11
時は五月に戻る。
――吾妻、吾妻!起きろ。
ふと、春明は自分が呼ばれていることに気が付く。
目を覚ますと、左頬がじんわりと熱い。
寝ぼけながら机から顔を上げると、すぐ隣に越谷が立っていた。
「越谷先生、どうしたんですか」
「どうしたんですかじゃないだろう。それはこっちの台詞だ。もう完全下校時間になっているぞ」
春明は自分がいつの間にか寝ていたことに気付く。
どのくらい時間がたったのだろううか。
教室の中は薄暗く、窓から見える空は紫に染まっていた。
春明は、晴れた左頬を擦りながら立ち上がる。
夕方の出来事を思い出して顔をしかめる。
そうだ、汐織に頬を打たれたんだった。
春明は、大きくため息を吐く。
春明の様子を見て、越谷は察したように言う。
「まぁ、長い人生駄目な時もあるさ。あまり落ちこむなよ」
「はぁ」
春明はあからさまに落ち込んでいる。
「とりあえず今日はもう帰って、さっさと寝た方がいいぞ」
「はい、それじゃ失礼します」
「ああ、相談ならまたいつでものるからな」
手を振る越谷に春明は一礼して教室をあとにした。
春明が家に帰ると、家族から赤く腫れた左頬について、質問が雨のように浴びせられた。
「にぃちゃんどうしたの、ほっぺが赤いよ」
弟妹たちが騒ぎ立てる。
春明は恥ずかしくて説明などできない。
春明は夕食を済ますとさっさと部屋に籠った。
陽子は、学校で春明の身に起きたことを察したが、今はそっとしておくことにした。
部屋に籠った春明は、今日学校でのことを反省していた。
布団の上に横になる。畳の匂いが春明を落ち着ける。
言葉が悪かった。ちゃんと、正直に事情を話すべきだったんだ。
明日、汐織に謝ろう。
無視されたり断れらたらもう諦めよう。
しつこいのは迷惑だろう。
春明はため息を吐きながら、目を瞑った。
翌日、昼休み。
春明は、汐織に謝るタイミングを計っていた。
手紙は駄目だ、場所と時間を決めても霜月が来ないかもしれない。
前回はこの手で、呼んだんだが、今回は汐織も感情的になっているから、もうこの手は駄目だ。
メールアドレスもわからない。つまり直接会って話すしかない。
春明は自分の席でパンを食べながら汐織の様子をうかがっている。
汐織はひとりで弁当を食べていた。
も春明と同じく、友達は少なく、大体昼は一人で過ごしていた。
ちょうど、教室内の生徒が少なくなった。
春明はなるべく自然な感じで汐織へと近づく。
「あの、ちょっと話があるんだけど」
汐織は答えずに、黙々と弁当を食べている。
春明はそのまま続ける。
「昨日はすまなかった。事情を説明しなかったおれが完全に悪い」
春明は頭を下げる。周囲から視線を感じる。
汐織も周囲の視線に気づいて、箸を止めて春明に向き直る。
「今、こんなところで話さなくてもいいでしょう」と苛立たしげに、春明にだけ聞こえるような小声で言った。
「わかってるよ、放課後、校庭の角のいつも俺が寝ているベンチに来てくれ」
汐織はその言葉を聞くと、黙ってまた弁当を食べ始める。
春明はそれを肯定ととって、自分の席に戻った。
放課後、春明は約束の場所のベンチで横になっていた。
風が涼しい心地よい夕方だった。
運動部の忙しない声や音が、春明の眠けを誘う。
うつらうつらとしてる春明の耳に凛とした声が響く。
「人を呼んでおいて居眠りとは、どういうつもりかしら」
汐織は苛立たしげに腰に手をあてながら立っていた。
春明は慌てて起きると、立ち上がり汐織に向き直る。
「いや、昨日は本当にすまなかった」
春明はまず最初に謝った。
「もうそれはいいから、早く用件だけ言ってよ」
と、汐織はいつものようにつんけんと言った。
「あ、ああ、わかった」
春明は、緊張した面持ちで言葉を始める。
「突拍子もない話だから、信じてもらえないかもしれないけど…」
春明は叔父の出した条件の事を話し終えた。
春明の額には、大粒の汗が点々と浮かんでいた。
汐織は、春明が話している間中ずっと表情を変えずに聞いていた。
「信じられないわね」
呆れたように大げさな身振りをして、汐織は言った。
春明は黙って汐織の言葉を待つ。
「それに」と汐織は続けて、
「もし本当だったとしても、それはあなた個人の力でどうにかするべきでしょう」
春明は、ぐうの音も出ない。口を固く結んで汐織の話を聞いている。
「私が協力するっていったって、何をどうすればいいのよ」
汐織は引っ切り無しに続けて、春明に言葉を浴びせる。
「それに、人に頼りっぱなしじゃ結局、あなた自身は変わらないんじゃないの」
春明は、おずおずと口を開く。
「それはわかってる…。ただ、切っ掛けとして誰かの協力が必要だと思って」
「それで、なんで私なの?」
「知ってるだろ、俺が友達いないこと」
「それじゃあ、まず友達をつくることから始めるのね」
「それは俺も考えたさ。だけど…あんまり時間をかけるのは…」
そう言うと、春明は俯いて黙ってしまった。
その様子を見た汐織は、呆れてため息を吐く。
「あなた今日もどうせバイトなんでしょ。ほら、早く行きなさいよ。遅刻するわよ」
「いや、時間はまだ大丈夫だけど」
汐織はもう話すことは無いといったふうに、腕を組んで黙る。
「それじゃ、私もう行くから」
汐織は体を翻して、すたすたと速足に歩いていく。
そんな汐織の後ろ姿を春明は黙って見ているだけだった。




