五線譜には存在しないはずの歪んだ殺意のようなものが、ほんの数ヘルツのノイズとなって音に乗せられているのだ。
「瀧さん……見つけました」
僕は目を開け、隣の廉太郎に耳打ちした。
「あの右手の高音です。普通の人は笑い声にかき消されて気づかない。でも、あの音が響くたびに、客席の前列にいる人たちの呼吸のテンポが、ほんの少しずつ速くなっている。……あれ、観客の興奮を、不自然に煽っています」
廉太郎は眼鏡のブリッジを押し上げ、スクリーンの下の楽士をじっと見つめた。
「なるほど。『アルルの女』のような即死性の呪詛ではなく、大衆の精神を無自覚のうちに『軽度の狂躁状態』へ導くためのものですか。実に見事な聴音です、山田くん」
廉太郎が静かに腰を浮かせた。
「あの楽士の背後にいる『影』を引きずり出します。映画の邪魔にならないよう、裏口へ回りましょう」
と、スタスタと席を通り抜け、場外へ歩き始めたかと思ったら、
「裏口へ回る前に、少し話をしましょうか」
通路の薄暗い瓦斯灯の下、廉太郎がふと足を止め、煤けた懐中時計のネジを巻いた。カチ、カチ、という規則正しい音が、活動写真館の壁を隔てた笑い声とピアノの音を、少しだけ遠ざける。
「山田くん。君は今、あの楽士のわずかな指先の『棘』を正確に見抜いた。……あの夜、夏目長官に突きつけられた『テスト』のことを覚えていますか」
「忘れるわけないですよ」
僕は苦笑いしながら、自分の耳をそっと触った。
あの銀座の夜の翌朝、拉致同然で連れてこられた上野の赤煉瓦分室で、僕は夏目長官と瀧さんから文字通りの「試験」を課されたのだ。
不合格なら、記憶を消去されて路地裏にポイ。そんな脅し文句のなかで始まったテストは、僕がそれまで受けてきた学校の試験とは根底から違っていた。




