# デッドガールズデッドエンド(6月20~30日)#65535
# デッドガールズデッドエンド(6月20~30日)#65535
握りしめられていたはずの手の平の感触はいつの間にか消えていた。頭が重い。鈍い痛みが脳の奥で呼吸をしている。ズキンズキンと心臓と同じリズムで痛みが送られ続けている。霞んだ目に視界が戻るのを待ちながらビイトは今の自分の置かれた状況を確認した。空は赤い夕暮れ時間だ。那烙のあの告白を目の当たりにしてだいぶ時間がたっていたらしい。那烙の姿ももう消えている。下半身に伝わる感触からあの時と寸分変わらずぺたんと無様なしりもちをついたままのことに気づいた。
「那烙さん…?」
呟いた言葉はそのまま空に吸い上げられ誰にも届かず消えていくようだった。斜塔は変わらず目の前にある。夕日に染められた斜塔の色は血に濡れた赫のようだ。
「那烙さん…?」
もう一度繰り返すがその言葉に応えるべきものはいない。いつもならうるさく聞こえていたはずのセミの声も無かった。
立ち上がって斜塔に向かうがその入り口には重苦しい南京錠がいつものようにぶら下がっていて今はこれが開くことはないのだろうとわかった。
残された時間はあと10日。
その10日間をしっかり考えろと那烙は言った。後悔のない選択を、とも。脳裏に焼き付いた場面は衝撃的といって差し支えない首を持った那烙の姿ではなくビイトの手を握った那烙のほうだった。あのありがとうはビイトには理解が及ばなくても那烙にとって大事なことだったことはわかる。
「お疲れさまでした」
はじかれたようにビイトが振り返るとそこにはみたまがいた。いつもならいろいろといじりまくった髪を今日はただ束ねておろしているだけだ。
「お疲れさまってなにが?」
「いろんなことが一気に押し寄せてしまって大変だと思ったですから」
「それはあの…」
口に出すのもはばかられるあの男。黒いボサボサ髪の男。何かがあるたびにちらつくその男がきっとビイトとこの世界にとってとてつもない因縁を持つ存在だということはいい加減に気付いていた。二つを結びつける鎖であると同時にバランスを保つ天秤のようでもある。
「あ、大丈夫ですよぅ。わたしはある意味ではビイトさまよりずーっとこの世界のことを知っているんです。だから無理して言葉にすることはしなくていいんです。びいとさまの頭の中にその情報があるってこと、それが一番大事なのです」
「…わかった」
「今までみたまは何とかビイトさまに自分の意志で扉を開いてもらいたいって思ってました。
だけどそのためにみたまがしたことってなにがあるのかなってずっとずっと考えました。一か月間ずっと。でも誰よりも長い一か月間。
みたまはあの死にぞこないがずっとビイトさまをこの世界に縛り付けているって恨んでいたのです。でもあの死にぞこないはみたまよりずっと何もないのに、何度も何度もリセットされて初期化されてアンインストールされて再生成され続けていたはずなのに、なのにみたまよりよっぽど何かを持ってるし、みたまよりもずっと先に進んでいる。
今日ここで何があったかなんてのはビイトさまに聞かなくても知っています。あの女がある時から何度も同じことを繰り返して拒絶され続けていたそれが今日初めて変わった。
だからみたまも頑張らなきゃってファイトファイトみたまのターンなのですよっ」
口調こそいつものみたまに寄せようとしていてもまるで空元気なのが伝わってくる。わざとらしく握りこぶしを両手に作ったポーズも痛々しい。
「今までのみたまは何となくの雰囲気で自然とびいとさまが扉を開きたくなる、そういう風に世界を、びいとさまを誘導しようとしていました!というのも言い訳で実際は何もしてないのと一緒です!ええ、ええ、みたまはいざとなれば潔ぎのよい萌えキャラ、江戸っ子属性も兼ね備えているからはっきり言います、言ってやるってばよ!てやんでぇ!あの死にぞこないにどうのこうの言う資格がないほどみたまはビイトさまとの時間が好きでそこに甘んじていたのです!ぬるま湯にかかとから首までずっぽしなのです!申し訳程度にそれっぽいことをつぶやくだけの中二病だったのです!なのにジャッジメントデイが来るたびに扉を開けろ開けろと喚き散らすだけのとんでもないだだっこでもあったのです!
その結果が今のこれです!本来ならみたまの仕事のはずのもろもろをあの死にぞこ…もうそう呼ぶのはやめます。みたまと違えど目指すものは違えどあの子も萌えスターを目指す同志でもある、そして今は目的だって同じにする同志…失礼、話がそれました、だから敬意を表して那烙さんガールと呼ばせてもらいますのですよ。
那烙さんガールは甘えたみたまと違って何度もチャレンジしてついに突破したのです。ディスコミュニケーション状態を!だから本当の正ヒロイン、絶対的びいとさまの正妻ポジションを譲りたくないみたまもここで正々堂々とわがままを宣言するのです!
びいとさま、みたまとみたまとあのラストダンジョンを攻略しましょう!!メギドドアーを完全攻略するべきなのです!そしてこの世界を、今度こそ終わらせるのです!
だってみたまはだだっこだから…こんな世界、たたっ壊したい!!」
拳を高々と掲げたみたまはまるで正義のヒーローのようだ。伸ばした手を太陽まで届くように、それはこの世界への絶対的宣戦布告。
けれどそれにこたえる言葉はない。
「…びいとさま?」
「この世界を終わらせなきゃいけないっていうのはなんとなく理由はわかったよ。
けれどこの世界が終わってしまったら?ここにいる人たちは?みたまさんは?那烙さんは?みんなは?
どうなってしまうの?」
「それは…その…もともとどこにもなかった世界です、存在です、だからそこに戻るだけですよ」
「そっか…」
「う…やっぱり納得いきませんか?でも」
「わかるなんて言えないけれどそうした方がいいんだろうなっていうのはあるんだ。メギドドアーを開かなきゃって。でもそれは本当に僕のためなんだろうかって」
「決まってます!!だって今もあの扉の向こうには!みんなそのために、そのためにですね!!」
「ごめん、那烙さんは考えろって言ったんだ。それにまだ7月まで時間はあるから、今日だけはせめて」
「そうですね、本来ならすべては7月までわかるはずもなかったこと、それをこれだけ予定を早めてしまってはびいとさまだって整理する時間は必要ですよね。
でも!これだけは忘れちゃだめです!みたまは!びいとさまをあきらめない!あの扉の向こうにびいとさまを笑顔で送り出すこと!それだけがみたまがみたまであってびいとさまにできる唯一最大のご奉仕なのです!」
みたまはそういうとビイトの手をぎゅっと握りしめてぶんぶんと振った。
「でもそれとこれとは別でみたまは那烙さんガールに負けていたくないですからね!だから手だってつないじゃうし同じラインに立たないとだめなんですっ!今日はこれくらいにしてあげるんだからぁっ」
みたまは笑って手を離した。その笑顔は崩れないように剥がれ落ちないようにしっかりと端正に作られていたけれどあまりに完璧なその笑顔はやはり泣いて見えてしまうのだった。
手を振って走り去るみたまは夕焼けの光線に抱かれているせいかまた透き通って見えた。
そんな時でもビイトは自分が扉を開かなければという使命とその理由をもう一度噛み締めた。だけど心置きなくそれをやれるか、というとその自信はない。その理由をうまく言葉にできない。でもそれをどうにかしないことにはきっと前に進めない。
静まりかえった夕焼け時間の中をぽつりぽつりと校門に向かって歩く。歩くべき場所を早く見つけなければ。今のままのビイトではどこにもたどり着けないビイトだ。今日から始まる時間は限りないループの中でもがきあがき続けた那烙の与えてくれたモラトリアムだ。
だから決着をつける。次はない。誰かの瞳に映るあの男に怯えるのはもう終わりだ。悪意の塊に晒されたとしても負けない。それだけは絶対に為すべきなのだ。
次の日にビイトは初めて前だけを見て歩いた。駅から学校へ続く道、いつもならただ怯えてタイルの模様と数を数えながら歩いたこの道。すれ違う同じ学校の制服にはいまだに条件反射で身を震わせてしまいそうになるけれどできるだけ堂々と。
相変わらず誰も彼もから避けられて侮蔑の目を受ける。いつもならすぐに負けてしまうけどもう負けない。負けない。そう何度も呟き呟き言い聞かせながら校門をくぐる。そして自らの教室がある一号校舎へ向かうために中庭を横切ろうとする。
バサバサッと中庭に唯一植えられている樹が大きく葉を散らした。同時にドスン、と思いものが地面にぶつかる音。
もしかして、と思う間もなく地面に突っ伏していた人物は立ち上がった。一瞬ふらつくもののそのままビイトの襟首をつかんで引き寄せる。
「おい、お前、なに普通に教室行こうとしてるんだ。今がどういう時期かわかってるのか、なぁ」
そこにいたのは相変わらずの黒いセーラー服に白いネックウォーマーで口元を隠した那烙だった。黒い髪のあちらこちらには緑色の葉っぱが絡みつき額から流れ始めたちはあっという間にネックウォーマーを染め始める。
「那烙さんこそどうせ死ねないのにまたこんなこと」
「ビイトお前いつからそんな生意気なことわたしに言えるようになったんだ。散々どっちが上か教えてやったと思ったんだが。足りないならまだ教えてやってもいいんだがそういうことだよな?」
「え、え…そんなつもりはないです…」
「ふんっ、じゃなくてなぁお前なにやってんだビイト。どう転んだってこの世界はあと10日もないっていうのに学校に行ってなんになる?なにをしろっていうわけでもないが少なくとも今は学校に行ってる場合じゃないだろ。お前あれか?世界の終りも心乱さず平穏の中で迎えたいとか惚けたこと言うつもりじゃないだろうな?」
「でも7月にならないと何もできないんだよね?だってジャッジメントデイはその日、メギドドアーが開くのはその日のその時間だけだってみたまさんも言ってたし」
「お前…のんきだなぁまだ気づいてないのか?あとわたしの住処をそんなセンスのかけらもない名前で呼ぶな。お前自分の家をゴッドタワーとかヘルホールとか呼ばれて町のうわさにされたいのか?正直それは中二病未満の英単語の存在を知ったばかりの小学生男子のセンスだぞ。ああでもお前もその呪いをわざわざイルフィンガーとかいう変な名前つけてたんだっけ?なにがイルフィンガーだマジダサい」
「な、なんでそんなに元気よく僕を苛めるの!?昨日の那烙さんはいったい何だったの!?」
那烙のほほが一瞬赤く染まったように見えたがそれは頭から流れる血と見間違ったのかもしれない。那烙はネックウォーマーを改めて引き上げると小さく咳ばらいを一つした。
「忘れろ、昨日のことは正直汚点だしわたしは帰ってからベッドがプールだったら100メートルは泳げるぐらい身悶えしたんだ。それもこれもビイトのせいだぞ。それよりアレだ。アレを見てみろ」
那烙の視線の先を追うとそこには斜塔がある。が6階建て、およそ20メートルほどの高さのはずであった斜塔はぐんぐんと伸びそれは天を衝くようだ。そして一度たりともこの世界に現れたことのない雲がはるか先の斜塔にまとわりつき先端はその向こうで伸びているのだろう、確認はできない。斜塔にまとわりつく雲は天気予報図で見る太陽のように大きな渦を巻き、その雲の色も雨を告げる前兆のような鉛色が絡まり合っている。が、その周りの世界は今までと同じく雲など見つけることもできない青い空が広がっていた。
今までもその斜めに傾いた造形は不安を掻き立てた。その角度を保ったままどこまでも伸びているかのように聳え立つ今の斜塔は更なる圧迫感を感じる。暴力の塊だ。まるでこの世界を叩き潰すためのハンマアが振り下ろされるための準備のようにすら感じた。
「なにあれ…」
「わたしが訊きたい。大体この世界で起きることはお前のせいだって決まっているんだからな」
「や、ぼ、僕だってわからないよ」
「ふぇ…メ、メギドタワーが…メギドベリースーパーハイタワードアーになってるですぅ!!!」
突然の声に那烙とビイトは同じタイミングで振り向く。そこにいたのはみたま。今日は学校指定のセーラー服ではなくアニメに出てくる制服のような白と黒を基調にした、装飾過剰気味の服だ。特にネクタイとスカートの裾に十字架をあしらっているあたり那烙に言わせれば厨二力の高まりを感じるデザインだ。髪型もヘアピンで形を整えた長さを左右非対称にしていてコスプレっぽさを感じる。
「なにがメギドベリースーパーハイタワードアーだ。やべえセンスのなさだな。さすがにここまでくるとむかつきを通り越して憐れみを捧げたくなる。そんなゴス厨二丸出しの恰好するんなら少しぐらい神話だとか宗教だとか思わせぶりな哲学用語とか使ったらどうだ」
「出たな、那烙さんガール!あれはいったいどういうつもりなのですぅ!せっかく今回は早期メギドドアー完全攻略のために決戦服を用意してついでにビイトさまの正妻の座もディフェンディングチャンピオンしようと思ったのにこの仕打ち!あんなの高難易度ダンジョンってレベルじゃねぇですよぅ!くそげー!くそげー!!」
「人んちをくそげー呼ばわりするな。一介のニートであるわたしが思い付きでこんなことできるはずないだろ…わたしだって起きたらあんなんで困ってるんだ。大体なんなんだその那烙さんガールって…この前まで人を死にぞこない呼ばわりしてただろうがお前…」
「そ、それはその…そのですねぇうぅ」
「あ、みたまさんは那烙さんのことを尊敬したので仲直りしたいんだよ。ね?」
「はぁ?わたしとお前は交わらないことに意味があるんだろ、なに言いだしてんだ。そもそも私はビイトに尊敬されようとはしていたが貴様に尊敬してもらいたいなんて思ったことはこれっぽちもないぞ。それともなにか?わたしを殺してくれるのか?何しろ尊敬する自殺志願者に会えばおのずとその引導を渡したくなるはずだからな」
「那烙さんやっぱりその理論は無理が…うぐ」
最後までしゃべるのを許さない那烙はとりあえずビイトに腹パンをかましてみたまに向き直る。照れ隠しの意味が隠されていたとしてもひどい。
「ビイトは黙ってろ。で結局なんなんだ。わたしたちはあまり会わないようにしてたはずじゃなかったか?」
「もちろんそれはそうです!みたまと那烙さんガールは本来目指すゴールが違いますから。でも昨日は確かに事実ちょっと負けたなぁって思ってしまったのです…だ、だからですね!敬意をこめて那烙さんガールと…!あ、でも今日から先は負けっぱなしじゃないですよ。むしろ全勝ちの勢いで行くので覚悟しておくことっ」
今までと変わらない調子の決め台詞に指をさすポーズはたぶんみたまのお気に入りなんだろう。那烙はその指を握り締めて自分から外した。完全なるスルーの態勢であった。
「なんでもいいけどあまり大きな声でしゃべるな。お前の声は頭に響くんだ。とにかくあれか、みたまもあの状態の斜塔は見たことがないってことか」
「みたまが覚えている限りでは…最初のほうだとメギドドアーは最上階に行かせないためにデストラップダンジョン化していたこともありますけど最近は割と好意的にノートラップただ階段登って終わりってパターンばっかりでしたので」
「まぁじゃあ結局目指すしかないってわけか」
「そうみたいだね」
「相変わらず煮え切らないなビイトは。もう覚悟を決めるしかないんだ」
「その通りなのですよビイトさま!男に生まれたからには目指すのは底辺よりてっぺん!では制覇するのですぅ!てっぺん目指してレディステディメギドタワーゴー!」
「いい加減な英語聴くのも頭が痛くなるから日本語にしてくれ…ところでわたしは貴様と違ってぶつ切りだからはっきりとは言えないんだがジャッジメントデイ以外で三人で何かするっていうのはもしかして初めてじゃないのか?」
みたまは考えるように虚空に目を泳がせるとすぐにこくこくとうなずいた。
「そう、その通りなのです!たしかに右手左手右目左目右足左足使っても数えきれないぐらいこの世界で過ごしてきましたけど今回が初めてですっみたまたちがそろったことって今回が初めて…なんか記念碑でも立てておきますぅ?お命じとあらば棒ぐらい拾ってくるのですよぅ那烙さんガール!」
「お前ホントはわたしのこと莫迦にしてるだろ!その呼び方が尊敬なわけがない。
とまあ、よかったなビイト。最後の最後でいい土産ができただろ?お前、なにかがあるたびに三人仲良くなんて言っててそのたびにわたしたち二人は世迷言はよせと否定してきたものだが何が起きるかわからないものだな」
ネックウォーマーに顔が隠れていても那烙の表情に浮かんでいるものがはっきりとわかる。笑っている。ビイトもそれにこたえるためにしっかりと頷いた。
「うん…!」
「え、那烙さんガールみたまたち三人が仲良くって…!フレンズ認定ですぅ!?ぐっ」
「言い忘れていたがみたま、わたしは女子男子構わず暴力をふるうことに遠慮がない博愛主義だ。
余計なこと言ってる暇あったらサッサと向かうぞ」
「は、はい!」
答える声の主はビイトのみでみたまはお腹を抑えてよろよろしながら左手の挙手で参加表明だけした。
メギドドアー内部は依然と特に変わった様子はなかった石造りの内部にどこから電源を引いたかわからない蛍光灯がうっすらと輝いている。ただ以前は廊下に飾られていたあの絵だけはきれいさっぱり一枚もなく消え去ってしまっていた。
「あ、あれ…久しぶりのデストラップダンジョンかと思ったけどそんな施されたことないのですぅ?」
拍子抜けしたみたまはきょろきょろとそちらこちらを見まわす。
「まだわからん、ここはわたしの生活スペースだからな」
恐る恐るとビイトは手を挙げた。
「あの、ちなみにデストラップダンジョンって今までどんな感じのことが…」
「あ、ビイトさまは大丈夫ですよぅ。デストラップダンジョンの罠って大体がみたま絶対殺すトラップばっかりでしたので。それにもうビイトさまは知ってるかと思いますが那烙さんガールは世界の恋人、絶対死なないガールでも同時にありますからね」
「人を化け物みたいに言うな、だいたいお前だって死なないんだろうが」
「いえ、みたまは違います。みたまはリセットがされていないだけですから。ビイトさまはみたまを那烙さんガールとは違った意味で特別と思っていてくれていますが、それは監視者というか先導者なのですぅ。だからそこに不死性はありません」
「マジか…にしてもトラップの大半はみたま狙いってことはお前よっぽど嫌われてるんだな」
「まぁ…いつでもビイトさまは扉を開けることを望んでいませんでしたし」
そこで目を伏せられるとビイトにも罪悪感が沸くのを抑えることはできない。いくら今のビイトに身に覚えのないことでもふたりに言わせればビイトが扉を開けることを拒絶し続けているのがすべての原因であるようだった。それでもここで今回こそ扉を開けて見せるから、と宣言できる覚悟は固まってはいなかった。流されて来てしまってここにる。まだ扉を開けるだけの理由を自分に見つけることがビイトにはできていない。
「それより那烙さんガールは本当に扉を開けることに協力してくれるんですか?だってそれは…」
「勘違いするな、わたしは別に扉を開けようと思っていない。ビイトがそうしたいならそれでいいってだけだ」
「そうですか」
ふたりの会話にうかつに口をはさむことはビイトにとっては命取りになる。というよりもビイト自身が気持ちを固められないまま来ているのにそれぞれの覚悟を挑んで臨んでいる二人にどんな言葉をかけるというのだろう。
会話はそこで終わると那烙は一人つかつかと歩き出した。二人は慌ててそれについていく。
「問題はこいつだ」
振り返った那烙が大きく手を広げる。階段につながるであろう塔の中心。そこには白と黒と時計盤の意匠が施された扉がある。中央に切れ目があり、そこには穴が開いていた。その穴の形は一言でいえば手形であり、大きさ的にはここにいる誰の手の平でも入るように思えるがふさわしい手の平など一つしかないことが三人には瞬時に理解できた。
二人の視線を注がれるビイトは一つ頷くと右手の黒手袋をゆっくりとはずす。
「ここまで連れてきてしまったがビイト、お前は斜塔を登る、それが決断で良いんだな?
この階段の先、その果ての頂上にあるのは真の意味でのメギドドアーだ。ならそこに行く理由は一つ、扉を開ける、それだけだ。わかるだろ?」
「今は、ただ先に進まなきゃ…」
「びいとさまぁ!」
みたまは感激の声を漏らすが那烙はただ黙っている。その行動の先を見守るだけに留めている。
剥き出しのイルフィンガーは変わらずその五指はねじくれ節くれだって歪んでいる。茶色を煮詰めたような色のその手の平を手形に押し込めると大方の予想通りそれを鍵として扉は左右にゆっくりと開く。そこからはなお一層照明が薄暗く落とされた、数メートル先も闇に飲まれた階段が広がっていた。
こういう時に肌を撫でるのは冷たい空気であるはずだが真逆で溢れ出してきたのは生ぬるい空気、そして鼻腔をくすぐるのは脂のような錆びた鉄のような、生臭さと血の臭いが混じり合ったものだ。そして濡れた塊を引きずるようなズルズルとした気配、粘液が滴るようなべちゃべちゃとした音、喉の奥から酸っぱいものがこみ上げてき始める。
ビイトはそのまま身を震わせ呼吸を繰り返すだけで一歩目を踏み出す重みを耐えれずにいた。手袋をはめたままの左手がぎゅっと握りしめられる。振り返るとみたまの顔がそこにあった。
「大丈夫なのです。行きましょう」
「まぁそういうことだな」
那烙はビイトの右手を取ることはしなかった。ただ手袋をつけなおすのを待っていただけだ。そして3人は階段を登り始める。石の階段を学校指定の革靴で上がるのだからその音は響きそうなものだが実際それがかき消されるほどの異音は相変わらず上からは響き続けている。一歩登るたびにどうしてこんなところにいるのかと足が震えだす。ビイトは左手を握るみたまの右手に支えられながらなんとか足を進める。
登りきった先は別世界だった。今までいた場所は確かに斜塔を外から見たものと同じ、内装は石に囲まれフロアだった。
入り込んだのはフロアを一つぶち抜いたような広い空間。ここはまるで内臓の中に迷い込んでしまったようだ。壁、床、天井どれもがピンク色の肉がびくびくと脈打っている。粘液に覆われたそれはぬらぬらと光っている。そのあちらこちらにひび割れたような赤い筋、血管らしきものがはしっている。そこかしこにはいくつも2~3センチの切れ込みが入っていた。階段に漂っていた臭いは濃さを増し荒れ狂うようにフロアに充満し全身に絡みつく。鼻腔だけにとどまらず全身の毛穴から侵入するそれに、そして目の前の光景に圧倒されただ立ち尽くした。照明はどこにも見当たらないのに薄暗い明りが臓内を照らしている。肉の床には弾力が無いようで革靴のかかとが雪の上を歩くようにずぶりと沈む。
目の前にはいくつもの化け物が蠢いている。が、そのすべてが侵入者たる3人に何の反応も示さずただずるずるびちゃびちゃとそれぞれが勝手に歩き回っているように見える。
「ぐっうぐっうぅう…」
ビイトは口元を抑えながら必死で立ち続ける。涙がにじむ。
「あれは…たしか廊下に飾られていたやつなのですぅ」
「間違いないな。なるほど、リアルに存在するとああなるのか…アウトサイダーアートの賜物だな」
かつて目にしたあの異形図、そのモノたちが這い出してきたとしか思えない有様だった。ビイトや那烙が着ている学生服と同じものを来た化け物どもは首から下だけでいえば普通の人間と何ら変わらない。そこにすげられた頭だけだ。バラバラに、そして大量に用意された顔のパーツ、指、性器など。それを乱雑に顔に詰め込まれただけの姿の化け物たち。それはあの男の悪意の象徴だ。
フロアの奥には階段が見える。扉も何もない。ただこの空間を突っ切っていくだけだ。戻らないならば、逃げ出さないならば。それはもう覚悟を決めるしかない。このフロアに足を踏み入れるのだ。那烙もみたまもきっとビイトにそれを求めている。だから。
肯定を求めるようにビイトは振り返る。みたまはぎゅっと胸の前で拳をそろえて頷いた。あれはよくみたまがやっていたファイト、頑張れ、のポーズ。気の抜けてしまうようなそれだがビイトに一歩を踏み出させるには十分だ。次に那烙。那烙はというと表情を変えることはなかった。笑顔も見せず、嫌悪感も見せず、ただ問いかけるような。いやその視線は問い詰めている。ビイトはへたくそな嘘がすでに見抜かれているのに吐き続けるしかない居心地の悪さにすぐに視線を外して向き直る。
行くしかない。行くしかないんだ。それが二人の意思、願い。
勇気と履き違えた自殺志願。その一歩を踏み込んだ瞬間、すべての化け物が動きを止めた。
化け物たちの目はビイトに注がれる。壁、床、天井フロア中に刻まれた切れ込みが一斉に開く。眼だ。血走った目。その視線全てもビイトに注がれる。
化け物たちは口を大きく開く。あまりにも大きく開きすぎたため頬の肉が千切れ糸のように残った数本の筋でつながっているだけだ。その空間から覗いた黄ばんだ歯が震える。
咆哮だと思ったその音が嘲笑だと気づくのに時間はかからなかった。その音が釘を打ち込むようにビイトの頭蓋をぐらんぐらんと揺らし、その向けられた目全てにはビイトの真っ赤な姿が映されている。それと同時にあの黒いボサボサ髪の男も重なるように映し出されている。にやけた面。不快感。悪意。そのすべてにビイトは閉じ込められ意識の糸が切れ落ちていく。巡っていく。斜塔の果てへと。




