前日
開店の前日は、朝から搬入だった。今日中に、古い店の中身を全部この角へ移して、明日の朝そのまま売れる形にする。
ガロの班が、棚と蔵の荷を順に運び込んでいく。木箱は、棚に納まるまで一度も音を立てなかった。
「静かだな」
「他人の荷物だと思って扱える奴しか、採ってねえからな。それより大将、蔵の並びはどうする」
「塩と鉄を手前。奥に燻製の樽。回転の速い順だ」
「へいへい。……しかしまあ、随分でかくなっちまったなぁ」
祭りの下働きの頃から、うちの荷はずっとこの男が担いできた。礼を口に出すかわりに、今日の昼飯は俺が持つことにした。
「棚の一番目は塩で、伝票も切ってあります」とコウ。
「ああ」
うちの商いは塩から始まっている。言うまでもなかった。
昼にはミレイユが来て、売り場をひと回りして、迷わず一番奥のいい棚の前に立った。
「ここね」
思えば去年、出資の名簿を断った日に交わした約束がある。店ができたら、薬の棚は一番いい場所。棚代は取っていいから、一番いい場所——彼女はそれを、1日も忘れていなかったらしい。
「約束どおりだ。棚代は取るよ」
「取っていいって言ったでしょ。相場でね。……うん、いいお店ね」
ミレイユは棚板を指でなぞってから、続けた。
「配分の計算書は月末に持ってくる。新しい店の分の欄、もう増やしてあるから」
「増やしてあるなら、いい」
帳面の欄を増やして祝うのが、この人の流儀だ。
夕方、テツジンが荷を1つだけ提げて現れた。布を解くと、短剣が1本。蒼晶入りの鋼の、二号だという。
試作の一号をもらった冬、二号は買う、定価でな、と約束した。それも覚えられていた。
「値札は書いてきたぞ。値引きはしねえからな」
札には6800とある。
「下げさせる気もない」
帳場の引き出しから6800を数えて払った。テツジンは受け取りを確かめて、それだけで帰りかけて、戸口で一度だけ振り向いた。
「いい店だ。火の入る前の炉に似てる」
職人の褒め方だった。短剣は売り物の段の、一番目に置いた。
日が落ちて、搬入が終わった。ユキハが戸口から顔だけ出す。
「明日は、護衛じゃなくて客で行く。矢をひと束」
「まいど」
「ん」
それだけ言って帰っていった。
ムギと後輩は、新しい黒板の前で朝の段取りを合わせていた。
「最初の1行は、決めてるんです」とムギが言った。
「何て書く」
「うちの棚は、朝の値段を昼まで変えません。前の店の壁にあった、あの1行です」
「いい。一番上に書いてくれ」
去年、朝の値段で銅貨を数えてきたら足りなかった、と言ったのはこの子だ。その一言で壁に書いた1行を、今度は本人が新しい黒板に書く。
夜には、島からの荷が着いた。燻製の樽のほかに、祝いの文と、干した魚がひと箱。燻製は売り物だから、祝いは別の物にした、と文にあった。
開店の触れは、派手には打っていない。前の店の相場表の隅に、コウが1行だけ書いた。明日の朝、北の角で開けます、値段は相場表の通り。触れというより業務連絡だが、うちの客は毎朝、あの表を見てから買いに来る。これで届く。
最後に残った仕事が、値札書きだ。
コウが書きましょうかと言うのを、今夜だけは断った。初めて露店を開いた日、砥石の値札を板切れに手で書いた。1個11ゼル。祭りの朝も、値札だけは大きく、読みやすく、自分で書いた。
あの板切れ1枚から、この店まで来た。だから最初の朝の値札は、全部俺の手で書く。明日からは、コウとムギの字でいい。
塩、12。矢、砥石、干し肉、傷薬、縄、松明。薬の棚、燻製の樽、金物の段。書き終えて数えたら、札は48枚あった。露店の日は1枚だった。
書きながら、思い出したことがある。最初の露店の晩、値札の数字をひとつ書き損じて、板を裏返して書き直した。今夜は48枚、1枚も書き損じていない。うまくなったのは字じゃない。値段を決めるまでに、迷わなくなったほうだ。
書き終えて、コウと最後の検算をした。
「開店の棚、仕入れで12万。現金6万。造作8万。権利が142万。締めて、168万です」
「よし。……帳場は、頼んだぞ」
「はい。ソーマさんは、明日は何を」
「店主の仕事だ。戸を開けて、最初の客に礼を言う」
コウは笑って、明日の釣り銭の銅貨を数え始めた。
灯を消す前に、一人で売り場を見回った。
棚と、相場表と、蔵。品を売る場所と、値段を見せる場所と、次に出す荷を置いておく場所。二等地の店で言葉にした店の形が、一等地の角で、ひと回り大きくなって立っている。
明日の朝、戸を開ける。それだけのことのために、500ゼルから一年歩いてきた。
戸の外では、屋台の連中が何人か、通りの幅を歩数で測っていた。明日の場所取りらしい。断ったはずの開店の祭りが、通りのほうから勝手に来るようだ。来る客は拒まない。うちは、そういう店だ。
帳場に戻って、椅子に座った。値札は書き終えた。釣り銭も数えてある。やることは、もう何も残っていない。それでも、すぐには立てなかった。
去年の秋、124万の札に負けた夜から、一等地に自分の店を持つ日のことを何度も考えてきた。その店の帳場に、いま座っている。明日の朝、この戸を開けて、最初の客に礼を言う。そこまでを頭の中で一度なぞってから、灯を消して、鍵を回した。
値札板。塩12、串焼き2本で10、宿代60。
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【行商人の帳面 その77】
・棚卸しは、始める前の夜にやる。数え終えた棚だけが、朝を落ち着いて迎えられる。
・最初の値札は自分の手で書く。明日からは人の字で回る。その順番でいい。
・【資産】168万。現金6万、棚12万、造作8万、権利142万。
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