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「ライオネル様、起きてください」
優しい声が聞こえる。
まるでヴィアンカ様の声のようだ。
そうあって欲しいという感情が少なからずあるようで、ぼやけた視界で姫の姿を探してしまう。
この屋敷に姫がいるはずもないのに。
起き掛けで、ぼーっとする頭をハッキリさせなくてはいけない。
それなのに、先程の女性の声に気をとられてしまう。
だが、それは部屋の主よりも大きな存在によって掻き消される。
「ライオネル、此方を向きなさい」
私室に入り込むような未婚の女性は、使用に以外にいない。
そして、このような命令口調をする女性は母上以外にいるとしたらこの国の治安を担っているウーエン侯爵家に嫁いだ姉────セレーナ・ウーエンに違いない。
寝起きに強烈な姉がいるとは思わなかった。
そして、あの優しい声色の主は誰だったのだろう。
それを問いただしたいのだが、どうやら姉上は私が昼まで寝ていたことにお冠のようだ。
「次期公爵ともあろう男が、このような時間まで寝ているなんて、嘆かわしい。自堕落な生活をあなたの職場は推奨しているのかしら?」
捲し立てる姉に逆らえるはずもない。
この人に逆らうというよりも、扱いに長けているのは姉の夫にあたるウーエン侯爵家のブライアン・ウーエン子爵だけだ。
そして、私のこの姿をみた姉が次に放つ言葉は、自身の夫の称賛であり、ただの惚気話である。
いつもながら、このような姉を猛獣使いのように制御しているあの手腕は尊敬してしまう。
「本日は休みです。それにしても、姉上は何故この部屋にいるのですか?そもそも、実家だからと嫁ぎ先から帰省する頻度も如何なものかと思います。それと、甥や姪はどうしているのですか」
姉の帰省頻度は月の半分は何故かこの屋敷にいる。
嫁いだはずの者が、我が物顔で闊歩するのも如何なものか。二児の母君だというのに。
公爵令嬢として厳しく育てられたはずの姉は、夫君であるブライアン殿の前では猫を被りに被り可愛らしい女性と言われているが、その鬱憤を弟で晴らそうとするあたり質が悪い。
半月も帰省するのは、被っている猫が剥がれ落ちないようにするためと、言っていた気がする。
だが、ブライアン殿は姉の猫に気づいているだろう。
こんなにも頻繁に実家に帰る妻がいるものか。
隠し事をしているのではないかと勘繰っているはずだ。
不貞を疑われていないだけ、まだいいのかもしれないが。
これで不貞を疑われでもしたら、姉は荒れ狂うだろう。考えるだけで恐ろしい。
それを思えば、溜め息さえ洩れる。
「あの子達なら今回は、連れ来ていないわ。どうやら、家庭教師から厳しい指導が入ったようでね。それにしても、私の前で溜め息などあなた何様になったつもりなのかしら?」
「…姉上の弟です」
「わかっているなら、いいのよ。話を逸らそうなんてさせないわ。それにしても、あなた馬鹿よね。ヴィアンカにきちんと伝えれば、あの子は理解を示したはずなのに、それを伝えなかったなんて。我が弟ながら、本当に馬鹿」
馬鹿、馬鹿と連呼する姉は常に自身が正しいと思っている人だ。
今回は私が全面的に悪いので非難されようが、聞き流すこともできない。
昔は、姉の言葉ひとことひとことに行動を左右された時期があった。
あれは姉が15歳、私が8歳の頃だ。
デビュタントをまだ済ませていなかった姉は、どうしてもブライアンさんが参加している夜会に参加したいと我儘を言いはじめた。
父や母は朝から夜会の準備で忙しくしているためか、姉上と私とハロルドだけでいた。
会場は勝手知る母の実家であるフェリアン伯爵家だが、父も母も参加する夜会に、どうやって参加するつもりなのだろうと読んでいた本のページをめくらずに静観していた。
本を読むのを止めれば、姉に巻き込まれる可能性があると思っていたので盗み見るようにしていたが、一定のペースでめくっていた音が聞こえなくなったことに目を付けたのか、持っていたはずの本を奪われる。
「姉上、僕はいま読書中です。続きが気になるので本を返してください」
「何を言っているの?先程から、ページが進んでいなくてよ。私の目を誤魔化せると思っているなら、あなたハロルドに全てを譲った方がいいわ」
姉の行動を気にせずに、絵本に夢中になっている。というよりも、姉という行動に対してまだ疑問を持つことをしていない。
それだけ、純粋に育っているということなのだが。
反論しても仕方がないので、何をすればいいのか尋ねれば「わかっているのならいいのよ。いますぐ、風邪をひくか怪我をしなさい。そして、お母様を引き留めるのよ。私がお父様のパートナーとして夜会に出席するから」一瞬、何を言っているのかわからずに呆けた顔をしていたと思う。
だが、声に出さなかったことだけは褒めたい。
「あら、あなたが無理ならハロルドでもいいのよ」
「…悪魔ですか?」
笑みを見せる姉は、本当に悪魔のようだ。
ハロルドは数日前まで寝込んでおり、ようやく回復したばかりだというのにも関わらず、そのようなことを言うとは実の姉としてでそうなのだろうか。
「悪魔」という言葉が気に入らなかったのか、僕の頬を抓ってくる。言い返したくても、抓られていることにより、どう発音しようも声にならない声で終わってしまう。
「ねえ、私の可愛い弟。あなたのことだから、きっと可愛いハロルドに無体など出来ないでしょう」
向けられる笑みは、作り物と常に側にいる者ではないとわからないほど完璧だ。
この姉を悪魔でなければ、暴君と言ってもいいほどだ。
可愛い皮を被りながら、弟を扱き使う悪…否、姉は外見美だけでいえば、美しい。
そのため、16歳のデビューを周りが楽しみにしている。
勿論、姉の婚約者であるブライアン・ウーエンもだが。
「わかりました。ですが、どうして姉上は今回の夜会に参加したいのですか?あと数か月もすれば社交界にデビューのはずです」
「お茶会で小耳に挟んだのよ。ブライアン様に言い寄る女がいるってことを。子どもの婚約者ではなくて、と言っているそうよ。子どもといっても3歳しかかわらないのによ」
先程から作った笑みを崩さずに言っていることが酷い。
要約すると、ブライアンさんに近づく女性に婚約者が誰だか知っていて近づいているのかと、威嚇したい。と、いうことだ。
まだ、婚約者もいない僕からすれば、どうしてそこまで必死になるのかはわからない。
溜息を吐きたいが、吐いたのを知られると、また何かと攻撃されるだろうから吐けないでいると、姉が目配せさせた侍女にいきなり「申し訳ありません」と言われながら、水が張られた浴槽に落とされる。
申し訳ないという気持ちがあるなら、嫡男をもっと大事に扱っていただきたい。
姉に忠実な侍女も、今回のことは微妙だったのだろう。
冷たいと思っていた水が、温いことで彼女の葛藤があったのだろう。まあ、いいか。
これなら、長くいても問題はないはずだ。
1時間後に漸く、姉の許しが出たことにより部屋に戻ったが、特に風邪の兆しはない。
そのため、仕方がないが仮病を使うしかない。
執事見習いも今回の姉の暴走について、生暖かい目でみていたので告げ口はないだろう。
「母様、大変。ライオネルがとても苦しそうにしているわ。熱も高いみたい」
女優がいる。「女性は社交界ではみんな女優になるのよ」と母上がよく言っているが、ここに社交界デビューも済ませていないのに、弟思いの姉を演じる女優がいる。
仕方がないから、その舞台で熱にうなされる弟を演じよう。
ベッドに潜り込み、体温計を手で握れば体温の偽造は出来た。次は、部屋付きの侍女が姉の演技に合わせてくれればいい。
きっと、母上はすべて演技だとわかりながらも、この下手な演技に合わせてくれるのだろう。
私室に現れた母上は、困ったような顔をしながら近づいてくる。
掛け布団の隙間から覗いてみるが、全てわかっているようだ。
「ライオネル、ごめんなさいね。あなたにこのようなことをさせてしまって。でも、家族思いの優しい子に育ってくれて嬉しいわ」
ベッドの端に座り、布団の膨らみを優しく撫でる母に対して罪悪感がないわけではない。
言い聞かせるように「大丈夫よ。今夜は私がここにいるから大人しく寝ていない。そうすれば、あの子もきっと喜ぶわ。だから、あなたは無茶なことはしないのよ。それに、もう少し演技を磨きなさい」、その言葉を聞き、姉が失敗したのではなく僕が失敗したのだと思い知らされる。
深く潜り込む僕に優しい声を掛ける母を、今日だけは父や姉、弟に譲らなくていいのだと思うと少しだけ優越感を得た。
その後、ハロルドが「兄上、死なないで」と泣きながら部屋に突入してくるとは知らずに。
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