第22話 誰も斬らずに終わる戦
買い占めが4週目に入った頃には、奇妙な膠着が誰の目にも見えていた。
競売所の表示相場は高止まりしたまま。なのに、街の暮らしはほとんど元通り。定価販売所の列は毎日一定で、契約網の工房は納期どおりに剣を打ち、ミレイユの釜は今日も回っている。高いのは「板の上の数字」だけで、その数字で物を買う人間が、どこにもいない。
嵐は上空で吹き続けているのに、地上は凪。そういう3週間だった。
凪の間に、もう一つのことが静かに起きていた。
草が19ゼルなら、と草原に出る初心者が倍に増えた。鉄が70なら、と坑道に潜る採掘者が増えた。ミレイユの工房は、アカツキ草の代わりに使える「ヨモギモドキ」という安い草でポーションの下位版を試作して、20ゼルで売り始めた。誰に頼まれたわけでもない。高い値段が、人を動かしただけだ。
講義で習った言葉なら、市場の自己修復だ。値が上がれば、作る人が増える。代わりの品が出てくる。運ぶ人が現れる。囲った側が一番見落とすのは、この「高くなったから湧いてくる供給」だ。教科書には「長期的には」と書いてある。現場では、3週間だった。
崩壊は、内側から始まった。
後で聞いた話をつなぐと、こうなる。
ヴァンガードの買い占め在庫は、メンバーからの出資で買われていた。「相場が3倍になったら山分け」という触れ込みで、1200人が有り金を出した。帳簿の上では、確かに3倍になっていた。競売所の表示価格では。
だが3週目、若いメンバーの一人が気づいてしまった。
——表示価格で、売れた例がない。
定価販売所がある限り、90のポーションを買う客はいない。売れない在庫の評価額は、ただの数字だ。彼は自分の出資分の在庫を、こっそり相場より下の65で売りに出した。それでも仕入れよりは高い。逃げ切れる、最後の一人でなければ。
65の売りは、即座に他のメンバーの画面に映った。
「誰だ抜け駆けしたの」と怒るより早く、次の一人が60を切った。その次は55。自分以外の全員が売り始めたら、最後まで持っていた奴が全部かぶる。全員がそれを知っていた。だから、全員が売った。
金曜の夜から土曜の朝にかけて、鉄鉱石の相場は70から38へ、昼には29へ落ちた。ポーションは90から40。アカツキ草は19から5ゼル。
買い支えようにも、クランの資金は在庫に変わり果てていた。ゼノヴィスは配信で「一時的な調整」と言った。その配信の裏で、メンバーの投げ売りは続いた。
一番手を最初に責めたのは、2番手と3番手だったらしい。「抜け駆けは除名だ」と。でも除名の脅しは、金の恐怖には勝てない。4番手からは、もう誰も誰かを責めなかった。責める時間で売った。
1200人を一つにまとめていたのは、レイドの勝利だった。買い占めの勝利は、まだ一度も配当されていない紙の上の数字で——紙の上の団結は、紙の上の損失で破れる。ゼノヴィスがどれだけ強くても、1200人の「自分だけは逃げたい」を斬ることはできない。斬る相手が、いないからだ。
俺はといえば、その夜、何もしなかった。
売り崩したわけでも、買い向かったわけでもない。定価販売所の棚を補充して、火曜の定期便の配車表を確認して、寝た。
正確には、寝る前に一つだけ誘惑があった。暴落の途中で買い戻せば、うちの在庫は安く積み増せる。板に並んだ投げ売りの鉄、29ゼル。定価の32より安い。買いか?
——やめた。今うちが買い向かえば、暴落は途中で止まる。ヴァンガードの在庫に「まだ売れる」という希望が残る。希望が残れば、あいつらはまた囲いに来る。市場の熱は、下がりきるまで触らないほうがいい。それに、恐怖の中で拾う3ゼルより、平時に契約で積む5ゼルのほうが、うちの商売の柄に合ってる。
柄じゃない金は、取りに行かない。攻城戦の授業料で買った規則が、最初の衝動を30秒で処理してくれた。授業料の元は、取れてるらしい。
日曜の朝、スターディアの販売所には、いつも通りの列があった。列の長さも、いつも通りだった。相場が壊れても、草を使う人間の数は変わらない。
店番頭の少年が、開店の札を掛けながら聞いてきた。
「ねえ、相場戻ったんでしょ? 販売所、もう畳むの?」
「いや、続ける。上限は外して、値段は市場に合わせて。——騒ぎの間だけ開いてる店より、騒ぎが終わっても開いてる店のほうが、信用されるから」
「ふうん。……あのさ、俺、ここの仕事好きだよ。狩人よりずっと向いてた」
そりゃよかった。俺も行商人が向いてた。職業の適性なんて、やってみるまで誰にも分からない。ハズレ職かどうかを決めるのは説明文じゃなくて、選んだ本人の3か月だ。
「なあ」とガロが荷降ろしの手を止めて言った。「これ、俺たちの勝ちなのか?」
「勝ち負けで言うなら、誰も負かしてない。あの人たちは自分の帳簿に負けただけだよ」
「……勝敗が決まった音くらい、すると思ってたんだけどな」
しなかった。最初から最後まで、この戦で音を立てたのは、定価販売所の釣り銭の音だけだった。
御者台で、ユキハが弓を膝に置いたまま言った。
「ねえ。最初の日、わたし『目移りするかも』って言ったでしょ」
「言った」
「しなかった。3週間、70の鉄も19の草も、横目で見てた。でも、しなかった」
「理由は?」
「あなたの店の列が、毎日同じ長さだったから。あれ見てたら、70のほうが嘘に見えた」
「……それ、今日一番の褒め言葉だと思う」
「違う。褒めてない。来月の護衛代の話をしてる」
「また値上げか」
「390ね」
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【行商人の帳面 その22】
・値が上がれば、作る人が増え、代わりの品が出て、運ぶ人が現れる。これが市場の自己修復。
・囲う側が一番見落とすのは「高くなったから湧いてくる供給」。
・1200人の「自分だけは逃げたい」は、誰にも止められない。紙の上の団結は紙の上の損失で破れる。
・暴落の途中で拾わない。柄じゃない金は取りに行かない。
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