03
青々とした空に、雪解けの澄んだ薫りの風が春明を撫でる。
まだ水の張られていない田んぼの合間を這うように舗装された、細い道を春明は駆けていく。〈農耕車優先〉の標識が掲げられている。
一面田んぼが広がっていて、遠くには小さな林と民家が点々とある。
遠くにはまだ雪が残っている山々が望める。畦の上に置いただけのような線路に、二両だけの電車がのろのろと走っている。車といえば軽トラがたまに、とことこ通る程度だ。
春明の通っている学校は、林を抜けた先にある。
吾妻家から学校までは、結構な距離がある。春明がいつもの時間、家族の支度と見送りを終えた時間に家を出ると、速足あるいは走って行かないと間に合わない距離だった。
学校に着いてやっと一息つける、これが春明の毎日だった。
朝礼に間に合った春明は、教室にはいるや誰とも挨拶せず、席に着いてすぐ机に突っ伏した。
春明の通っている高校は、市内でも一番規模の大きい共学の学校で、春明はその学校の四組で、席は窓側の一番後ろ角だった。
クラスの中の春明は、特に嫌われているでもないが、よくからかわれたりしていた。
家族のことでいつも時間に追われている春明は、学校が終わった後に級友とどこかへ出掛ける事もなく、また連日のアルバイトで疲れ切っていて、空いた時間は体を休めている。
その為、これといった仲の良い友人もいなく、クラスでも浮いた存在だった。
例のごとく春明は、休み時間は突っ伏して、必要最低限以外は誰とも話さず午前中を終えた。
昼休み、春明は校庭の脇にあるベンチで昼食をとり、そのまま昼寝するのが常だった。その場所は学校の敷地の隅にあり、隣接した建物の日陰になっていて、春明以外に好んでくる生徒はいなかった。暗くて人気の無いこの場所は、一人でゆっくりと休みたい春明にとって絶好の場所だった。
いつものように春明は、総菜パンと学校の自販機で買った黒ゴマオレで昼食を済ますと、ベンチに寝そべって、目を閉じた。
茂り始めた木々が、湿り気を帯びた風に吹かれて、かさかさと音をたてる。体育館からは、ゴムの擦れる音と、楽しげな嬌声が聞こえる。どの音も心地よく、うつらうつらと春明の意識は遠くなる。
この時間だけは、家族のことや将来のことなど、心配事は全て忘れることができる。
春明は眠りに落ちた。
ふと、春明は体を揺すられていることに気付く。
寝ぼけた頭に、やたら通った声が響く。
「吾妻、吾妻春明。聞こえてるでしょ。起きなさいよ」
午睡を起こされた春明は少し機嫌を損ね、顔をしかめる。
春明はまだ光を受け付けない眼を細めて、声のした方を見ると、ベンチのすぐ傍にぼんやりと人が立っているのがわかった。
誰だろうか、俺に話しかけてくるなんて。目を擦りながら春明は思った
段々と意識と視界がはっきりしてくるとそれが誰だかわかった。
同じクラスの霜月沙織だった。
春明は相手が汐織とわかると、あからさまにゆっくりと体を起こして、頭をぽりぽりと掻きながら口を開いた。
「なんか用事か。わざわざ起こしてりして」
顔も合わせずそっぽを向きながら喋る、春明のふて腐れた口調と態度など、まったく気にしていないかのように、詩織は表情も変えず淡々と答える。
「授業、遅刻しないでよね。私、日直だから。迷惑かけないでよ」
「なんだよ今更。今まで五限に遅刻したことなんて殆どないだろう」
汐織はそれに答えない。
無表情で用件だけ言うと、汐織は颯々と校舎へ帰っていた。
春明は汐織がいなくなると、糸が切れたようにがくりと項垂れ、ため息を吐いた。
――やっぱり嫌われてるんだな
そう考え春明は、また一つため息をつく。
春明は自分に自信が無く、女子には総じて嫌われていると思っていた。
その理由の一つに沙織の態度、そして二つ目の中学時代のあだ名〈下から三番目の男〉が主な原因だった。あだ名の由来は、春明が中学二年生の時、同じクラスの女子たちが気まぐれに始めた〈男子ランキング〉なる残酷な催しごとで、見事下から三番目に選ばれたことに依る。春明はランキングなど気にしないそぶりだったが、内心かなり気にしていて、その後数か月は落ちこんでいた。クラスの女子たちは、〈ワーストスリー〉だの〈第三の男〉だの好き勝手に陰で、揶揄してはくすくすと笑っていた。これまた春明を深く傷つけ、落ちこませた。この出来事以来、春明は女子を苦手とし、避けるようになった。
携帯で時間を確認するとまだ時間に少し余裕があった。
春明はまたベンチに横になった。
澄みきった青空を見上げながら、霜月汐織のことを考えた。