# わたしのために殺せと叫ぶ。無感情な感傷的少女(6月20日)#65535
# わたしのために殺せと叫ぶ。無感情な感傷的少女(6月20日)#65535
アレはどういう意味だったんだろう。砂浜から帰ってから、ずっと那烙の言った言葉が耳元に、那烙の姿が脳裏にちらついてしまってベッドの中に入ってもビイトの気持ちはまったく収まる気配がない。ディスコミュニケーション状態の突破。言葉にならないことを伝える。遠足の前日みたい。いやもっとひどかったかも。昨日はなんだか顔も合わせづらく、メギドドアーにはいかなかったし。
まだまだ那烙の怒りは収まっていないのだろうか…とたんに今度は憂鬱になる。
でもサボるなんて選択肢はやっぱりビイトにはなくっていつものように家を出るしかないのだ。
でも本当の敵はメギドドアーじゃなくて教室にいるのかもしれない。今までだったら絶対、この戸を開けた瞬間…湯気がでるんじゃないかってぐらい顔を真っ赤にして怒っていることを隠そうともしないみたまが出迎えてくるんだ。
一体どこでどうやって情報得てるのかわからないけれど那烙とビイトに何かあれば必ずみたまはビイトにうーうー怒り散らすのだ。
そう思うとこの教室の引き戸も鉄の扉みたいに固くて冷たくて重い。
「…おはよ」
誰も返してくれないってわかってるけれど、もし、を考えるとやめることの出来ない挨拶をとりあえずして…何もなかった。
あ、あれ?ビイトは拍子抜けしてしまって教室をぐるりと見回した。
「ぅー…」
みたまはぐったりと机にうなだれていた。今日はなんとか触角みたいに立てようとしたらしい髪の毛もしなびたみたいにへろへろになってしまって見るからに元気がない。
「み、みたまさん…?」
ビイトが近寄ると、みたまはゆっくりと顔を上げた。その目はどんよりにごっていてしかもビイトを責めているのがありありと感じられるんだ。
…え?ビイトは思わず、瞬きを繰り返した。
みたまの目の中に映っているのは…これ、誰だ?
ビイトは赤い髪と赤い目をした真っ赤なチビだ。でも、みたまの目に映っているのは全然違う人。
真っ黒なぼさぼさの髪に常に何かを見下すような目。口元はみるだけでいやになるニヤニヤ笑いを浮かべていた。
それは、ビイトを見ながらニヤニヤ笑って、まるでビイトの何かを試しているようだ。違う、試されてなんかいない。ただたんに本当に笑いものにされている。それは那烙みたいな哲学に後押しされているわけでもなく、この世界のみんなのような恐怖侮蔑軽蔑にも当てはまらない。ただ、自分の優位性を示すためだけに理由もなく、ただ全てを馬鹿にしている。そうしている自分をひとつ上の、もっと偉い存在だって思わせる、いや、そう思うためのただそれだけのために。
思わず、手を握り締めた。手袋ごしなのに、爪が食い込む感触を感じるぐらい強く。
みたまさんの目の中に映った男に僕は いま
復讐を
誓う
「どうかしましたか?」
「…えっ!?」
「な…なんだか、びいとさまがびいとさまじゃないみたいで…」
はっとしたビイトが見たのは怯えた目の色をしたみたま。
「すごく怒ってる…ですか?…今にも、噛み付きそうです…」
「…ごめん」
そこでビイトは握っていた手の平を緩めた。今のみたまの目にはビイトが映っている。いつもの、赤い目の、赤い髪だ。
「なにか、あったですか…?」
「いや…多分、僕の見間違いだから…うん、そう…」
呟く。それでもみたまからは不安の影は消えないままだった。
「ひょっとして…近づいて来てるです?」
「…なにが?」
「いえ、わ、わからないならいいですぅ、ごめんなさいっ、忘れてくださいっ」
みたまは那烙のことを話すときもそうだけど、決定的な何かをビイトに隠しているのがありありと感じられた。なのにそのことをけして認めない。
那烙はそういうことがあることを素直に認める。そしてこんなビイトに遠まわしで不器用ながらも励ましてくれたりもするのだ。
でも、みたまが隠し事をするの責める権利なんてもちろんビイトには権利は全然ない。むしろ、みたまはビイトなんかのずっと相手をしてくれたわけだし。この教室の中でまともな意味でビイトを視認してくれるのは彼女だけなのだ。
でも、だからといってむかつきを抑えることが出来ない。
「な、なんでいつもそうなの?」
ビイトがやっとで絞り出した声に、みたまさんは雷にでも打たれたかのように体を強張らせた。
「い、いつもそうだよ…なにかと僕に対して思わせぶりなことを言って…そのクセにやっぱりいいですなんて…みたまさん、一体僕の何を知っているの?この、呪いのことなの?」
「ごめんなさい…今いっても…きっと逆効果だから…まだ、びいとさまには覚悟が出来ていないです…びいとさま、まだこの世界のこと好きだっていいますよね?」
「当たり前じゃないか!!どうしてそんなこと訊くの?青い空、白い壁、そして赤い太陽。なにもかもがみんなを祝福してくれているんだよ?どうして、どうしてこんな世界を嫌わないといけないの?僕がっ、僕が嫌いなのは僕だけだっ!!この赤い髪と赤い目、呪いに呪われたイルフィンガー!!これさえなければ僕はきっと、きっとみんな…みんなみたいにっ…っ!!」
そこからはぜんぜん言葉に出来なかった。
「びいとさま…ひとつだけ、本当のことを言わせてください。その赤い髪も、赤い目も、ねじくれた指先も全然、呪いなんかじゃないですぅ。呪いなんて思っているのはびいとさまがそう思うからです」
「どういうこと…?」
「それは全部、びいとさまの欲望と罪悪感がそうさせているんです。びいとさまはただの、そう、びいとさまが見ているような人たちになろうと思えばいくらでもなれたんです。だけどびいとさまはそれを選ばなかった。なぜならびいとさまは特別でいたかったし、それに、おいてきぼりにしてきたものをまだ振り切れていないからですぅ」
「ど、どういう意味?」
「なんでびいとさまが指先、そして、その赤い髪と赤い目にこだわってしまったのか…それはびいとさまがその気になればスグにでもわかることですぅ…でも、みたまはこれ以上のことをいいたくありません…やっぱり、びいとさまがそれを望んでいないのなら」
みたまはこれ以上の質問はやめ、とでもいうようによわよわしく首を振った。でもその奥には強烈な拒否、が秘められていてそれ以上何も聞くことはしなかった。
ただ、少し、何かに近づいた。
那烙を中心に迷い込んだビイトの日常は少しずつ、ひび割れてきているようだ。今まではきれいに演奏されていた曲のはずなのに、ガラスを砕くような、あるいは鉄を引っかくような、そんな違和感が入り込んでいる。
ビイトはこの世界に包まれて幸せだったはずなのに、今もそう思っている。そのはず。そのはずだ。
この世界から逃げるために死のうとする、那烙。
このビイトを呪いじゃないと言い切った、みたま。
ビイトはこの世界も、そして自分ってモノもなんだかよくわからなくなってしまった。
窓の外、いつものように青い空と赤い太陽が顔を覗かせている。だけどそれはいつものようにビイトの心に平穏をもたらすわけじゃなくて、まるでその奥に見たこともないような、どす黒い悪意が渦巻いているように思えてしまうのだ。
空が青ければ青いほど、太陽が赤ければ赤いほど、そしてこの町を囲む壁が白ければ白いほど。
その奥に隠されている、感情は、仮面に遮られた本性は、激しく、生臭く、そして獣臭いものなのかもしれない。
薄ら寒さを覚えて思わず身震いをする。そうだ、よく考えればこの世界はパーフェクトすぎた。壁に包まれたこの町、ビイトを抜かせば些細な争いすら存在しないし…
ただ、あの斜めに傾いた塔だけが不完全だった。まっすぐに立つことはできなくても、それでも根を張りしっかりと立っている。
思わず自分の輪郭をなぞって確かめたくなってしまった。少しずつ揺らいで、この世界ごと消えていってしまいそう。
そんなときにふと思い浮かんだのはやっぱりメギドドアーに住む那烙のことだった。
ビイトにとっての那烙はいつだって力強く、そして迷いがない。その方向が何処を向いていようととにかくビイトは何かに後押しされていたかった。
生まれて初めて授業をサボってしまった。
…ああ、僕なんかがこんなことしたらあとでどんな目にあうんだろう、とすでにもう後悔の念にまみれてしまったビイト。
でも目の前に聳え立つ、今にも倒れていってしまいそうなこの斜塔が今はなんだかとても安心させてくれる。
「那烙さーん」
ビイトは塔の前で叫ぶけれど、誰も答えてくれない。だけど今日は閉ざされているはずのあの重い扉の鍵が開いていた。那烙は出かけているんだろうか?
出直してくるべきだろうかとも思ったがビイトは吸い寄せられるようにメギドドアーの門を開ける。
扉を軋ませながら中に入ると、長い長い、廊下がそしてその脇に飾られた絵の数々。
初めてこの絵をみた時、ビイトは悪寒とか、気持ち悪さばかり感じてしまったけれど今は違う。ぞくっとしてしまう。これは、結局は人を見下すための何かじゃなくて、そうすることでしか自分を保てなかった、そんな絵だ。だからいわゆる絵のルールをたいした思想もなく、適当にはみだしてしまって描き上げられたこの線描は弱くて、細くて、怯えている。吼えるだけの子犬みたいなものだ。ちっちゃくて、弱い。
まるで僕みたいだ。
そう思うととても近くて遠い、そんな存在に触れるように、ビイトは指先を絵に伸ばそうとしていた。
そうだ、この絵は僕に一番近くて、そして遠い。
指先が絵に触れたとき、ぐらり、と揺れた。一瞬地震かと思ったがそうじゃない。ビイトの視界が揺れたのだ。
そして額縁の中の絵が消えそこに浮かんできたのはあの男だった。
真っ黒でぼさぼさの髪をしたいつでも人を見下そうとしているあの男だ。
授業中そいつはいつもノートにクラスメイトの絵を描き散らしていた。頭の中では持てる限りの語彙を用いての馬頭と呪詛を吐き散らしながら。いつも女の話しかしない男にはペニスが顔中から湧き出す絵を、下品な笑い声をあげる女には顔のパーツをすべて派に置き換えて虫歯だらけの黒ずんだ歯が下卑た笑い声をあげる絵を。あるいはあるいはあるいは。そのノートにはクラスメイトを悪意でコーディネイトした異形図ばかりで蔓延していた。そして今日も変わらない。授業が始まった瞬間巧みに、教師にもクラスの視界からも隠しながらそいつはまた絵を描き散らしている。
「おい」
「あ…那烙さん」
廊下の向こう側に立っていたのは入院服みたいな真っ白な部屋着に身をまとった那烙だった。首の周りはタオルをマフラーのように巻きつけてある。
「あ、じゃないぞ、お前。ここは人の家だ。わかってるのか?不法侵入は変態だぞ」
「ご、ごめんなさい」
「その上、絵を取ろうとしていたな?なんてヤツだ、お前、そんなにわたしに仕置きをされたいのか?本当に懲りないやつだな」
そこでビイトは慌てて伸ばしたままの腕を引っ込めた。
「ち、ちが…そ、そうじゃなくて、この絵が、この絵がなんだか…」
さっき見えた映像のことはさすがに口にしなかった。が、那烙はそのビイトのセリフだけで何かを察したみたいだった。
「…ふん、そうか。時期が近づいてきてるってわけだな。そりゃそうか、もう十日をきった。それにわたしが歯車をより速く回しているし」
「歯車…?なんの話なの?それに七月まであと十日をきったけど…それがどうかしたの?」
「二者択一の時間まであとそれだけってことだ」
「…?」
「もうかなりのところまでわたしはわたしが恐れてる悲劇がなんなのか分かってきた。もう少しで確信に変わるだろうな。
お前といること。それがこのフラッシュバックする記憶の中で一番大事なことだったんだ。
漫画みたいなセリフだが本当にあるとはな。思い出さないほうがいいこと、知らなくていいこと。おかげで最近のわたしは気が重い。この推測がまったくの的外れであればいいのに、と。
そしてわたしは悲劇の本質に気づくとともにこの世界の秘密にもあと少しでたどり着けそうだ。
まったくもっていらないおまけだよ。わたしの頭を悩ますモノはわたしのことだけでいいっていうのに」
「この世界の秘密…?」
「まぁこれはビイトにも関係することだからな。サービスだ。世界の秘密ぐらいは簡単に教えてやる。
この世界はな、ビイト。当たり前の世界じゃないぞ。歪みまくったイビツなカタチさ」
「歪み…イビツ…?」
ビイトは口の中で繰り返した。なにをいってるんだ?この世界は今までもこれからもずっときれいであたたかい。そのはずだ。
さっきまで自分も世界に感じていた違和感を必死で押し殺そうとする。この世界が素晴らしいものであってほしい、その願いが壊れないように。大事にそっととても柔らかい布で包んで押し隠してしまいたいのだ。
「まぁ歪な点なんて言ってしまえばいくつもあるんだがな、とりあえずわかりやすいやつだけ指摘してやるぞ。
まず、こんな壁に囲まれた土地はありえない。昔と違うんだ。こんな外からの流通を完全に立った状態で一つの都市が成り立つと思うか?食料にしたってなんにしたってな。
そして二つ目。晴れたままの空だ。雨が降らないどころか曇り空すらない。おかしいことだろう。
ビイト、お前いつでもボケーッと空ばっかり見てるだろうからよく思い出してみろよ。
この一ヶ月、雨や曇りなんてあったか?それどころか雲の一欠片だって見たことがあるか?ないだろ?そういうことだ。
最後だ。わたしと、みたま、そしてお前という三つの異物だ。
わたしたちは当たり前の世界ではまず存在しない三人だ。わかるか?」
「ぼ、僕はわかるけど…みたまさんと那烙さんは、なんで?」
たしかにビイトにはわかりやすい特徴がある。呪いだ。
「まずみたま。あいつは実体を持たない。わかるか?わたしとお前以外には見えていないんだ」
「え、ええ?」
「理由は多分、オマエの欲望が相反してるからだな。だからそういう妥協点を取っている」
「そ、そんな一遍にいわれても何がなんだか…」
「お前は決断しなきゃいけない。その時間は長ければ長いほど、お前はきっと納得のいく決断を出来るだろ?だったらわたしの言う事をよく聞いてその意味を考えろ。わたしも本当はお前を甘やかすのは嫌いじゃなかったんだがこればっかりは完全にお前が決めないと意味が無いんだ。
相反するというのはな、お前はみんなに責められてもしょうがない、と思っているからだ。これが一つ目の欲望。まぁ欲望というよりも負い目とか罪悪感がそうさせたっていう方がわかりやすいがな。まぁ突き詰めればそれもそうして欲しいって欲望にはかわりないだろう?
だけど同時にお前はちやほやもされたかったはずだ。お前は他人と違う。誰よりも優れている。そんなふうに。こんなもの、同時に成立するわけないだろう?だから、存在空間をずらしてある。異物であるわたしたちにだけ認識できるみたまという存在と、この世界のほとんどを占める群衆とが。不思議に思わなかったか?お前が責められる現場に一度としてみたまが遭遇したか?逆に、お前がみたまとしゃべっている時に誰かに一度として侮蔑の視線や暴力を受けたことがあるか?」
「た、たしかに…で、でもそれって偶然じゃ…それに」
「まだ一番大事なことをいってなかったな。ビイト、この世界はお前のためだけにある。
そしてその証拠が一つの世界としてありえない、さまざまな現象だ」
「この世界が僕のために…どうして?」
「そんなことは決まっている。ここはお前の頭の中だから。だから全部お前のためにあって当たり前だろう?」
思いも寄らない事実の連続にビイトの脳はグルグルと回り続ける。受け入れたくない気持ちもあるけどそれはつまりどこかで事実だって認めていることになるんだろうか。いや違う、そんなことがあるはずがない。
そんなビイトの混乱もどこ吹く風で那烙は続けた。
「お前のその姿一つとってもそうだ。なんでお前の呪いは指先に宿っているかわかるか?その指先に込められた力のことを。お前はその指で他人に対して自己の優れたところを、そして個性を主張しようとしただろう?
それと同時にお前は見てて哀れになるぐらい、自らに劣等感を持っている。そしてそれを必死に隠して生きようとするうちにそれは最終的にわたしに対しての負い目になった。だからお前は責められる。
でもお前は自分自身の存在を認めて欲しいという欲求を捨てきれないからみたまという存在を作ってしまった。
わたしにしてもそうだ。お前はわたしに対しての負い目か何か知らないが、わたしに絶対死なない体を与えた」
「…う、ウソだ、ウソだよっ…そ、そんなことって…この世界が僕の頭の中だなんて…」
「なにが真実かなんていずれわかるさ」
「それに、那烙さんが死なないなんてこともウソだっ!!死なない人間なんているわけがないっ!
だからこの世界はほんとうの世界なんだ!誰かが創りだした…ましてや僕の頭の中なんてそんなことあるはずがない!」
手っ取り早く那烙の言葉を否定したかっただけだ。だけどすぐにその言葉をなかったことにしたくなる。
「へぇ、じゃぁみてみろ」
ニヤリと笑うと那烙はしゅるり、と首の周りのタオルを外した。
初めて那烙の首がビイトの視線にさらされる。
首の周りには赤い線が、まるで首輪のように走っていた。
「ほら、これでわたしをどうやって殺すというんだ?」
那烙は自嘲混じりに両手で自分の頭をわしづかみする。そして、持ち上げた。
「う、うあ、うわわ」
思わず地面に尻餅をついて、ビイトは何かを探るように手をわさわさ動かした。それは目の前の光景を信じたくなくて確かなものをつかみたかったのだ。
え、え、な、なんで、そんな、馬鹿な…。
「わたしを大事に思ってくれるのは嬉しいが、これはやりすぎだと思うぞ」
那烙はまるでバスケットボールのように、自分の頭を小脇に抱えてしゃべった。
本来あるべきものがなくなった首からは血も吹き出さず、気管や食道といったものの断面が丸見えだった。
「まったく、たいしたものだ…なぁ、ビイト?これじゃ、どうやったら死ねるかちっともわからん」
わ、悪い夢だっ、こ、こんなのは、だって、だって…
ぐにゃり、と斜塔が歪む。よくわけのわからないアレで視界が霞む。
斜塔の頂点を中心にするように周りの景色が巻き込まれていく。そんな中でも那烙の姿はぶれずに立っていた。輪郭も髪の毛一本すら霞むことなく、より強い存在として目の前に立っている。
那烙は抱えていた頭をぞんざいに首に乗せなおした。そして接続がうまくいっているかを確かめるように頭を掌で包んだまま首を左右に2、3度振る。笑っていた。那烙は笑っていた。だけどそれはとても楽しいとか嬉しいとか、あるいはよく見た侮蔑や嘲笑も含まれていない。純粋で無垢でたださみしげだった。
ビイトは涙をぼろぼろとこぼしながら立ち上がることも忘れている。嗚咽が喉を登ってくる。酸っぱいにおいが口の中いっぱいに広がる。それを口を開けずに必死に飲み下そうと格闘していた。手のひらを口で抑えることすらしない。それを那烙に気取らせてしまってはダメだ。目の前の女の子を否定してしまうようなことをしてしまってはダメだ。
歩み寄ってきた那烙も膝をついてビイトと視線の高さを合わせる。鼻と鼻が触れ合うほど顔を近づけると手袋越しのビイトの手に指を絡ませる。
身体が強張ることを止めることができなかった。
「また振りほどかなくてもいいのか?」
吐息がほほに当たる。口を開けば堪えているものがあふれ出してしまいそうで涙目のままビイトは首を振ることだけで必死だった。
「そうか、ありがとう」
はっきりとした感謝の言葉。およそ那烙の口をついて出るとは思えなかった言葉。だけどビイトは吐き気を抑えることだけに必死で何もしてあげることなんてない。情けなくて涙は止められそうにない。




