第38話 運搬人が足りない
一等地の角に、受付の机が出ていた。
絨毯商の店は、もう空だった。がらんとした床に、板が3枚、立てかけてある。奥で釘を打つ音がして、通りには木屑の匂いが出ていた。戸口の机に「荷役組合 受付」と紙が貼られ、その前に、列ができていた。
列の3人目に、見た顔があった。
春から、うちの荷役班にいた若いのだ。元買い子じゃない。定期便を始めた週に、「ここは休んでもクビにならないのか」と聞いてきた、あの採掘プレイヤー。
受付で、名前を書いていた。書き終えて、机の上の規則の紙を、指で追って読んでいた。
俺の位置からも、紙の見出しは読めた。「日当」「休み」「怪我」「辞めたあと」。4つの見出しの下に、それぞれ3行ずつ。
うちの発着場に、その紙はない。休んでいい、とは口で言った。怪我をした日の日当がどうなるかは、話したことがなかった。
目が合った。彼は小さく会釈して、列に戻った。会釈は、辞めた人間の会釈じゃなかった。移った人間の会釈だった。
人が、高い日当と、紙に書かれた規則のほうへ歩いている。
俺は声をかけなかった。角の向かいで、ハルトマンの絨毯を積んでいた荷車が、今は空で止まっていた。
◇
「二人辞めて、今朝で3人だ」
発着場で、ガロは配車表に線を引いていた。辞めた名前の上に、1本ずつ。
「うちの日当は120で止まってた。向こうは180に飯と組合。若いのが、どっちを選ぶかは見えてる」
「180に上げる」
発着場の1便の純利は、それで600から480に落ちる。2割減だ。でも人がいなければ、便そのものが止まる。止まった便の利はゼロだ。480とゼロなら、480を取る。
「上げても、たぶん足りねえ」
「なんで」
「若いのが辞めるのは、日当の話だけじゃねえからだ。話を聞きに行け。〈荷担ぎ〉の頭のところに」
◇
バッソは、荷台に腰を下ろしたまま話した。運搬専門のクラン〈荷担ぎ〉の頭。20人、全員が戦闘職を捨てて荷で食っている。腕の太さが、ガロと同じだった。
「うちの若いのが3人、あんたのとこに居たな」
「二人、アルカのところに移った」
「だろうな」
バッソは、荷台の縁を、指の節で叩いた。荷台には麻袋が3つ、荷札が外向きに結んである。ガロの結び方だった。
「いい縛りだ。おれが教えた」
「ガロに?」
「ガロが、うちの若いのに。若いのが、おれに見せた」
「若いのが聞くのは、日当のあとに『で、来月もあるのか』だ」
「火曜と金曜は止めない」
「それは知ってる。あんたのとこは半年、便が止まってねえ。——でもな。若いのは、次にこう聞く。『あの人が辞めたら?』」
掲示板で見た言葉だった。俺が辞めたら便はどうなるか。答えを、あの夜の俺は持っていなかった。今も、ない。
「……辞めたら、たぶん止まる」
「だろうな。正直で助かる」
バッソは荷台から降りた。
「アルカのところは、アルカが辞めても残るように作ってる。組合に頭が3人。日当の決め方は規則で書いてある。うちの若いのは、そういうのを見てる」
「規則で書いた日当、か」
「あんたのとこは、配車も日当も休みも、全部あんたの手帳の中だ。——あんたが居なくなった日に、手帳も一緒に消える。若いのは、それを怖がってる」
「若いのを回すなら」
「日当より先に、紙だ。誰が辞めても変わらない決まりを、紙に書け。日当は、その紙の1行目にすぎねえ」
◇
帰りの御者台で、ユキハに聞いた。
「俺が辞めたら、この便は止まると思うか」
「止まる」
即答だった。
「……50回、乗ってるのに」
「50回、隣に座ってただけ。配車表も、契約の紙も、仕入れ先の名前も、全部あなたの手帳でしょ。わたし、火曜にどの倉庫で何を積むか、あなたに聞かないと分からない。50回乗っても、あなたがいなければ1回も出せない」
ユキハは、手袋を外して、膝に置いた。
「弓道部の主将が卒業するとき、一番困るのは、練習の組み方が主将の頭の中にしかないこと。だから、うちの部は練習帳を作った。誰が主将でも、同じ練習ができるように」
「練習帳」
「あなたの手帳を、あなた以外が読めるようにするってこと。それが、バッソさんの言う紙でしょ」
発着場の灯りが見えてきた。夕方の風が、先週より冷たい。
「それと。さっき辞めた子、受付で規則を読んでたでしょ。日当の欄じゃなくて、『休み』の欄を2回読んでた」
俺は、名前を書く手しか見ていなかった。
◇
夜、手帳を開いた。
半年分。仕入れ先の名前と値段。契約の条件。配車表。倉庫の在庫。契約先12件の名簿。秋の塩の季節表。硫黄石の仲介の記録。店の固定費。
全部、俺の字で、俺にしか読めない順番で書いてある。
日当は180に上げた。発着場の掲示板に、自分の字で札を書いて、アルカの札の隣に貼った。糊が、指についた。
それで荷役は、たぶん来る。でも「来月もあるか」には、日当では答えられない。「あんたが辞めたら」にも。答えられるのは、紙に書いた決まりだけだ。
手帳を、閉じなかった。机の上に、開いたまま置いた。
翌朝、その手帳を、発着場に持っていった。中身を、俺以外の人間に渡すためだ。
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【行商人の帳面 その38】
・人手にも値段がある。需要が増えれば日当が上がり、人は高いほうへ歩く。これが労働市場。
・日当120が180になった。募集の札5枚を古い順に並べると、1か月の値動きが読める。
・若い運搬人が読むのは日当の欄でなく「休み」の欄。金で答えられない問いが、そこにある。
・一人の手帳の中にしかない仕組みは、その人が居なくなれば消える。紙に書いた決まりは、残る。
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