異世界
眩しい――。
それが、アリシア・オサ・グランタニアが最初に感じたものだった。
白い。どこまでも、白い。
まぶたの裏を焼くような光が世界を埋め尽くし、上下の感覚すら曖昧になっている。
音もない。風もない。
まるで、自分だけが世界から切り離されたような空間だった。
「……ぅ……」
小さく、かすれた声が漏れる。
胸が熱い。
いや、違う。
熱いんじゃない。
痛い。
「……っ」
アリシアは反射的に胸元へ手を当てた。
そこには、確かに傷があったはずだ。魔王――カイラス・ヴェインに、剣で貫かれたはずなのだから。
「っ――!!」
瞬間。脳裏に記憶が弾ける。
崩れ落ちる王城。炎。悲鳴。血に染まった床。
そして――。
『必ず、生きて』
涙を流しながら笑った姉たち。
「お姉様!!」
ガバッ、とアリシアは身体を起こした。
荒い呼吸。震える肩。
だが、視界に映った光景に、彼女は息を呑む。
「……ここ、は……?」
王城ではない。秘密通路でもない。
そこに広がっていたのは、果てのない白。
床も空も曖昧で、境界線という概念すら存在しない奇妙な空間だった。
「な、に……これ……」
怖い。
本能がそう告げている。
静かすぎる。何もなさすぎる。
まるで、世界そのものが止まっているみたいだった。
そのとき――。
コツ。
静かな足音が響く。
「っ……!」
アリシアの肩がビクリと跳ねた。
白の奥。ぼやけた景色の向こうから、ゆっくりと一人の男が姿を現す。
長身。
白い道着のような服を纏い、無駄のない鍛えられた身体。黒髪を後ろで束ね、その瞳は驚くほど静かだった。
けれど――。
その静けさが逆に恐ろしい。
まるで抜き身の刃みたいに。
「……」
男は何も言わない。ただ、アリシアを見ている。
そして。
その背後には、子供たちの姿があった。
獣耳を持つ少女。エルフの少年。
みんな、警戒するような目でアリシアを見ていた。
その空気に耐えきれず、アリシアは小さく後ずさる。
「ぁ……」
知らない。誰も。
ここがどこかも分からない。
すると――。
男が、ゆっくり口を開いた。
「……あんた、何者だ?」
低い声だった。
感情を抑えた声音。
だが、その一言だけで分かる。
――強い。
圧倒的に。
「……ぇ……」
アリシアの喉が引きつる。
声が出ない。
そんな彼女を見ながら、男は続けた。
「村外れの森で倒れてた」「普通の倒れ方じゃなかったな」
「……っ」
アリシアの肩が震える。
森?
ここは、グランタニアじゃないの……?
混乱する彼女へ、獣耳の少女がびくびくしながら口を挟んだ。
「せ、先生……その子、やっぱり怪しいです……」「急に空から落ちてきたし……」
「お、おれ見た!」
エルフの少年が勢いよく手を挙げる。
「森がピカって光ったあと、この人いたんだよ!」
「しかも血まみれだったし……」「死んでるかと思った……」
子供たちの言葉に、アリシアの顔色が青ざめていく。
空から……?
そんな、まさか。
「……ここ、は……どこなんですか……?」
震える声で問いかける。
男は少しだけ黙り込み、やがて静かに答えた。
「辺境の村、レヴェルト」「王都からずっと外れた場所だ」
「おう、と……?」
聞いたこともない地名だった。
アリシアの表情を見て、男の目がわずかに細くなる。
「……知らないのか?」
「……まあいい」
男はそう呟くと、警戒を解くように小さく肩の力を抜いた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
だが、アリシアの緊張は消えない。
知らない場所。知らない人。そして、自分は追われる側かもしれない。
そんな不安が、ずっと胸を締め付けていた。
すると男は、ゆっくりと口を開いた。
「俺はサクラ」
「……サクラ?」
聞き慣れない名前に、アリシアは思わず瞬きをする。
男――サクラは静かな声音のまま続けた。
「この村で孤児たちに武術を教えている」「面倒も俺が見てるんだ」
その言葉に、背後の子供たちが反応する。
「サクラ先生はすごいんだぞ!」
エルフの少年――ユウトが胸を張る。
「森の魔獣なんて一人で倒しちゃうんだから!」
「こらユウト」「勝手に話を盛るな」
「盛ってないし!」
むっと頬を膨らませるユウト。
その様子に、獣耳の少女がくすりと笑った。
「でもほんとだよ?」「先生、めちゃくちゃ強いもん」
「……」
アリシアは呆然と彼らを見ていた。
不思議だった。
さっきまで、あんなに警戒していたのに。
今の子供たちからは、サクラへの絶対的な信頼が感じられる。
まるで本当の家族みたいに。
「……孤児、って……」
気づけば、ぽつりと呟いていた。
サクラは短く答える。
「戦争や魔獣被害で親を失った奴らだ」
その瞬間。
アリシアの胸がちくりと痛んだ。
――親を失った。
その言葉が、あまりにも今の自分と重なって。
「……っ」
視線が落ちる。
脳裏に浮かぶのは、最後に見た両親の姿。
崩れ落ちる王城。血。炎。
そして。
『必ず、生きて』
姉たちの声。
「ぁ……」
呼吸が浅くなる。
すると。
「……無理に話さなくていい」
サクラの低い声が響いた。
アリシアが顔を上げる。
彼は静かにこちらを見ていた。
「誰にでも、触れられたくない過去はある」
「……」
その言葉に、アリシアは少しだけ目を見開く。
責めないの……?問い詰めないの……?
そんな戸惑いが滲んだ。
するとサクラはふっと視線を逸らす。
「まあ、怪しいのは事実だが」
「っ!?」
「森で血まみれの女が空から落ちてきたんだ」「普通なら衛兵案件だ」
「えい、へい……?」
聞き慣れない単語に、アリシアがきょとんとする。
その反応を見た瞬間。
サクラの目がわずかに細められた。
「……やっぱり変だな」
「ぇ」
「言葉は通じてるのに、常識が噛み合ってない」
鋭い。
アリシアの背筋に冷たい汗が流れる。
しまった。
そう思った時には遅かった。
サクラはじっとアリシアを見つめる。
その瞳は静かだ。
だが、すべてを見透かすみたいに鋭い。
「お前――どこから来た?」
「……っ」
答えられない。
言えるわけがない。
自分は滅びた王国の王女で。魔王に殺されかけて。光に呑まれてここへ来たなんて。
そんな話、正気だと思われるはずがない。
沈黙。
空気が張り詰める。
すると、その時だった。
グゥゥゥゥゥゥ……。
「…………」
腹の音。
しかも盛大。
一瞬、場が凍った。
「あ……」
アリシアの顔がみるみる赤くなる。
忘れていた。
ずっと逃げ続けていたせいで、何も食べていなかったのだ。
子供たちが目をぱちくりさせる。
そして次の瞬間。
「ぷっ……!」
「アハハハハ!!」
ユウトが腹を抱えて笑い出した。
「なんだよそれー!!」
「こ、こらユウト失礼だよ!」
獣耳の少女――ミナが慌てるが、彼女自身も少し笑ってしまっている。
「ぅぅ……」
アリシアは羞恥で死にそうだった。
王女として生きてきた人生で、こんな恥を晒したことなど一度もない。
すると。
「……はぁ」
サクラが小さく息を吐いた。
そして。
「とりあえず飯にするか」
「……え?」
「腹減ってる奴を尋問しても意味ない」
その言葉に、子供たちが歓声を上げる。
「やったー!」「今日のご飯なに!?」
「先生また変なの作らないでよ!?」
「お前ら失礼だな……」
サクラは呆れたようにため息を吐くと、背負っていた大きな籠を地面へ下ろした。
そして。
「今日の飯は、俺が丹精込めて育てたこれだ!」
ドンッ!!
勢いよく掲げられたのは――。
大量のにんじんだった。
「…………」
場が静まり返る。
太い。長い。異様にツヤがいい。
しかも妙にデカい。
「ど、どうだ」
サクラはどこか誇らしげに胸を張った。
夕陽を浴びたにんじんが、やたら神々しく輝いて見える。
いや、見えるだけだ。
どう考えてもただのにんじんである。
しかもデカい。
「……先生」
ユウトが真顔で口を開いた。
「それ、ほんとに野菜?」
「失礼な」「愛情込めて育てた結果だ」
「愛情で巨大化するの怖すぎるだろ」
「またにんじんかぁ……」
ミナがしょんぼり耳を垂らす。
「お肉食べたいよぉ……」
「贅沢言うな」「にんじんには栄養が詰まってる」
「でも先生、前もその話しました」
「大事なことだからな」
「三日連続で聞いたよ?」
子供たちから容赦ないツッコミが飛ぶ。
だがサクラは動じない。
むしろ堂々としていた。
「ふっ……お前たちはまだ分かっていない」「にんじんの真価を」
「いや別に知りたくないけど」
「今日は特製だ」
サクラは一本のにんじんを掲げる。
ゴゴゴゴ……と効果音が聞こえてきそうな勢いだった。
「この“紅蓮大地参”を使う」
「名前ついてる!?」
ユウトが叫ぶ。
ミナも若干引いていた。
「先生また変なこと始めた……」
「変じゃない」「こいつは普通のにんじんより糖度が高い」
「そこじゃなくて名前!!」
子供たちが騒ぐ中。
アリシアだけは、固まっていた。
視線の先には、鮮やかな橙色。
――にんじん。
「……っ」
その瞬間。
幼い頃の記憶が蘇る。
『アリシア様、好き嫌いはいけませんよ?』
『いやです……にんじん苦いです……』
『お姉様たちはちゃんと食べていますよ?』
『うぅ……』
王城の食卓。
楽しそうににんじん料理を勧めてくる姉たち。
逃げ回る自分。
そして最後には、泣きながら食べさせられるまでがセットだった。
そう。
アリシア・オサ・グランタニアは――。
重度のにんじん嫌いだった。
「……どうした?」
不意に声を掛けられ、アリシアはビクリと肩を跳ねさせる。
気づけば、サクラが不思議そうにこちらを見ていた。
「顔色悪いぞ」
「な、なんでもありません!」
反射的に背筋を伸ばす。
完全に誤魔化せていない。
むしろ怪しい。
ミナがじーっとアリシアを見つめた。
「……もしかして」
嫌な予感しかしない。
「にんじん苦手?」
「っ!!?」
図星だった。
アリシアの反応はあまりにも分かりやすかった。
肩がびくぅっ! と跳ねる。目が泳ぐ。しかも半歩下がった。
「アハハハハ!!」
ユウトが盛大に吹き出した。
「その反応は黒だろ!」
「ち、違います!」
「いや絶対嫌いじゃん!」
「き、嫌いではなくてですね!?」「その……少々、独特な風味が苦手というか……!」
「つまり嫌いだな」
サクラが即答した。
「うぅっ……」
アリシアが撃沈する。
耳まで真っ赤だった。
王女として育ってきた彼女にとって、“好き嫌いがある”と認めるのは妙に恥ずかしかった。
するとサクラは顎に手を当て、真剣な顔になる。
「なるほど」
「……ぇ?」
「つまり、お前はまだ本当に美味いにんじんを食ったことがないんだな」
「そういう問題ですか!?」
思わずツッコんでしまった。
その瞬間。
場が静まる。
「…………」
「あ」
しまった。
勢いで素が出た。
アリシアの顔がみるみる赤くなる。
だが次の瞬間。
「ぶっはははは!!」
ユウトが腹を抱えて笑い転げた。
「なんだ今の!」「急にめっちゃ喋るじゃん!」
ミナまで肩を震わせている。
「ふふっ……」
子供たちの笑い声が広がる。
アリシアは羞恥で穴があったら入りたかった。
すると。
「……悪くないな」
サクラがぽつりと呟いた。
「え?」
「その方が年相応だ」
「っ……」
アリシアの胸が、少しだけ熱くなる。
年相応。
そんな言葉を言われたのは、いつぶりだろう。
王女として。“グランタニアの象徴”として。
ずっと完璧であることを求められてきた。
だから。
こうして笑われることも。失敗することも。
どこか懐かしく感じてしまう。
その時だった。
グゥゥゥゥ……。
「…………」
また腹が鳴った。
しかも盛大に。
「…………ぷっ」
ユウトが吹き出す。
「お前ほんとタイミング完璧だな!」
「〜〜〜っ!!」
アリシアは顔を真っ赤にしたまま俯いた。
そんな彼女を見て。
サクラは小さく笑う。
「よし決めた」
「……ぇ?」
「今日はにんじん尽くしだ」
「に、にんじんは食べられませんわよ!?」
その悲鳴は、辺境の森いっぱいに響き渡った。
――こうして、元王女アリシアの“にんじん地獄”の日々が始まるのだった。




