出会い
──音楽なしでは、人生は間違いだ。
どこかの偉いやつが遺したというその言葉を、僕は一文字残らず破り捨ててやりたいと常々思っている。
なぜなら、僕の目の前で今まさに、その高尚な「音楽」とかいうもののせいで人間が死にかけているからだ。
「ひ、あ、あああ……っ! 来るな、来ないでくれ……ッ!」
夜明かりも疎らな、深夜二時の銀座裏通り。赤煉瓦のカフェーのガラス窓が派手に突き破られ、一人の男が泥濘へと転がり出た。
仕立ての良いフロックコートはボロボロに裂け、その胸元からは五線譜のような奇妙な血の跡が、まるで呪いのように滲み出している。
山田耕筰。それが僕の名前である。僕はただ、新聞社の夜間給仕として、しがない日々を送りながら東京音楽学校への入学を夢見る貧乏書生だ。
そんなただの一般人には、瓦斯灯の薄暗い光の下、あまりの異常事態に足がすくんで動けない。
「助け……てくれ……っ! そこの君、早くここから逃げ……がはっ!?」
男が僕に向かって手を伸ばした瞬間、見えない力で背後から石畳に叩きつけられた。
男は泥に這いつくばり、狂ったように誰もいない虚空を拒絶している。怯える男の視線の先には──誰もいない。ただ、夜風に揺れる柳の影があるだけだ。
なのに、男の耳には確かに「それ」が聴こえているらしかった。
タン、タタタン、タン──。
軽快で、それでいて心臓を雑に掴み揺らすような、残酷な手拍子の音が、なぜか僕の耳にも微かに届き始める。
「無駄だよ。彼女は一度恋した男を、絶対に離さない」
闇の奥から、コツ、コツ、と西洋靴の音を響かせて一人の青年が現れた。
白い三つ揃いの背広をだらしなく着崩し、細長い手先の指揮棒でリズムを弄んでいる。フランス仕込みの、酷く端整で、同時に酷く退屈そうな顔をした異邦の青年だ。
青年の名は、ジョルジュ・ビゼー。
ルールを内側から食い荒らすテロ組織──通称『無秩序派一心党』の構成員。
「ひ、ぃ……ビ、ビゼー……! 頼む、この『神話の楽譜』は返す! だからその女を止めてくれ……!」
倒れた男が、懐から血塗られた古い羊皮紙を差し出す。
「あぁ、それ。もういいんだ」
ビゼーはひどく冷淡に微笑んだ。
「僕の目的は、楽譜の回収じゃない。君たちのような無能が気取っているその音楽の真似事を、僕の才能でめちゃくちゃにしてあげることさ」
ビゼーが指先で、ちっちっ、と振る。
瞬間。夜の空気が、まるで沸騰したようにねじ曲がった。
──楽曲、『アルルの女(L'Arlésienne)』。
「さぁ、踊ろうか。姿なき僕の初恋と」
男の背後に、ぬうっと「影」が立ち上る。
否、それは影ですらなかった。輪郭すら曖昧な、だが確かにそこに存在する「狂気」の塊。南仏の香水の香りと、鉄錆の匂いをさせた──誰の目にも見えない『女』。
見えない女の、見えない指先が、男の首に優しく触れた。
直後、男の口からゴホリと大量の鮮血が吐き出される。
「が、はっ……、あ、あああ……っ!!」
「可哀想に。彼女の愛は、凡人の心臓には少し重すぎたみたいだ」
ビゼーは退屈そうにため息をついた。
その直後、視線の先が、木箱の陰でガタガタと震えている僕へと向けられる。
「おや。哀れな観客が一人残っていたか。……まぁいいや。僕の演奏を聴いたからには、君も『アルルの女』の恋人になってもらうよ」
ゾク、と総毛立つような悪寒が走った。
ビゼーが再びタクトをこちらに向ける。
その瞬間、僕の耳元で、ベチャリと濡れた女の声が囁いた。
『みぃつけた』
「ひっ……あ、ああ……っ!」
呼吸ができない。心臓が、見たこともない大男に握りつぶされるような激痛。脳が破裂しそうなほどの、大音量の不協和音が頭の中で鳴り響く。
死ぬ。
ただの書生である僕の命なんて、この異邦人の気まぐれ一つで簡単に消えるんだ──。
──その時だった。
「……随分と、品のない演奏ですね。聞いていて耳が腐りそうだ」
夜霧を割って、静かな、しかし驚くほど鼓膜に徹る声が響いた。
僕の前に、ふわりと影が降り立つ。
それは、黒い詰襟の学生服に身を包み、度の強い眼鏡の奥で、怜悧な瞳を光らせる少年だった。
少年の手には、日本の古びた和紙の楽譜が握られている。
少年が眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。
その瞬間、僕の脳内を支配していた狂気のノイズが、まるで冷水を浴びせられたように一瞬で掻き消えた。
「はっ……はぁ、はぁ……っ!」
酸素が肺に流れ込む。僕は石畳に倒れ込みながら、目の前の黒い背中を見上げた。
ビゼーの眉が、ピクリと跳ねた。
「おや……? 極東の島国の……迷子の学生さんかな。僕の『アルルの女』の旋律を、力技で打ち消すなんてね」
「迷子ではありません。乱れた音律を正しに来た──『国家調律局』一等調律官、瀧廉太郎です」
帝都・東京。
天才と異端。二つの旋律が、最悪の夜に出会ってしまった。
「国家調律局、ねぇ。お固い政府の犬かい」
ビゼーは口元を歪め、今度は明確な敵意を持ってタクトを構えた。
「丁度いい。日本の音楽界の最高峰と言われた君の命、ここで僕の曲の『生贄』にしてあげるよ!」
ビゼーのタクトが猛烈な速度で空間を指揮する。
タン、タタタン、タン!
先ほどよりも遥かに激しい、情熱的で残酷な仏の舞曲──『ファランドール』の旋律が路地に吹き荒れた。
目に見えない『アルルの女』の狂気が、無数の刃となって瀧廉太郎へ襲いかかる。路地の煉瓦がメキメキと裂け、強烈な衝撃波が周囲の擬洋風建築を震わせた。
だが、瀧廉太郎は一歩も動かない。
彼は静かに目を閉じ、手に持った和紙の楽譜をそっと開いた。
「風荒ぶ夜に、ただ独り。……あなたの歪んだ音律、静寂で満たしましょう」
廉太郎が細い指先を虚空に這わせ、ピアノの鍵盤を叩くように空間をなぞった。
──楽曲、『荒城の月』。
ゴオォォォォン……。
どこからともなく、幻聴のような古い寺の鐘の音が響き渡る。
次の瞬間、僕たちの周囲の「音」が、完全に死んだ。
ビゼーの激しいタクトの音も、吹き荒れる夜風の音も、僕の荒い呼吸音さえも。一切の音が遮断された、絶対的な静寂の結界。
「なっ……!? 僕の『アルルの女』の音が……消された!?」
ビゼーの顔から余裕が消える。
どんなに激しい情熱の狂気であっても、それを奏でる「音」そのものが存在を許されない空間。それこそが、瀧廉太郎の持つ『荒城の月』の支配領域だった。
「この結界の中では、あらゆる音波は無に帰します。……さて、姿の見えないお連れ様は、音が失われてもなお、そこに居られるでしょうか?」
廉太郎が静かに眼鏡の奥の目を光らせる。
ビゼーの背後にいたはずの「見えない気配」が、苦しむように霧散していくのが分かった。
「くっ……! 流石は日本の至宝、一筋縄ではいかないか」
ビゼーはちっと舌を打ち、一歩後ろに下がった。
「だけど忘れないでよ、瀧廉太郎。僕たちは、もうこの国の中心にまで入り込んでいる。……君たちの身内にもね」
「何だと……?」
廉太郎の眉が僅かに動く。
「バイバイ。今日のところは、僕の負けでいいよ」
ビゼーがタクトを翻すと、突如として路地に濃い霧が立ち込めた。
廉太郎が即座に踏み込んだが、霧が晴れたときには、すでにビゼーと、最初に倒れていた男の姿は消え去っていた。
静寂が解除され、再び夜の帝都の遠い喧騒が路地に戻ってくる。
「……逃げられましたか。相変わらず捕まえどころのない男だ」
廉太郎は小さくため息をつき、楽譜を懐に仕舞った。
「あの……、すいません……っ」
僕は震える声を絞り出し、ようやくそれだけを口にした。
今、目の前で起きたことは何なんだ。
音楽で人が死にかけて、この学ランの少年が和紙の楽譜を開くと、世界の音が完全に消えた。
廉太郎は、懐から取り出した煤けた懐中時計のネジを巻いた。カチ、カチ、と規則正しい音が、先ほどまで死んでいた空間に刻まれていく。
「怯えるのも無理はありません。あなたが巻き込まれたのは、この世界の裏側で鳴り響く『調和』の戦争です。歴史に名を残す大作曲家たちが遺した楽譜は、世界の真理を書き換える『概念兵器』。我々『国家調律局』は、その力による世界の歪みを正すために組織された、日本政府直属の機関です」
「国家、調律局……」
「ええ。そして先ほどのビゼーは、既存の美しい調和を憎み、『世界なんてどうとでもなれ』とばかりに不協和音を撒き散らすテロ組織、『無秩序派一心党』の構成員です」
少年の淡々とした、けれど重い言葉が、僕の脳髄にしみ込んでいく。
その時、静まり返った路地の向こうから、パカパカと小気味良い蹄の音が近づいてきた。
霧の向こうから現れたのは、一台の黒塗りの辻馬車だった。
馬車が僕たちの前で止まると、重厚な扉が開き、中から一人の男が姿を現した。
立派な髭。眼光の鋭い、威厳に満ちた軍服姿の男。
その顔を見た瞬間、僕は息を呑んだ。新聞の紙面で、何度もその肖像画を見たことがあったからだ。
──夏目漱石。
帝国の文教を統括し、現在は国家調律局の初代長官を務める、泣く子も黙る絶対的な権力者。
「遅かったね、瀧くん。ビゼーは逃がしたかい」
漱石の声が響いた瞬間、瀧廉太郎が直立不動の姿勢を取った。
「申し訳ありません、夏目長官。一歩及びませんでした。……ですが奴は、我々の身内に内通者がいると匂わせていきました」
「身内、か」
夏目漱石は苦々しく目を細め、胸元からパイプを取り出した。
「……東京音楽学校の御用学者どもか、あるいは、あの国会でデカい顔をしている伊藤博文の差し金か。あの老狸め、西洋の『神話の楽譜』を軍事利用するために、あちら側と取引したのかもしれんね」
日本の最高権力者の名が、当たり前のように飛び交う。
僕はただの貧乏書生だ。なのに、彼らの言う「世界の調和」の渦中へと、強引に引きずり込まれようとしていた。
夏目漱石が、ふと視線を僕へと落とした。
「さて、瀧くん。そこの『観客』はどうするね。記憶を消去するかね?」
「いえ」
廉太郎は僕の顔をじっと見つめ、眼鏡の奥の目を細めた。
「彼は、ビゼーの『アルルの女』の初調を聴いてなお、精神を破壊されずに生き残りました。ただの凡人ではありません。おそらく──」
廉太郎の言葉に、夏目漱石が意外そうに眉を上げる。
これが、僕と彼ら──帝都の音律を守る『国家調律局』との、最悪で最高の出会いだった。




