第30話 反転の海
【東シナ海・中国軍前線指揮所(海警局大型船内)】
「……タイムオーバーだ。これ以上の遅滞は作戦全体を崩壊させる」
中国軍の指揮官は、血走った目で戦術モニターを睨みつけていた。
非武装の漁船団と海保の巡視船、そして民間業者が築き上げたコンクリートの壁。たったそれだけの「障害物」を前に、彼らは丸一日以上の時間を浪費してしまった。上陸作戦において、初動の24時間を失うことは致命傷を意味する。
「閣下、レーダーに多数の機影! この空域に向けて急速接近中!」
レーダー手が悲鳴のような声を上げた。
「嘉手納基地、およびグアム・アンダーセン空軍基地から米軍機が発進しました! さらに、フィリピン海を北上中の米第7艦隊から、多数の艦載機が発艦した模様です!」
「……アメリカが動いただと!?」
指揮官はコンソールに拳を叩きつけた。
日本政府が中国にすり寄り、自ら武装を解除した時点で、日米同盟は事実上空文化し、米軍は介入の足場を失ったはずだった。しかし、日本の「現場」が法と知恵を駆使して最前線を死守したことで、米軍は堂々と「同盟国の民間人を保護する」という名目で大部隊を動かすことができたのだ。
「もう構わん! 目の前の漁船団と巡視船を吹き飛ばせ! 強行接岸し、米軍が来る前に地対空ミサイル陣地を構築するんだ!」
焦りに駆られた指揮官がついに強硬手段を命じた。
海警船の主砲が、重々しい駆動音を立てて海保の巡視船と漁船団の壁へと照準を合わせる。
【南西諸島・某島主要港湾施設】
「敵船の砲塔が動きました! こちらを狙っています!」
防波堤の陰で警戒に当たっていた県警の機動隊員が、双眼鏡を覗き込みながら叫んだ。
埠頭を封鎖した巨大な消波ブロックの裏側では、元自衛官の作業員たちと機動隊員たちが息を呑んだ。
彼らにはライオットシールドと特殊警棒、せいぜい拳銃しかない。相手の機関砲が火を噴けば、このコンクリートの壁ごと粉砕されることは明白だった。
「総員、壁の裏に伏せろ! 衝撃に備えろ!」
現場監督の男がトランシーバーで怒号を飛ばす。
誰もが死を覚悟し、目を閉じたその瞬間だった。
ドゴォォォォン!!
耳をつんざくような大音響が、上空から降ってきた。
大気が震え、海面が波立つほどの凄まじい衝撃波。それは砲撃の音ではなく、超音速で飛来した戦闘機が「サウンドバリア(音の壁)」を突破した際のソニックブームだった。
「上空を見ろ!」
誰かが叫んだ。
青空を切り裂くように飛来したのは、米海軍および航空自衛隊のマーク……いや、部隊章を黒く塗りつぶした所属不明のF-35Aステルス戦闘機の編隊だった。
彼らは中国の武装船団の頭上をかすめるような超低空飛行で飛び抜け、圧倒的なエンジン音で海面を揺らした。
「警告する。貴艦は現在、日米共同の防衛識別圏内において不法な軍事行動を取ろうとしている。直ちに武装を解除し退去せよ。さもなくば、これを敵対行為とみなし、撃沈する」
日米両言語、そして中国語による無慈悲な警告通信が、中国船団の全周波数に割り込んで響き渡った。
水平線の向こうには、イージス駆逐艦の威圧的なシルエットが次々と姿を現し始めていた。
【東京・首相官邸 総理執務室】
「なぜだ! なぜ米軍が動いている! 我々は支援を要請していないぞ!」
総理大臣は、執務室のテレビモニターに映し出される米軍介入の臨時ニュースを見て、半狂乱になっていた。
「どうなっている、防衛省! 警察庁! 貴様ら、裏でアメリカと通じていたのか!」
官房長官も顔を真っ赤にして、ずらりと並んだ事務次官たちを怒鳴りつける。
しかし、官僚たちはどこまでも冷ややかで、事務的だった。
「いえ、政府として米軍への要請は一切行っておりません」
外務事務次官が一歩前に出て、淡々と答えた。
「米軍はあくまで『日米安全保障条約に基づき、日本国内に取り残された米国市民の保護、および同盟国の民間インフラ防衛』という名目で、自主的に展開したと通達してきております」
「そんな言い訳が通用するか! 中国側になんと言い訳すればいいんだ!」
「総理、我々行政機関は現在、中国軍船団の『不法係留』に対する抗議文書を起草中ですが、文言の調整に今しばらく時間を要する見込みです」
言葉尻は丁寧だが、その目は完全に目の前の政治家を見限っていた。
「総理からの『米軍の撤退要求』をワシントンへ送ることも可能ですが、暗号通信のシステムメンテナンスが長引いておりまして、復旧は来週になるかと」
「貴様ら……私をコケにしているのか……!」
総理はその場にへたり込んだ。
日本という巨大な国家のシステムは、この国のトップを完全に「システム外の異物」として孤立させ、機能不全へと追い込んでいた。
もはや、売国的な政治家たちの命令を聞く者は、この国のどこにもいなかった。
国民の「静かなる不服従」が生み出した時間は、太平洋を支配する巨大な同盟の盾を呼び覚まし、ついに反転攻勢の幕が開上がろうとしていた。




